大正九年中期、メーデーは労働祭

江戸・東京庶民の楽しみ 165

大正九年中期、メーデーは労働祭
 五月のニコライエフスク事件、シベリア尼港(現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)でソ連パルチザンが尼港で日本人捕虜などを殺害した。事件の真相は国民には正確に伝えず、世論を激高させることに利用された。政府(軍部)にとって都合の悪いことは隠蔽され、庶民には知らされることは無く、無関心にさせることとなる。また、庶民が気づく前に、他に関心を向けさせるように揺動することになる。それに最も有効なのが娯楽である。その娯楽も、労働祭のような政府の意向に従わなければ禁止され、庶民が参加しないようにされてしまう。

・五月「五月場所初日 大入場は寂しい 選挙疲れか不景気か」十五日付讀賣
 日本初のメーデーは、三日付の新聞(万朝)に、「最初の労働祭演説会 十余団体員上野で火のような気焰」という具合に書かれている。労働者の祭りは、余興を楽しむ運動会ではなくなっていた。同じ紙面に、「新畫の値段は半分に下落した」とある。不景気は美術界に最も鮮明に反映された。映画や芝居はまだそれほどでもないが、相撲にはかなりの影響があったようで、千秋楽にようやく一杯になった程度。二十六日付で、市内の大工場は五月一日以降、すでに69件もの閉鎖、前月も65件の閉鎖があり、この分だと二三カ月後が気遣われると書かれている。
・六月「覿面に不景気を食らった芝居と活動写真、六月興行は非常な不入り」十四日付万朝
 六月に入って、芝居や映画をはじめ、市民のレジャー気運は、梅雨で落ち込んでいる以上の衰退ぶり。元気なのは、十七日付の新聞に紹介されている「市内四千の交換手、日光へ慰安旅行」のような会社あげての活動である。無法なシベリア出兵に巻き込まれてなくなった尼港殉難者大追悼会が、日比谷公園音楽堂前で催された。正しい情報が国民に伝えられていないこともあって、市民の関心は低かった。そのためか、そこにはシベリア出兵の意味がよく分からない東京府内の中学から大学等100余校の学生生徒が参加させられていた。
・七月「去年の景気を夢と語る川開き」十二日付東朝
 年中行事の草市は、十日から銀座通りや上野広小路など五ヶ所に立つ。真菰は12・3銭、籬垣14・5銭、麻幹一束5銭、蓮の葉2銭程度、花は2~5銭、みそはぎ4・5銭などで、前年より安いだろうと推測。芝浦の納涼遊覧会が十日に開会式。挨拶や祝辞の後、模擬店を開き、曽我廼家一座の喜劇・奇術・太神楽などの余興で賑わった。同じ十日、日比谷・上野・芝浦で内閣弾劾国民大会が催された。その模様は、「上野公園両大師前には、早朝より押し寄せたる群衆、午前十時に至って既に数千を以て数えられた」、「芝浦埋立地は群衆三千名」と、「群衆と警官隊 黒門町で大衝突」、日比谷では「上野、芝浦両方面から数万の群衆が一気に殺到するという報告」という凄まじさ。十二日も、精霊棚を設え盆を迎えようとする人々、普選連合会主催の国民大会に、上野公園や芝浦などに参集し警官隊と争う人々、歌舞伎座では「井伊大老」が前例のない大入り満員が続く。東京は、草市や納涼遊覧会の開会式で賑わうのと同じ日に、内閣弾劾国民大会が共存するような複雑な社会状況であった。
 例年であれば大変な賑わいを見せる藪入りも、商店に毎月の定期休業ができてからは、多少控え目、というのが新聞の評。もちろん、浅草は賑やかだが、六区の活動館付近は例年に比べると静かであった。ではどこが人気かというと、上野の南米の展覧会もあったが、やはり京浜電車を利用して大森、羽田、新子安などの海水浴場へと出かける人々が最も多かった。藪入りも変化しつつある。
 三十一日付の新聞(讀賣)に「東京府営水泳場は大繁盛、一番は品川各所逐日増加」と海水浴の季節。品川海岸は泥深く足元が悪いが交通の便がよいことから大入り満員。その他、江戸川・多摩川なども遊泳者が増えている。また五月三十一日付の新聞には、工場の廃棄物による水質汚濁のため「月島の水泳禁止」と、東京での水泳は、月島東海岸と荒川小台渡し付近の二箇所でしか泳げなくなったことが書かれている。隅田川下流も、この頃には著しく環境が悪化し、遊泳場は品川以南の京浜海岸や江戸川、多摩川へと移っていった。また、水泳や水遊びをする人も年々確実に増加している。
 この年の川開きは、早々と十二日付の新聞(東朝)で「去年の景気を夢と語る川開き」と見出しが出ている。ところが天候不順で、日延べが重なり、三十日にやっと開催。しかも、前年に比べて人出は三割減、怪我人が三人と、いささか湿った感じの川開きになった。なお、警察は、順延されたため花火が大祭日と重なり、明治神宮や菊花壇などの仕掛け花火があることから、警官400名が120艘の小船で警戒し、陸上にも350名の巡査を配置した。事故は、迷子4名のほか、せいぜい川の中に8名が転落した程度であった。人出の減少は、不景気もさることながら、名物の浜町河岸より新大橋までの河岸の露店が禁止されたことも影響したのではなかろうか。
・八月「魚河岸のお祭りが七十万円」八日付以下讀賣
 水神祭は不景気の中70万円をかけて行われた。社寺の祭に関する記事が減少している時期に、深川八幡の祭を差し置いて二日間続けて掲載されていることから、かなり盛大であったものと思われる。また、日曜日と定休日が重なった十五日のこと。午前七時頃から八時四十分までの湘南方面への5本の列車に4千人余が乗り込み、鎌倉・江ノ島へと向かった。湘南方面での避暑は年々ふえているが、大衆の海水浴はもっぱら品川から新子安までの近場。なお、同日の六時半発の湘南行夏季臨時列車は、時間が早すぎて2百名足らずの乗車であった。
 同じ紙面に「四十日足らずに 入場者約六万人」、上野竹の台で開催中の南米展覧会は思いのほか人が入っている。展示は南米の物産で、ここを訪れた人の中には南米へ出稼ぎに行こうと考えた人が少なからずいた。実際に出稼ぎの手続きを照会した人は600余人、書面で照会を求めてきた人が2000余人とかなりの反応があった。展覧会を楽しむだけでなく求職もかねていたようだ。同紙面に「目立って増えた月給取りの失業者・・・筋肉労働者を凌ぐ勢い」「無料教授所へ内職のお稽古の婦人が初日から中々の大入」などとの記事もある。
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大正九年(1920年)中期のレジャー関連事象・・・五月ニコライエフスク事件
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5月3読 上野公園で日本最初のメーデー、全国から5千余名
  4万 常盤座「生命の冠」他連日大満員日延べ
  5万 遊楽館「神稲水滸伝」他連日大入り
  15読 五月場所初日 大入場は寂しい 選挙疲れか不景気か
  15万 早大運動場で慶応対シカゴ戦、観客3万人   
  16永 荷風、帝国劇場初日
  17読 晴れ渡った日曜気分 日比谷音楽堂 動物園も賑わう
  18読 「時」展覧会開会、初日5千人入場     
  24読 五月場所、ようやく一杯になった千秋楽 
  31万 日大大講堂で少年少女3万人を集めた少年学校発会式
  31読 月島の水泳禁止
6月14万 覿面に不景気を食らった芝居と活動写真、六月興行は非常な不入り
  16永 荷風虎の門を歩み花屋にて薔薇一鉢を購う
  16読 大宮公園の蛍狩り
  17万 市内四千人の交換手、日光へ慰安旅行  
  24万 明治座「狂い咲き」他連日満員御礼
  26読 築地本願寺内に縁日できる  
  27万 日比谷公園音楽堂前で尼港殉難者大追悼会に府内大学~中学等百余校参加       
  2読 国技館の大納涼園
  5永 荷風、銀座を歩む、虫屋にて邯鄲を買う、その値金一円なり
  10読 お盆の草市十日から立つ
  12万 歌舞伎座「井伊大老」前例なき大入り満員
  16万 藪入り、その一日は矢張り浅草が大賑わい
  17万 麻布南座、初開場の初日は満員御礼 
  19万日 曜日の人出、矢張り浅草
  29永 荷風麻布十番通の夜肆を観る
  31読 浮世絵のような両国川開き、前年の人出に及ばず
  31読 東京府営水泳場は大繁盛、一番は品川    
8月8読 魚河岸の水神祭、70万円
  12永 荷風、銀座で夕食、日比谷公園を抜け帰る
  16万 上野の南米展覧会、40日足らずで約6万人の入場
  16万 日曜日と定休日が重なり、湘南行き列車は大賑わい
  25読 本郷座の新星歌劇団三の替り好評連日満員
  26万 御国座、福圓の水中飛込みと冒険劇、満員続き
  31読 ハゼ釣船、乗合船餌付で1円、別仕立4円に値上