レジャー引締めが続く昭和十四年春

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)238
レジャー引締めが続く昭和十四年春
 どのような風の吹き回しか、欧米のレジャー事情が新聞5/31Aに紹介されている。
 見出しは、「元気でさあすすまう! 国民娯楽日も必要だ」である。アメリカ、フランス、イギリスは、「娯楽のための娯楽」「休養のための休養」と、純粋に楽しむことを推奨している。それに対し、国家主導のドイツ、イタリアでも、「収穫祭や家庭慰安日には民謡、バラエティー、キャバレー或いはラジオ、演劇を通じて集団的な勤勉の喜びをたたえている、旅行部など二万五千屯の大汽船を八艘持ち、オリンピックを機に日本を訪れる話が進められたほどである。」と紹介している。
 どちらにしても、レジャー引締めを強化している日本とは、あまりにもかけ離れている。日本の先端的な東京市民にも、ピンとこなかったのではなかろうか。そのような状況を鑑みてか、新聞は、「立ち遅れの日本」とピントのずれた指摘をコメントしている。
 遊ぶことを良しとしない日本の状況を正当化するため、日本の現況の問題点を列挙している。「頻々として伝えられる未成年工-少年工の花柳界入り、爆発的な東京近郊花柳界の発展と膨張とは国民の娯楽と慰安に対する指導性の欠如と無気力を物語るものであろうし、週末のハイキング、どつとくり出す都会生活者万人かの中から必ず痛ましい交通犠牲者をだし“暗い日曜日”をおこしているのは国民休養に対する組織化のたちおくれを物語りよく問題になる劇場、映画館前の目白押しの群集、さては過労から来る最近の工場事故続出等々、政府も精勤もここらで本腰に娯楽対策、健康な休養の指導を講ずべきではないか」と。
 さらに、「なくて淋しいお祭」の見出しに続いて、「『村も精勤、無駄を廃せ』と事変一年、盆踊や秋祭を廃した村があった、ところが祭りをやめてみたら村の活気は消え失せて、華やかな軍事景気にさそわれて村の青年や娘はどんどん都会に走り、その村の老人と子供だけの淋しい村・・・」と。
 その上、「無礼講の国民総親和の日が設定されてもいいのではなかろうか」との、物分かりのよい記事である。記事の内容には、いくつかの疑問や問題はあるものの、このような提案が新聞に載せられるのは、これが最後となる。
 5月11日、関東軍は軍中央部の方針を無視し独断でノモンハン地方で戦闘を起こす。そこで、ソ連の機甲部隊の大砲・戦車など戦力・物量の違いを見せつけられる。問題にしなければならないのは、戦いの勝敗ではなく、統制の欠如と兵器の優劣である。そして、責任の所在がないこと、戦力の正しい判断を受け入れないことである。
 根本的な事柄のコントロールを失った国家は、破綻することになる。目先の事しか見えない軍隊の愚かさを隠すために、戦線を拡大している。
 このような事態にしてしまった日本国民の責任は、敗戦後に解明しなかった。個々の戦い、戦術や戦略についての解説・説明を、昭和戦前史としているような気がしてならない。ノモンハン事変後の「南進論」や「北進論」を論じる歴史も同様である。膨大な戦闘史にエネルギーを費やし、ノモンハン事変で日本は負けていないなどとの事を論じるより、もっと、解明すべきことがあると思うのだが。過去の説明より、それを将来に生かすという視点がない。

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昭和十四年(1939年)四月、秋田から初の高等小卒の就職列車⑨、戦争を忘れようとするかのように、花見の騒ぎを待ちこがれる市民
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4月3日A 歌舞伎座「元禄忠臣蔵」満員御礼
  10日A 「出た、出た百万」七分咲きの上野、四分咲きの飛鳥山上野動物園は六万人、新宿駅三十万人、上野駅十八万人をはじめ各駅共花見客の走りで賑わう
  14日a 浅草電気館等新興系「阿波狸合戦」他満員御礼
  16日ka 浅草公園に入るに日曜日の人出夥しといえど銀座辺の如く、険悪の気味なし
  16日a 六大学リーグ戦・春の幕開く
  17日Y 花吹雪を浴びて百万、今春の新記録
  22日y 日本劇場「花と侍」長谷川一夫の出演で満員御礼
  24日A 「招魂式・感涙に濡れる二万の頬」九段へ十万人の人出
  28日a 夏場所取締りの陣 客席へ酒瓶御法度
  30日Y 玉川よみうり遊園のチューリップに一万二千

 サクラが満開にならない頃から大勢の市民は、花見に繰り出した。古川ロッパは、十二日「花に浮かれて大分人は出てるが、小屋へ入らず」と、花見は賑やかそうだ。十六日は、この年の春の最高の人出となった。
 バラエティー『春のサーカス』『百鬼園先生』などを公演している有楽座、九日頃まで満員であったが、その後は空席が出るようになる。二十五日、招魂社の臨時大祭で特別マチネーは、入り七分位。天長節は、昼五分夜八分の入り。なお、公演中の『ロッパ従軍記』について、五日の日記に「やればやる程つまらなくなって来る」、八日はさらに、「流石は東京の客だ、馬鹿々々しがって受けない」と、ロッパは気の進まない軍事ものが「憂鬱で」つくづく嫌であった。

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昭和十四年(1939年)五月、ノモンハン事変⑪、デビス・カップ大会参加中止⑭、大相撲は盛況、市内は人出もあり平穏な市民
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5月4日a 小公園は乞食の巣 子供の楽園が伝染病の媒介所
  5日a 浅草電気館等「侠艶録」他満員御礼
  12日a 「土俵際の声援に前相撲も活況」夏場所初日
  15日A 第五回日本体操大会、関東大会、神宮外苑競技場に一万七千人の出場者を集め開催
  15日Y 上野松阪屋で「南支・海南島展」開催、早朝から数千人
  17日ka この夜三社の祭礼にて公園は人出いつもより一層賑なり
  23日a 全国学生生徒の武装行進、宮城前広場で御親閲後、明治神宮へ一万三千余名、靖国神社へ一万三千余名、帝都を進軍
  26日A 「双葉、十五日全勝」新制十五日の千秋楽盛況
  27日y 日本劇場「エノケン鞍馬天狗」他満員御礼、日劇ダンシングチーム総出演
  28日y 海軍記念日、海のつわもの堂々!帝都を行進

 相撲は、場内での飲酒が禁止されても、「前日の夕刻から雛壇大衆席めがけてなだれこむという人気」。夏場所から十五日制になり、前半入りの落ちた時もあったが、双葉山の全勝優勝もあって後半は満員続きの盛況。
 市民は相撲に熱を上げていたが、満蒙国境では、1万数千人の死傷者を出すノモンハン事変が起こった。二十一日付Aで「東京はこれでいゝのか 銃後の巷に氾濫する有閑風景」と、戦時中であるとの引き締め。翌日、2万人を超える学生たちが、執銃・帯剣・巻ゲートル姿で中心街を行進。この光景を見つめる市民は、戦争が順調に勝利へと向かっているものと感じていたようだ。
 
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昭和十四年(1939年)六月、警視庁、待合・料理屋等に午前零時で閉店を通牒⑩、戦争への引き締めが強くなろうとしているなか、市民レジャーはそこそこの賑わい
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6月1日A 愛宕神社、二十四日千日祭(六月のこよみ)
  2日A 雨に祟られた 鮎の解禁、例年の一割に及ばぬ出漁者、多摩川に約二千五百人
  4日Y 後楽園球場の全日本東西対抗野球戦、満場の観衆
  6日A 早慶勝戦、場内立錐の余地もない満員
  9日a 神宮競技場で満蒙開拓青年義勇軍壮行会、翌8日市内行進
  11日a 日比谷公園のプール開き
  14日A 休暇を廃止し、心身の鍛練を石黒文部次官
  16日a 日本劇場エノケンの「突貫ヤジ・キタ」他満員御礼
  19日y 夏の大リーグ戦、後楽園球場盛観
  25日a パーマネント 廃止最後の断
 
 鮎解禁を前に、二三日前から露営する人もいるくらい釣りは盛んらしい。野球も、三日のプロ野球東西対抗戦には、「二万八千人」の観衆が後楽園球場を埋め、六大学野球の人気を凌ぐ勢いである。早慶戦は、十年ぶりに覇権をかけての戦い、第一戦から入場券は十一時に内外野ともに売り切れ。五日の決勝戦は、場内立錐の余地もない満員。30銭の外野席が6円、1円の内野席が13円というプレミアムが着く人気であった。