江戸時代の椿 その18

江戸時代の椿  その18
★1840年代(天保~弘化~嘉永年間) 『俳諧季寄図考草木』『古今要覧稿』のツバキ
・『俳諧季寄図考草木』の「海石榴」
  『俳諧季寄図考草木』は、天保一三年(1842)に梅枝軒来鴬よって刊行された図集である。図集は500余点の草木図を季節ごとに配列し、和名と漢名を附した歳時記になっている。その中に、海石榴(ツバキ)と冬海石榴(フユツバキ)が下図のように記されている。
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・『古今要覧稿』その1
  『古今要覧稿』は、文政頃より幕命によって、国学者屋代弘賢が亡くなる天保十二年までに編集した大辞典である。事物の起源を文献をもとに、考証し編纂したもので、植物については図も付されている。なお、屋代は一千巻を計画していたが、彼の死によって560巻までとなった。編纂には、本草学者岩崎常正なども加わっている。
 ツバキに関する記述は、巻第三百六から三百十一までにわたっている。記されている内容は、これまでのブログに示したものも含まれており、同じ記述については重なるため省く。なお、『古今要覧稿』の記述には、現在では確認できない資料があり、また、記述を史料としてそのまま信じることのできないものもある。さらに、いくつもの資料を列挙していることから、内容が錯綜しており、記述の信頼性については再度検討が必要である。したがって、以下に示す『古今要覧稿』の記述は、ツバキついて様々な説があることを紹介するため示す。
  なお、以下に掲載する記述には、記述中に時代が前後するものがある。わかりやすいように、転載にあたって、西暦の年代を()書きの赤字で挿入する。また、青字で記したものは、私感による捕捉や注意書である。
  以下の記述は、国書刊行会(復刻原本明治39年)によるものを中心にしている。文中には、旧字やネット上再現できない文字があり、略字や「?」で示しているので容赦いただきたい。詳細を見るには、ネットで公開されている国立国会図書館デジタル化資料や早稲田大学図書館古典籍データベースなどを参照されたい。
  ツバキは、「古今要覧稿巻第三百六  ●草木部  椿上」として以下のように記されている。
  「つばき  海石榴」「つばきは漢名を海石榴といひ或は石字を省きて海榴ともいへり、この二名は蓋し唐人の命ぜしところにして、明人に至りては其種を誤りて專ら山茶と称へたり(根拠となる史料は不明)、凡つばきは本邦固有のものなりといへども、其名の慥に物にあらはれたるは人皇十二代景行天皇景行天皇の実在性には疑問)の十二年(西暦82年)天皇尊後国速見邑の土蜘蛛を討たまひし時、此樹を採て椎に作らせ給ひしを始とす(日本書紀豊後風土記-後世の偽撰とする説あり)、おもふに此樹はいづれの国にもいとよく生出る常の紅花のものなるべし、それより六百年を経て天武天皇の三年(675年)大和国吉野人の白海石榴を奉りしを(日本書紀)いにしへはつばきに紅花のみありて白花のものまれなるによりて、天武の御時はそれをめづらしき物とせしなりと(大和本草にその根拠は記載なし)いへり、それよりまた五十八年を経て聖武天皇天平五年(733年)には此樹出雲国の諸郡及び諸島に産するよし(出雲風土記)みえたるにて、その他の国々にも此樹ある事はしられたり、それより又百七十年を経て延喜の比(901~923年)には正月上の卯目に御杖に作りし焼椿十六束、皮椿四束を供せしは(延喜式中宮式)持統天皇の三年(692年)に正月乙卯大学寮より御杖八十枚を奉りし(日本書紀)旧例によられし也、それより又七百十余年を経て寛永(1624~1645年)の比にいたりてはその花に重弁  千弁  赤  白  間  雑の奇花八十種あまり百出するを以て、京師にてはことこのむ人その花をことごとくあつめて百椿図をゑがきたるに、烏丸光廣卿はそれが序を作り給ひ(扶桑拾葉集)江都にては松平伊賀守忠晴、公務ひまに諸方にある所の品色、及び名だたるものをもとめて同じく百椿図をゑがきたるに、それが序つくりたるは林祭酒道春なり(羅山文集)、それよりまた九十年を経て享保(1716~1735年)には染井の種樹家伊兵衛といふものの著せし、地錦抄に載せしはその数すべて二百二十四種也、今に至りては猶また種類多くいできておほよそ四五百種にも及べるは実に太平の勝事なり、かく本邦にはその種類おほきものなるに、西土にては其種わづかに廿種に過ざるを以て、朱舜水も此邦の花は唐土よりも種類多くして花もまされりと(朱氏談綺東雅)いへり、然りといへども近衛家煕公の仰に種類多きものは一々漢名あるべからず、後西院山茶花を御好みありければ所々より献上す、珍花は手鑑にして極彩色にて片表に九つづつ花を記されしに、年々冊数多くたりける程に遂に五十巻ばかりになれり、所詮かぎりなき事なりとて止めらる、是によりておもふに、菊や椿などは人の好みによりて数多くなるものとみえたり、一々漢名あるべからずと(塊記○此書は山科道安といふ醫の豫楽院家煕公の語を記せし也)見え、又本草綱目灌木部に山茶を載せたり、我国のものもおほかたは灌木なれど、日向国諸県郡野尻郷に生るものは皆喬木にしてその幹抱を合するもの多し、是れ地勢のしからしむるところ也と(国史草木昆虫孜)に見えたり、扨て西土の人物の名を命ずるに海字を冠するものは、その種必ず海外より伝ふるものをさしていへば、海石榴もそのもとは本邦或は朝鮮よりして彼土に伝へしものたるによりて遂に海字を冠せし也。
(按に本草綱目海紅の釈名に李徳裕が花木記を引て、凡花木名海者皆従海外来如海棠之類是也、又李白詩注云、海紅乃花名出新羅国甚多、則海棠之自海外有拠矣とみえたるにて、その義はをのから明かなり)
  さて海石榴に椿字をあてしは荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定)(根拠となる史料は未確認)に上古有大椿者以八千歳為春八千歳為秋といへる寓言あるによりて、此海石榴樹もその樹数百年を経るといへとも、さらに枯凋の患なくその寿の久延なる事頗る大椿のたぐひなるにより、遂にその名を仮借せしなりしかのみならず、此実の油は西土にいはゆる不老不死の薬廿一種のうちの一種なれば(本草和名引崔禹錫食経(現存しないらしい)光仁天皇宝亀八年(778年)渤海使史都家の請へるによりて海石榴油一缶を贈られしも(続日本紀)故ある事なるべし、この油不老不死の薬なるも、其もとは其樹の齢久延なるによりて其説の起りし者なるべければ、歌に八千代の椿、或は八千年の椿、或は葉替ぬ、或は色変らぬなど読めるも、強に荘子の寓言にのみ縋りてしかよみしにはあるべからず、又楽方雑記に日本山茶花の名目を載て白玉、唐笠、白妙、高根、白菊、六角、加賀牡丹、渡守、春日野、有川、朝露、乱拍子、薄衣、大江山、三国、玉簾、浦山開、荒浪、鳴戸、金水引等の号ありと(本草綱目啓蒙)見へたり、所謂  唐笠、白菊、春日野、加州、有川、乱拍子、薄衣、玉簾、荒浪、鳴戸、金水引等の名目は詳に増補地錦抄に載せたれば、古のみならず近世も亦我邦よりして此種を酉土には伝へしなり、此実の油を、今の俗には木の実の油といひ、その一名を周防にてはかたし油、長門にてはかたあし、肥前にてはかたいしのあぶらといふ、此油は男女にかぎらず髪のねばりてくしの歯の通らざるに、少し灌げばよくさばけて梳けづり易く、又土にそそげばよく虫を殺すと(同上)いへり、今江都にてひさぐものは多く、伊豆の八丈島より来る至て上品にして、あげものの料に用ゆるに胡麻、榧等の諸油にまされり、又此樹を焼て灰となしたるを俗に山灰といふ、此灰は古より紫をそむる料に入るる、故に万葉集(7世紀後半~8世紀後半に編纂)に  紫者灰指物曾海石榴市之  とよみたり、今あるものはすべて丹波国山辺郡の内より来るといふ(国史草木昆虫攷)扨つばきを歌によみしは上つ世には万葉集を始めとし、それより後は世々の人々も此歌多くよみ出たらんを慥に物にみえざればいかがはせん、漸く七十一代後冷泉天皇の天喜二年1054年に至り兼房が家の歌合に八千年つばき紅葉するまでとよみしは中津世の始にして、世々の撰集には後拾遺和歌集(1086年)に式部大輔資業の君が代は白玉椿八千代ともとよみしを始とす、散木奇歌集云、田上に待りける比つばきをきりをきてはひにやかんとてからすをみてよめる我身ともつばきの枝のみゆる哉はひに成べき程のちかきにこれにつぎては鎌倉右大臣集新撰六帖夫木和歌集等に多くその歌を載せ、又椿の名だたる所は巨勢山は更也  常磐山、音羽山、神山、鏡山、穴師山、朝日山、三上山美濃の御山、宮城野等なるよし既に歌林草分衣にみえたり、岡村尚鎌曰西土に一種の椿あり、荘子に所謂大椿及び本草に所謂椿樗の椿とは葢し同名異物也、これは本草拾遺(739年)に李邕(678~747年)を引て冬青出五臺山葉似椿子赤如郁李とみえたる冬青は、即今のもちの木の事なれば、その葉に似たる椿はいはゆる一種の椿にして、即今の都婆岐なる事しるし、そのつばきの物にみえたるは古事記(712年以前)を始とし、それに海石榴の字をうめしは日本紀(720年)を始としそのつばきに又椿字をかきしは万葉集を始とす
(按に古より椿と海石榴とはその字を互にして用ひしなれども、万葉集に所謂つらつら椿の歌は大宝元年(701年)太上天皇幸于紀伊国時歌のうちに混同して載たれば、椿の名海石榴よりふるき事はしられたり(根拠は?)、又その集の仮名の如きもからすといふ烏字は、柿本人麻呂などの歌には皆をのかなに用ひたれ共、天平の比に至りてはそれをうのかなに用ひし也、これらを思ひ併せても物に前後ある事は猶考ふべし)
万葉集に載せし物の名の如き多くは西土の名をはやくより我に伝へしをそのままにかきしるせしものなれば、つばきを椿とかきしは必す漢名にして和名にはあらざる也・・・漢名なるをその名彼には絶えて伝らざるにより遂に今に至りてはそれらをすべて和名の如くに思ひあやまれる人いと多し、つばきを椿と名付しその名の彼に亡びしも又此類ひなるべし
(ツバキと直接関係ない記述のため中略する)