江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)311
江戸下層庶民社会の見方を考察する
・辰蔵(『忠孝誌』)は、先代六郎右衛門方へ年季奉公したが、翌年六郎右衛門が病死した。相続人はなく、その妻やすには幼い三人娘が残された。妻は、三人の娘のうち二人はよそへやり、そよを手元に置いた。辰蔵は、奉公人の滝次郎という者に跡を相続させるつもりで一旦身上向きを任せたが、未熟で借財もかさんだ。そこで、親類と相談して滝次郎を帰し、ひとまず身上をしまうことにした。だが、辰蔵と今は死んでしまった繁次郞の二人が申合せ、四・五年のうちどんなふうにでも稼ぐからそのまま置いてくれとたのみ、二人で万事を引き受け、借財もしだいに片づいていったが、やすは血労をわずらい病死した。娘そよは当時十五歳になっていたので叔母賢蔵次郎方へ引き取られ、まもなく武家奉公に出た。残った辰蔵たちは精を出して稼いだので、六郎右衛門存生中より繁昌し、奉公していたそよも暇をとって、今の六右衛門を婿賢養子に取り、相続させた。そして辰蔵の忠勤に対して褒美に金十五与えたところ受けとらず、五両増して二〇両にして与えようとしたが受けとらず、藤次郎よりたって勧めたのでようやく受けとる。また、六郎右衛門の悴文吉が誕生、母そよは血の道をわずらい乳が少ないため、辰蔵は文吉を抱き歩いてもらい乳する。その後そよは病死し、六郞右衛門は後妻をもらったので、文吉の面倒をすべてみる。このように長年つとめたので別宅を出すか、または給金をますようにいっても断り、ほか並以下のーカ月金二分ずつ受けとり、そのうち一分あるいは一分二朱ずつ継父仁四郎に送る。仁四郎が夜蕎麦売り始めたところ、一家全部傷寒になったときは暇をもらい看病する。妹二人は奉公に出し母は病身の上、継父仁四郎が年をとって夜商いがつらいだろうと、麻布南日ケ窪町に炭薪渡世造付売店を買い受け、代金は辰蔵が出して、小商いを始めさせたが、不馴れでその年の冬に店じまいし、元の住所に帰り日雇して暮す。妹二人は追々文蔵が仕度をしてやって嫁がせる。
以上、表彰人の何人かの境遇、職業などを示した。どの表彰人も表彰されることを期待して生活していたのであろうか。彼らは、表彰されるだけの善行を日頃から行なっていたに違いない。ただ、表彰者本人の努力だけではなし得たものではないと考えられる。回りの人々の存在なしには出来ることではなく、近隣社会に好意的な環境が不可欠である。
例えば、辰蔵の「もらい乳」は、乳を提供する人、その情報を提供する人など、周辺の人々の好意と気づかう社会が不可欠である。
また、金之助についても、十五歳という年齢から回りの人々の助けを受け、家主・相店の者が時々味噌汁や菜の物をもらっている。時の物商いをしているのも、金之助には住いが無いため、同居を許してくれる人の善意に頼っている。
これらのような下層庶民社会の助け合いや相互扶助は、あまり評価されていないような気がする。引用した前記史料の『江戸町人の研究 第2巻』「後期江戸下層町人の生活」では、幕府の善行者表彰を全面的に肯定する視点で綴られているようだ。『孝義録』『続編孝義録料』『御府内備考』の考察は、『孝義録』の目的を、「寛政改革の民衆教化政策の一環として、『見る人興起するの心あらば風化の一助にもなりなん』という点にあった」としている。
別表の善行表彰者サンプル数は302件、享保二年(1726)から天保十四年(1843)までの117年である。「善行表彰は、寛政改革の民衆教化政策のひとつである孝子・節婦などの表彰が、幕府のお膝もとの江戸においてもっとも積極的に行なわれていた」としている。「幕府の善行者表彰の目的は、単に民衆の道徳的な教化というにとどまらず・・略・・善行者を表彰して多額の褒賞を与えることにより・・略・・表彰者の周囲にいる多数の下層町人に、努力によっては自らもその対象になりうるという幻想を抱かせ、さらには自己の努力によって生活苦を耐え、切りぬけている具体例を示すことによって、かれらの内包する不満の爆発をおさえようとはかったものと考えられる」としている。
また、「地方農村からの貧農の流入の原因を、『世事見聞録』は農村の状況との比較において、『国々在々にては困窮余れば夫限り行詰りて外に凌方なし。繁花の地は種々の所業ありて、其日過にも渡世致し安く、殊に義理恥のなき世界にて凌安く』『町家の困窮人は日々骨折たる程の賃銀は即日其場にて取る也。其取安く、殊に食を給べず米の飯を食』ベられるからだと述べている。たしかに、先にあげたようなたびたびの転業は、一方からみれば生業を変えられる自由が広く存在していたことを示すものであり、また裏店借でもよほど極貧の者でない限り、米飯を常食にしていた。そればかりでなく、酒・菓子・そばなど、かれらがしばしば口にしていたことも明らかである。村の交際に比べれば、裏長屋の生活は『義理恥のない』気楽なものだったにちがいない。しかし、文政元年 (1818) に表彰された湯島三組町店借・・略・・はるの消息が文政十年(1827)にはもう不明であるというふうに、『国々所々より寄集たるものなれば、表向は愛想よく附合とも、内心は相応に実情なく、阪令合壁の隣に住居たるも、明日は何方に転居するも斗り難き事にて、義理励も薄』い都市内部の共同体的結合は農村のようには強固でなかった。それ故、下層町人の生業が零細かつ不安定であったから、米価をはじめ諸物価の高騰がかれらの生活に直接大きな苦痛を与えたことは容易に想像される」としている。
この見解は、本当に当時の農村と都市の実態を詳しく把握しているのであろうか。農村については、旧態依然とした農業生産(二次産業の進行を見逃している)の農村社会をイメージしていないか。都市下層庶民社会を必ずしも評価せず、先入観で否定的な見方をしていないか。懐古的な『世事見聞録』の論調に影響を受けていないだろうか。