大事件とは無縁の十一年冬の市民レジャー

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)225
大事件とは無縁の十一年冬の市民レジャー
 一月にロンドン海軍軍縮会議脱退。二月の衆議院議員選挙で社会大衆党進出し、軍部主導に不安な国民の声が表われたが、二・二六事件発生でかき消されてしまう。市民のレジャーを見ていると、大きな事件が起きても何ら関係なく楽しみを求めているように見える。確かに、二・二六事件がどのようなものであったか、当時の人々には説明されていないし、理解できなかったのであろう。
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昭和十一年(1936年)一月、日劇ダンシングチーム『ジャズとダンス』で初公演⑬、ロンドン海軍軍縮会議脱退⑮、初詣は減って、浅草などの興行街に人は流れ、正月の市民レジャーは盛り上がらず
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1月3日Y 帝国劇場・大勝館・武蔵野館「テンプルちゃんお芽出度う」他連日超満員御礼
  4日A 元日の省線乗降客六十五万人、明治神宮の初詣の乗降客、原宿駅が三十万人、代々木駅が十一万人
  7日a 出初式、宮城前に消防組員六千人のビック・パレード盛観。特に許された参観者一万人
  9日y 陸軍始観兵式、在京一万二千、市民の拝観数万
  9日a 帝国劇場等「トップ・ハット」他果然満員
  11日a 大相撲初日、前夜から数百名詰めかけ、午前十時に札止め
  16日a 浅草電気館等「己が罪」他満員御礼
  22日A 日比谷公会堂諏訪根自子「渡欧の夕」超満員
  23日a 浅草帝国館・新宿松竹・麻布松竹・丸ノ内松竹「雪之丞変化」他満員御礼
  25日A 芸妓や女優の豆撒き罷り成らぬ、文部省
                                                
 元日の初詣は、省線の乗降客数から見ると明治神宮がもつとも多く41万人(下車は半数)、次に多いのが川崎大師で8万人、成田山は2万6千人。この年の初詣は例年より少なく、明治神宮でも参拝者は、市電やバス利用などを加えても実数は30万人を超えないだろう。
 二日は小雨、初詣客はさらに減って、三箇日の人出は浅草などの興行街に流れた。正月の娯楽は、映画と演劇と言って良いほど。また、相撲人気を反映するように、春場所前日から詰めかけ、午前十時に札止めの盛況。取組み内容は、横綱を狙う男女ノ川が2敗するなど盛り上がりを欠いていたが、客の入りは千秋楽まで満員。これは、他に見るべきものがなく、レジャーの選択肢が狭いためだろう。
 二十一日の諏訪根自子“渡欧の夕”は日比谷公会堂を超満員にした。また、二十七日の「歌の帝王」シャリアピンのリサイタルも満席。新しいものが提供されれば、何でも飛びつくようで、十三日に初演された日劇ダンシングチームのラインダンスは、観衆を驚かした。

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昭和十一年(1936年)二月、五十四年ぶりの猛吹雪④、衆議院議員選挙で社会大衆党進出⑳、二・二六事件(26)、戒厳令施行(26)、雪の多い割には映画館や劇場は健闘
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2月1日a 富士館等「白衣の佳人」他満員御礼
  2日a 浅草帝国館等「若旦那百万石」他大入満員
  5日T 節分列車は大部分中止
  9日T 建国祭奉祝式「代々木原頭に若人大行進」、都下大学高等専門学校三十五校一万五千
  9日a 浅草電気館等「大尉の娘」他満員御礼
  12日a 市内七ヶ所で紀元節祭、三百余団体六万三千人
  16日a 浅草電気館等「洋上の感激」他満員御礼
  17日T 待望“春”の第一日、浅草に繰り出した人「実に卅万突破」で映画館満員、上野動物園に一万五千
  23日a 浅草電気館等「武器なき人々」他満員御礼
  28日a オリンピック選手歓送乗馬大会を中止
 
 豆撒きは、前月、文部省は「宗教粛正」から「レビュー化厳禁」を申し渡された。それでも、池上本門寺は、既に人気歌手と契約しているため本年限り、と了解を取った。また、「その他にも二流以下ではお寺の懐具合から『今年だけは・・・』とコッソリ映画女優やレビューガールを出演させる寺も相当あるらしい」a④。高島屋成田山とタイアップして「追儺式挙行三回」の広告を出すなど、自粛は守られていない。
 ところが四日は、五十四年ぶりの猛吹雪、市内の交通が麻痺してしまい追儺式どころではなくなった。浅草寺はさすがに福袋が一万ぐらい売れたが、成田山京成電車が朝のうちに1万人送っただけで停電、池上本門寺は人出2千人、という有様。なお、市民は大雪に大混乱しているが、「劇場やカフェーも男女の雑魚寝姿」y⑤等の写真に、市内に暗さは感じられない。
 二月に入っても映画の満員御礼広告が続いている。市民レジャーに活気がある、その勢いを反映するかのように、二十日の総選挙では「躍り出した無産党」「狂気の社大党」aと大衆政党の躍進があった。しかし、東京市民の声が国政にどの程度届くのか、不安を感じていた人が多かっただろう。
 二十五日の銀座は、「蓄音機屋の店頭に人多く立だずみ三味線くずれとやらを云う流行歌を聞けり。日未だ暮れやらぬ時、銀座通の人ゆききと蓄音機の俗謡と貧し気なる建物とはいかにも浅薄な現代的空気をつくりなしたり。夜となりて灯火かがやき汚らしき商店の建物目に立たぬ頃に至れば銀座通は浅草公園仲店の賑いを呈するなり。いずれにしてもこれが東京一の繁華なる町とは思われぬなり」と、荷風は日記に書いている。
 二・二六事件勃発、市内の劇場や映画館は一斉に閉場した。翌日、戒厳令施行。「溜池より虎の門のあたり野次馬続々として歩行す。海軍省及裁判所警視庁皆門を閉じ兵卒之を守れり。桜田其他内曲輪へは人を入れず。堀端は見物人堵をなす。銀座尾張町四辻にも兵士立ちたり・・・銀座通り人出平日よりも多し。電車自動車通行自由なり・・・八時過外に出るに銀座通の夜店遊歩の人出いよいよ賑なり・・・虎ノ門のあたりの商店平日は夜十時前に戸を閉すが、今宵は人出賑なるため皆灯火を点じたれば金比羅の縁日の如し」。これが荷風の見た二十七日の風景である。
 また、古川ロッパも二十九日の日記に、「日比谷映画も地下ニュース劇場も、日劇も興行している、平和である」と、書いている。

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昭和十一年(1936年)三月、チャップリン夫妻入京⑥、蔵相の声明で株価一時的に暴落⑩、大事件を忘れようとするかのように市民レジャーが活発になる
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3月1日a 日曜“大事件”跡形もなし、浅草はすごい人出
  7日a チャップリン夫妻来京
  8日a あすから梅見列車
  12日ro 日劇へ着いてみると、もう大半満員「凸凹放送局」「ガラマサどん」「さらば青春」
  20日ro 日劇十日間昼夜二回、完全に満員
  23日A 「春うらら 郊外に押出した市民 ざっと四十万」
  27日a 大勝館等「ヂャングルの王」圧倒的大満員
  27日y 社交ダンス、ホール以外法度、家庭パーティも弾圧
  30日a 満都、ファンの陶酔、熱戦、春風とともに「運動デー」野球やラクビー
                                                
 まだ、二・二六事件が解決していないのに、浅草にはすごい人出。六日、チャップリン夫妻入京。前回訪れた時は「五・一五事件」と、大騒動と縁がある。日比谷周辺には、事件の跡を見に訪れる人が多く、「銀座に行くに何ということもなきに人出おびたゞし、田舎より出で来りし人も多し」と、荷風は十一日の日記に。また、十五日は「人出夥しく広小路にも夜店立ちつづきたり」と浅草公園の賑わいを記している。大事件の後にしては、映画・演劇とも盛況である。
 彼岸になると、「遊覧案内」A⑳に、久地梅林・早咲き桜の大島・名勝江ノ島多摩川園のつつじ人形・八王子競馬・高尾山詣などの広告が出る。二十二日は、新宿駅の乗降客が20万、上野駅では15万、その他郊外へ電車で「四十万」の市民が出かけた。市内も、二重橋前・上野公園・浅草公園など「人波で、どこもここも春一色」となった。また、次の日曜も大勢の市民が行楽に出かけた。