徐々に減少する市民が遊ぶ記事、四年の春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)198
徐々に減少する市民が遊ぶ記事、四年の春
 春先はともかく、その後は市民の遊ぶ姿を記す記事が減少する。紙面を埋めるのは、相撲と野球の記事。話題とはなるものの、実際に観戦するのは市民のほんの一部。梅雨にかけてのこの時期は、行楽などの人出は減少するが、前年に比べてさらに低調なように感じる。
 メーデーの参加者については、昭和二年が5月2日A メーデー、芝の有馬ケ原に26団体62組合労働者約二万人、「平穏に」検束144人。
 昭和三年が5月2日a 「強風、空に鳴って メーデーの意気」と芝公園に「一万五千余の大衆」が集会。
 昭和四年が5月2日a 赤旗黒旗林立して、意気上がるメーデー 一万の大衆示威行列。
 この3年の参加者数は、実際はともかくとして新聞の数字は減少している。その一方で、前年の「代々木原頭の天長節観兵式、拝観者三十万」4月30日yに対し、昭和四年は「代々木原頭で観兵式、一万五千を御閲兵、市民は東西から群がり数十余万」4月30日a、と増加しているように感じられる。                                    ───────────────────────────────────────────────
昭和四年(1929年)四月、松坂屋上野店開店①、共産党弾圧⑯、前年にも増して郊外へと向かう行楽
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4月4日a 「鉄道先づギャフン 大祭日二十五万円の当て外れ 郊外は流石に賑わう」
  8日A 「恨めしい春雨で台なしのお花見」惨めな露店、茶屋
  12日a 満開の桜の下で上野の大騒ぎ、吉宗公合祭式、俳優の素顔出演等々
  14日A 飛鳥山、人出三十万人、昼から夜への底抜け騒ぎ
  15日A 「大うかれの花の日曜 桜に、海に、野外の行楽に 出も出たり人の波」、電車の客だけで百八十万人、どの会社も大ホクホク
  20日Y 日本名宝展終わる、記録破りの入場者
  25日A 靖国神社の大祭始まる
  30日a 代々木原頭で観兵式、一万五千を御閲兵、市民                        は東西から群がり数十余万
                                                
 最初の旗日、三日は前夜の雨に出端をくじかれだが、昼近くには郊外電車の客は増え、動物園や名宝展の開かれている上野、浅草は午後から旗日らしい賑わいとなった。本格的な賑わいは十一日からで、満開の上野で吉宗公合祭式やメートルデー、俳優の素顔出演などがあって春の騒ぎがはじまった。
 十四日は、上野公園に「約三十万人」、動物園に5万人(迷子30余人)。前日の夜桜見物から続く飛鳥山は足の踏み場もないほどで、「総計五十万」(迷子106余人)の人出。芝公園は、増上寺の縁日と重なって「人出まず十万人」。この日の電車の乗客は180万人、その内訳は、東京駅が18万、上野駅30万、新宿駅30万、両国駅5万、浅草駅5万、郊外電車の小田急が25万、京王30万、玉川13万、京成7万、目蒲10万などとなっている。
 二十五日からはじまった靖国神社の祭礼、永井荷風は見世物を見に出かけている。春の人出は続いおり、三十日の日記に「招魂社祭礼猶終らず、花火の響絶えず、近隣雑沓すること甚し」とある。二十九日、代々木原頭の観兵式を見ようと集まった人は「数十余万」。その日は薄曇りで風もなく、「市中到処午前の中より散歩の男女雑沓す」。荷風は「是亦世態変遷の一端を示す」と書いている。

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昭和四年(1929年)五月、東京行進曲のレコード発売①、大相撲を圧倒する六大学リーグ野球人気
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5月2日a 赤旗黒旗林立して、意気上がるメーデー 一万の大衆示威行列
  2日ka 三番町、商舗人家いづれも紅燈国旗を掲ぐ英国皇族の来遊を迎えるがためなり
  6日A グロスター公殿下奉迎の日英ラクビー蹴球戦、共に観戦し四万余の学生団大歓呼
  6日y 目黒春競馬最終日「入場者三万」と
  8日t  トーキー試写会始まる、外国語が問題
  17日a 「国技館の大角力にぎやかな雨の初日」、民衆デー50銭
  19日A 「物すごい人気 早慶の第一戦大観衆外苑に溢れ、警官隊と乱闘す」
  20日A 大相撲は日曜日、早慶戦延期で大入り満員
  21日a 早慶戦第二戦、観衆は第一回戦より多い四万人で入場料も1万5千円を超える
                                                
 五月の人出は、一日のメーデーからはじまった。五日の日曜は、来訪中のグロスター公殿下奉迎の日英ラクビー蹴球戦が神宮外苑競技場で行われた。日比谷公園では朝日新聞社主催の「国際児童デー」が催され、約7千人が集まった。また、四日に番狂わせのあった目黒競馬、最終日ともあって入場者は「三万とも注せられた」。
 十六日から始まった大相撲、雨天のでも賑やかな初日、入場料50銭の民衆デーとあって大入り満員。十八日から早慶戦がはじまり、第一戦は観衆が外苑に溢れ、警官隊と乱闘する熱狂ぶり。この早慶戦人気の煽りを受け、夏場所三日目の観客は減少したが、四日目は早慶戦が延期となり大入り満員。
 早慶戦の人気は高く、二十一日の第三回戦も第一回戦より多く1万4千円の売上げ、三試合の総収入は4万円を超えた。なお、第三回戦の終わった後は、学生たちが銀座に繰り出し、乱暴を働くので、エビスビールやキリンビール等では夕方から「本日売切」の札を出し、露店でも早々、引揚げる者が少なくなかった。警察官2百人が出て警戒、紋付き袴の応援団が連行され、泥酔した慶應ボーイ10余名が検束されるなど、恒例の大騒ぎが繰りひろげられた。

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昭和四年(1929年)六月、東京市電スト(25)、市民はローカルな祭や見世物にも熱中
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6月2日t 解禁に躍太公望
  3日ka 外濠の汚水に舟を泛べて遊ぶもの多し
  15日ka 三番町、家々山王権現祭礼の挑灯を懸く
  21日a 「はやしに暮れる夏祭」四谷須賀神社例祭
  21日A 評判のサーカス団 新宿で珍事
  25日t ボール投げにお灸、日本橋で通行人に脅威と36名が過料処分
  25日ka 銀座、散歩の人群をなして蓄音機の奏する流行唄を聞く、沓掛時次郎
  27日A 二十六日より芝公園の市設プール開放、井之頭公園は三十日から
                                                
 六月に入り、大河内伝次郎の『沓掛時次郎』や阪東妻三郎の『闇』の映画案内が辛うじて掲載A⑬されるだけで、レジャーに関する記事が激減。二十一日付の新聞に「初夏の生活」シリーズで、四谷須賀神社の「夏祭」が紹介されている。祭は五日間にわたって催し、年寄の肝入りで各町が挙って催物を出したが、不景気を反映して、「屋台は世知辛くも屋根裏の出店の様だ」と。それでも、このようなローカル色豊かな夏祭は、市内のあちこちで催されていた。
 また同じ紙面に、新宿のサーカスで事故との記事がある。事故は、「高さ三間直径一間程度の大をけ(桶?)の中で(上で?)オートバイの曲乗り中、五六尺の上部より墜落」、弾みで「をけ」が観客に飛込み3人が重傷。事故を起こした曲芸師は、二月の遊楽館の広告に出ていた「大女テレル」の亭主であった。ということは、「大女テレル」の興行はかなりの人気があって四ヶ月以上続いていたことになる。