紀元二千六百年祝賀に躍らされる十五年秋

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)244
紀元二千六百年祝賀に躍らされる十五年秋
 紀元二千六百年の祝賀を盛り上げようと、様々な画策が展開されていた。その多くは官製によるもので、行事で市民が多数動員され、特に学生・生徒は頻繁に借り出された。もちろん、自主的に参加する人々もいたが、レジャーの制約が進む中で、この時とばかりに騒げると積極的に加わった人が少なくなかったと思われる。実際、締めつけていた制約ゆるめられ、荷風は日記に、「酔漢の多きを見る。田原町地下鉄入口にて格闘する者あり・・禁令すこしくゆるむ見るや忽かくの如き光景をなす」と記している。新聞は、市民の大騒ぎを大々的に書き立てた。
 オリンピックや博覧会が開催できなかったのに、紀元二千六百年記念祝賀を何故行なったのか。東京でオリンピック開催の気運は、昭和四年(1929年)頃から始まった。昭和六年の東京市議会でオリンピックを招致が決まり、開催へ向けて動き出していた。確かに、日本だけで行なうこととなると、紀元二千六百年記念祝賀となってしまう。政府や軍部関係者以外でも、本当に喜んだ人々がかなりいたことは、確かである。国民の多くは、プロパガンダに従うしかなくなっていた。
 しかし、国を挙げて行なって、その効果が期待できるのであれば良いが、奉祝会をベルリンオリンピックと比べると、あまりにも華やかさがない。厳粛さが求められるが、外国人から見れば、即席の会場は貧相としか受け止めかねない。天皇と5万人の人々が皇居前広場で会食という前代未聞のメインイベント、米国大使を始めとする来賓を持てなす食事のメニューは簡素より粗末と言った方が良いだろう。これが当時の最高の国家行事であったこと、米国との国力の差は歴然であることを、米国に知らしめた。

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昭和十五年(1940年)十月、「兵隊さん有難う」運動はじまる⑦、ダンスホール閉鎖(31)、紀元二千六百年祝賀を前に市民のレジャー気運は盛り上がる。
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10月2日Y 防空演習第一日
  4日a 富士館等「風の又三郎」盛況御礼
  7日Y 多摩川園の菊人形、入場者約二万人で賑わう
  10日ka 金比羅祠の縁日を歩む。群衆の雑沓酉の市に劣らず
  13日A 「静かなる雑踏」お会式に四十万人、迷子二十六件、すり六件、検束十六名
  14日A 日独伊三国結盟国民大会、日比谷公園など六会場に十一万人、二万人の行進
  16日ka 招魂社の祭今年は臨時なりとのことなれど此神社の祭りに晴るる日は少なし
  19日y 早慶戦
  21日A 競歩大会に熱汗絵巻、六千人の進軍
  21日Y 日本野球優勝大会、後楽園で巨人軍とライオン激戦、四万観衆
  22日a 紀元二千六百年記念観兵式、八万の陪観者
  23日a 神宮外苑競技場で私立高女体育大会「五万の大和撫子咲く」
  28日Y 明治神宮体育大会 入場式に五万二千の若人を動員

 二日の荷風の日記によると、「銀座通りはさながらレビューの舞台となり通行の婦女子は踊り子の行列を見るに異ならず。亦一大奇観なり。桜田門外の堀端に妙齢の女学生群れをなし砂礫を運搬する」と。紀元二千六百年を記念する行事で多くの市民が動員され、特に学生・生徒は頻繁に借り出され、十一月の紀元二千六百年記念奉祝まで学業に支障が出るくらいである。
 市民レジャーは、前月に引続き活発である。お会式は数年来の人出、虎の門金比羅の縁日も賑わいを見せている。しかし、戦争に結びつかないレジャーは、またも禁止された。三十一日、東京のダンスホールが閉鎖されるのを前に、最終日は各ホール超満員であった。

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昭和十五年(1940年)十一月、神宮球場が木炭倉庫となる④、松竹移動演劇隊結成⑥、紀元二千六百年祝賀行事開催⑩、紀元二千六百年祝賀に市民沸き上がる。
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11月2日a 明治神宮国民体育大会初の大入り満員
  4日A 明治節、市内や郊外に繰り出した人の波・二百五十万
  7日ka 昏暮の銀座「路傍に祭礼の高張提灯など出し町のさま先月頃に比すれば活気を帯びたり」
  8日ka 浅草公園「酔漢の多きを見る。田原町地下鉄入口にて格闘する者あり・・禁令すこしくゆるむ見るや忽かくの如き光景をなす」
  8日a 明治神宮鎮座二十周年奉祝、代々木に四万人若人
  9日ka 銀座通りの人出おびただしきこと酉の市の比にあらず
  11日ka 表通は花電車を見んとする群集雑遝し・・裏通に出るに乱酔せる学生隊をなして横行」
  11日A 紀元二千六百年記念式典、市内「奉祝の群れ、二百五十万」。奉祝行事は十日より十二日まで続く
  15日A 神宮外苑競技場で女子音楽体操大会に三万の女学生
  21日a 青年の式典、外苑に輝く二万
  24日A 正倉院御物「空前の人出」ざっと四万名
  30日ka 土曜にて浅草の興行町人出おびただしく飲食店殊に繁昌の様子なり

 紀元二千六百年記念奉祝は、正月元旦からはじまり、そのクライマックスが十一月十日からの式典であった。当日はみごとに晴れわたり、皇居前広場に約5万人(駐日大使、武官、官公庁や各種団体の代表者等)が集まり、天皇・皇后臨席の式典が挙行された。式典は十一時頃から、近衛首相が「寿詞(よごと)」を読み上げ、天皇が「勅語」を述べ、「紀元二千六百年頌歌」の演奏や「天皇陛下万歳」三唱など、三十分程度で終了した。
 この日は、「神輿、太鼓の渡御巡行五百五十二台、音楽行進十団体六千八十名を始め二百二十八団体二十一万二百八十名に上る旗行列等市内各区各町思ひ思ひの行事に、日の丸の小旗に埋められた街々には朗かな奉祝の歓声が挙がつたが、引続き夜に入ってからは華やかに彩られた街々を繕つて市民の足どりも軽い提灯行列が繰展げられ」、朝から夜まで続いた。
 人出は、「警視庁の調査によれば奉祝市民の団体関係だけでも三百七十六団体、その人員三十万一千四百六十名に上つたが、東鉄の調べによると、省線電車を利用して市内に殺到した市民は約二百五十万」。また、「この夜は宮城前の行進が許されなかったが、板橋区管内十二団体七千八百名を筆頭に 荏原管内十三団体二千八百七十名、州崎署管内四団体三千三百五十名、上野署管内十三団体一千九百三十名等全市百三十八団体八万五千百名がそれぞれの各町内を行進」した。
 さて、一般市民は、「ビヤホール、おでん屋等は久しぶりの電飾と大入り満員の盛況に、目盛り付きのジョッキや杯を挙げて新体制の感激だ。お客の顔触れも夫婦づれ、親子づれ等平常はあまり見かけない組が多く、“早くお汁粉屋へ行きましょう”等と促されながら飲んでいるおとっあんもいる明朗な風景だ。十日と十一日に備え、平常の二、三倍の量を用意してあった各ビヤホールも、夕方六時頃はもう“売り切れ申し候”の貼紙で、つめかける御客さんを断るに大汗をかいていた。それでも豊富な日本酒で奉祝気分をいやが上にもそそられた人の群れはあちらにもこちらにも三々五々、人波に交ってそれも出張している交通整理のお巡りさんにもお世話をかける酔漢もない明るい銀座八丁だ。また浅草、新宿方面もぱっと輝く祝いの光のなかを練る人の渦」と。当時は、市民生活の統制が進み、飲食店の午後五時以前の酒類の提供は禁止。また、食堂や料理屋などでの米食使用が禁止、営業時間も制限されていたが、この日だけは久しぶりに賑やかに遊ぶ姿が見られた。
 十一日午後二時から奉祝会、宮城前広場で天皇と約5万人の人々が、戸外で同時に食事をするというもの。「奉祝詞」「宣旨」に続き宴席(食事中に各種の演奏)、最後に万歳三唱して三時前に終了。この時の食事のメニューは、清酒、鯛、蒲鉾、大豆、昆布、干瓢、竹の子を合わせた缶詰、携帯用の米飯インスタントの味噌汁、餅、「航空用薬酒」と「航空用葡萄酒」、乾パン、さらに、酒のつまみとしてソーセージ、のしイカや干し鱈等の魚介類の燻製や栗など、デザートには興亜パンとミカンが出された。なお、この5万人分の食事を用意するのは大変なことで、前日の午後二時から六時までの四時間をかけている。まず、食材等を運ぶのに大型トラック六十台、それをテントまで運ぶのに600人である。そして当日、食饌の分配は午前五時から始まり、十時近くまで、約千人の職員によって行われた。
 式典後の会場を一目見ようと、「幾万とも知れぬ人々の波が馬場先門からお壕端道路を早くも埋めつくし」。午後六時、入場が許され「綱がサッとばかりに開かれると」「堰をきってどよめき流れ出した」。また奉祝の「提灯行列は華北交通会社支店の百五十名を第一陣に、目黒無線講習所の生徒一千名をはじめ約二万・・・この他市内各所各地では神輿九百四十台、団体行進約九千名、旗行列二十七万余、各区の提灯行列七万余」と繰り出した。
 十二日になっても、奉祝は続き「前夜に続く提灯行列の灯の海、万歳ののどよめき・・火の長蛇とも見える月島疏菜報国会一万人の提灯、成蹊高校の五百名、東京百貨店組合の三百名、日本旅行協会の五百名」等と、新聞は盛大さを書き立てた。
 動員した人数は、史上最大という規模であろうが、紀元二千六百年記念奉祝、国家行事としては何か物足りなさを感じる。それは、厳粛さより簡素さの方が勝っていた。奉祝会をベルリンオリンピックと比べるのことには異論はあろうが、華やかさがない。メインイベントは、天皇と5万人の人々が皇居前広場で会食という前代未聞、以後例を見ない。食事のメニューを見ると、飽食の現代感覚からすると、あまりにも質素である。

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昭和十五年(1940年)十二月、映画の上演時間制限(21)、紀元二千六百年祝賀の余韻か、市内の人出は続く。
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12月6日y 日比谷公園で西園寺公国葬、見送る五十万、沿道13キロ埋め尽くす
  10日a スキーヤーの雪崩、上野の切符配給、五分で打切り八千四百枚
  15日A 春場所より芸妓同伴・客席での飲酒を禁止
  20日ka 銀座通り何という事もなく人出おびただし・・我勝に先を争わんとする険悪な風著しき
  25日ro クリスマスだが、ターキー一つなし・・明治座の入り悪く寒々としてるし、芝居皆淋し
  31日A 上野駅、帰省客で混雑し、広小路周辺まで四万人が続く

 年末から正月にかけてスキーの列車持ち込みが制限され、スキーを月初めから宿へ送る人が多く、「スキー場は満員」a③とのこと。また、年末年始の混雑を避けるため、「スキー客に切符制」a④となった。
 「食物を売る家の店先はいずこも雑沓すること甚し。餓鬼道の浅間しさがを見るが如し。町の角角には年賀状を廃止せよ国債を買え、健全なる娯楽をつくれなど勝手放題出放題の事かきたる立札を出したり。電車バスとも混雑して乗ること難し」と、荷風は十三日の日記に、この頃の世相を記している。
 ロッパは、二十六日の夕方、銀座へ出て「大した人込み、何だか景気はいいらしい」と。三十一日には、「門松がお粗末なのだが並んでいる以外は、何処にも大晦日の気分は無い。お正月の来る感じは少しも無い。味気ない世の中だ」と書いている。