前年の奉祝余韻で遊んでいる四年の冬

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)197
前年の奉祝余韻で遊んでいる四年の冬
 昭和4年(1929年)は、一月から張作霖爆殺事件で追求されていた田中内閣、内外とも無策のまま総辞職。代わって浜口内閣が七月に成立するが、枢密院や貴族院の存在、財政の逼迫など前途多難であった。難問を抱える中、十月にニューヨーク株式市場の大暴落からはじまる世界恐慌、浜口内閣の経済政策は為す術を失った。
 不景気は、底辺の労働者だけでなく、大学卒業者の就職難。四月に「大学を出たけれど」という映画が話題となるくらい。ガス・家賃の値下げ運動が盛んになり、秋には芝居や映画の入場料も値下げとなり、不景気はレジャーにも大きな影響を示しはじめた。
 それでも東京は、帝都復興が進められており、カフェー(6,187軒)やバー(1,345軒)などがひしめき、盛り場は盛況であった。また街は、見切り品・特価品・蔵払いなどの名で特売・廉売が日常化して、賑わいを失わなかった。婦人の兎の襟巻きが流行し、『東京行進曲』『紅屋の娘』などが流行歌となった。

凡例
新聞は発行日。日記は記載日・○の数字は日にち。
Aは東京朝日新聞朝刊・aは夕刊
Yは読売朝日新聞朝刊・yは夕刊
Hは東京日日新聞朝刊・hは夕刊
・新聞以外の資料として、次の作家の日記を引用した。
kiは岡本綺堂の日記  
taは高見順の日記
kaは永井荷風の日記
fuは古川ロッパの日記

───────────────────────────────────────────────
昭和四年(1929年)一月、説教強盗に二千人の警官動員⑱、市民レジャーも不景気を反映して低調
───────────────────────────────────────────────
1月5日a 正月の市内の人出は素晴らしく、浅草公園の人出が元日に二十万人
  6日A 三箇日の鉄道での人の動き262万9千人
  7日A 出初式、宮城前広場に全国消防組代表者及び帝都消防隊2万8千2百余名参加し御親閲式。警視庁4日に今年限り廃止と決定
  9日A 「陸軍始観兵式 一万の精鋭御閲兵」
  11日A 「角力春場所 民衆デーに大入りの初日」
  14日A 「奥多摩スケートリンク開き」帝大、慶大等各学校学生生徒「三百余名来場」
  16日A 「暗黒の歓楽境 浅草を浄化せよ」「浮浪人は増加の一方」
  16日A 藪入りの十五日、陽気もよく大相撲六日目満員
  19日A 大相撲「しり上がりに続く大好景気」
  25日A 好評嘖々の公園劇場「月形半平太」果然満都の人気沸騰に大好評、連日満員
  31日A 多摩川原遊園地京王閣、二月の土日及び紀元節、福引デー金5円~10銭
 
 三箇日は天候に恵まれ、鉄道利用者が262万人、市電が325万人、バス(円太郎)が66万人、前年を上回る人出で市内は賑わった。なかでも浅草は元日に「二十万人」、公園内の興行には三箇日で50万円が落ちたと報じている。ただ、不景気を反映してか、浅草では近年にないほどのスリの被害が多かった。
 また、不景気で浅草公園内に浮浪者が増え、「浅草を浄化せよ」との声が上がる。その一方で、公園劇場の『月形半平太』が大好評で連日満員。興行を観客人員から見ると、演劇は前年一月より5%増えているが、映画は7%、寄席は14%も減少している。低所得者の生活は一段と厳しくなっているものと思われる。

───────────────────────────────────────────────
昭和四年(1929年)二月、説教強盗逮捕(23)、「豆まき」より賑わいを増す「建国祭」
───────────────────────────────────────────────
2月3日ka 節分なれば四鄰の妓家豆をまきて賑かなり
  4日a 「賑やかな豆まき きのうの芝増上寺
  10日T 「内閣倒壊民衆大会」、民衆上野を埋む
  11日y 連休で大賑わいの湘南地方、大繁昌な熱海
  12日a 靖国神社明治神宮外苑・上野・芝・浅草・深川の公園など六ヶ所で建国祭、式後「無慮十万の若人が」二重橋前へ大行進
  18日A 東京駅で一等寝台車が車止めを越えて路上に、日曜の人出に騒ぎ
  21日A 遊楽館「白象の如き巨女」の広告
 
 節分には成田に向けて、上野から13本、両国から12本も臨時列車運転の案内。また、川崎大師、穴守稲荷、総持寺などの豆まきの広告もあった。そのため、市内及び周辺の追儺式はさぞかし賑わうものと思われたが、新聞には「きのうの芝増上寺」の写真しか掲載されなかった。それは、故久邇元帥宮の喪儀と重なったためであろう。以後のレジャー関連の報道は少ない。
 行楽とは言えないが、十一日、靖国神社など市内6ヶ所の式場で建国祭。各会場に早朝から在郷軍人青年団、少年団、学生団等々「三百余団体人員実に十万」人が集まる。閉会後は宮城に向けて行進、「沿道を埋めた群衆も思わず行列に和して建国歌や万歳を唱和して、建国気分が都大路の次から次にとみなぎり到るところで電車が停まるような賑やかさ」であった。

───────────────────────────────────────────────
昭和四年(1929年)三月、東京市会選挙⑯、暖かさに誘われて市民レジャーも動きだす
───────────────────────────────────────────────
3月3日T 国技館で台湾博覧会開会
  4日T 健康増進運動で児童無料の多摩川園・豊島園・花月園が賑わう
  6日A 「倒閣の叫び」五日一時より上野動物園前広場に一万五千の集会
  9日A 澤田正二郎の「華やかな追悼告別」に万余の民衆、日比谷音楽堂に溢れる
  11日A 陸軍記念日、九段から日比谷へ日曜の人出の中一千五百名の音楽行進
  17日Y 帝国劇場伊太利歌劇「トルヴァトーレ」初日、半額で満員
  17日ka 市会議員選挙の当日なり、路上酔漢多し
  21日A 「春のモボ、モガ退治」日本橋ビル内のダンスホール手入れ、3名検挙
  22日a 郊外へ郊外へと人の波 午前中に三十万人
  23日A 「国技館の台湾博 益々人気を博す」
  24日A 横浜市公園グランドで早慶新人戦満員一万五千
  25日Y 上野の日本名宝展「実に一万八千」入場者
                                                
 五日、上野動物園前広場で1万5千人によるの倒閣を求める集会があった。八日、新国劇創立者澤田正二郎の「華やかな追悼告別」が日比谷音楽堂で催され、万余の民衆が集まった。十日の陸軍記念日東京市と陸軍音楽隊など1千5百名の音楽隊による音楽行進が、日曜の人出の中を九段から日比谷へと行われた。
 二十一日の朝刊Aに「気もそぞろな旗日のお中日、つみ草の珍品探し」の記事がある。その記事に誘われたかのように、朝から郊外へと向かう電車は何れも満員。省線は、湘南方面に午前中「約30万人」、房総方面へも大勢出かけた。
 郊外電車は、大師・花月園・穴守稲荷等へ向かう京浜電車が約2万人。目黒電車も1万人、多摩川土手はピクニックの親子連れで賑わう。武蔵野電車は飯能、豊島園等へ午前中に2万人、午後には5~6万人に達した。西武電車で村山貯水池等へ午前十時までに5千人の人出。小田原急行を利用して箱根方面、稲田多摩川べりや稲田上り戸の遊園地等へ2万人。京王電車は午前中に10万人、多摩川原に5万人、多摩墓地方面に4万人で、多摩御陵も珍しい賑わいを見せた。京成電車で成田詣りに5万人、国府台や市川などへの乗客は10万以上になるだろうと、書かれている。暖かくなるにしたがって、市民レジャーは活発になっていった。
 いつの間にか、「モボ、モガ」は摘発対象になった。時代の先端であった時もあったのに。この呼び名は、「モダンボーイ・モダンガール」を略したもので、大正時代を象徴するような言葉である。西欧文化に憧れた都会の若者が形成した風俗であり、自由な気風を示す流行現象でもあった。銀座通りを闊歩するモボ・モガは、以後徐々に消えてゆく。