十七世紀後半の茶花・その2

茶花    14 茶花の種類その11
  十七世紀後半の茶花・その2
 『茶会記の研究』(谷晃)をもとに、茶花の記載がまとまって登場しそうな十七世紀後半の茶会記を示すと、「三菩提院御記茶会記(149)」、「反古庵茶会(126)」、「仙叟会記(144)」などがあげられる。その他については、他の茶会記と重複したり、そもそも茶会数が少なく、茶花のある茶会はさらに少ないことから、個別に検討しても有為な結果は得られないと判断した。
  たとえば、十七世紀後半の茶会記として、当時を代表する茶人、金森宗和の茶会記がある。ただ、『金森宗和茶書』(茶湯古典叢書四)に茶花が記載された茶会は、35程しかない。このサンプル数では“金森宗和の茶花”として解析するには少なすぎる。また、以前にも触れたように、この茶会記は、宗和の没後に編纂されたもので、転写が重ねられ信憑性に問題があるとされている。特に茶花については、植物名の不明なものが10種以上もる。
  十七世紀後半の茶会記は、なぜか後世にあまり残されていないようだが、少ないからといって排除するわけにはいかない。そこで、不安はあるものの『金森宗和茶書』に出現する茶花を見ると、シュウカイドウ、ヒルガオ、ガンピ、ミツマタトラノオなどの新しい植物が記されている。そのため、全く無視することはできないので、十七世紀後半全体の中で検討対象に入れることにした。
  次に気になったのは、片桐石州の茶会記である。片桐石州の茶会記を探すと、『茶会記の研究』には10の茶会記集があることがわかったが、それらをまとめた資料を探すことはできなかった。その代わりに片桐石州の茶会記のほんの一部ではあろうが、「片桐石州会之留」(『茶道全集十一』より)を見つけた。それには、59の茶会記が記され、そのうち57会に茶花が記されていた。茶花の種類は、確認しがたい一種(匙頭菜・『和漢三才図会』ではスミレらしい。又匙頭菜・北方関係資料総合目録ではセンボンヤリらしい?)を含めて24種の植物が記されていた。最も多いのはツバキで、次いでキク、ハス、ボタン・アサガオの順になっている。その他、シャクヤク、ユリ、ウツギ、カイドウ、イチハツ、スイセンサザンカなどである。新たな茶花として、シュウカイドウ、マメ(なたまめのつる)が記されていた。なお、『片桐石州の茶』(町田宗心)に散見するいくつかの資料から茶花を拾いだすと、ツバキ、ウメ、ヤナギ、キク、スイセン、ハギ、カキツバタ、ハンノキ、ボケ、コデマリ、ヤマブキ、ボタン、シャクヤク、イチハツ、ネジアヤメ、フジ、カザクルマなどが出てくる。
  「三菩提院御記茶会記」は探すことができなかった。ただ、『日本之茶道』(寶雲舎日本之茶道発行所)と『公家茶道の研究』(谷端昭夫)には、『入道真敬親王御日記』の一部が紹介されており、その茶花のデータは、十七世紀後半全体の中で反映させる。また、新に登場した茶花として、オミナエシが記されている。
  藤村庸軒の茶会記については、『庸軒の茶』(編者樋口功他)に「庸子江参ル茶湯之留(9会)」「反古庵茶会(126会)」「反古庵茶之湯留書(20会)」「反古庵庸軒茶之湯留書(11会)」が記されている。その中で「反古庵庸軒茶之湯留書」は「反古庵茶之湯留書」と重複しており、藤村庸軒の茶会記は155となる。その中で茶花が記されているのは「反古庵茶之湯留書(11会)」のみ。花の種類は9種である。最も多いのがウメ、次いでスイセン、変わった茶花としてエノコログサがあるくらいで、サンプル数が少なく、庸軒の茶花として統計的な検討は意味がないと判断した。
「仙叟会記」は、『茶器名物図彙  下』(草間直方)に掲載されている。それを見ると、茶会は144会も行なわれたにもかかわらず、茶花の記載された茶会はわずか2会しかない。したがって、茶花を解析するまでに至らない。ちなみに、その2会に登場する茶花は、「菊」と「冬牡丹」である。
  なお、茶会記の数は26会と少ないが、新しい茶花の登場する茶会記として、「後西院御茶之湯記」がある。それには、クマガイソウ、タニウツギ、センノウ、ミズアオイなど、新に登場した茶花が記されている。
さらに、『隔蓂記』にも茶花が記された9会の茶会記があり、10種の茶花が登場する。その中には、新たな茶花であるレンギョウが記されており、無視することはできない。
イメージ 1  以上、十七世紀後半に使用された茶花が出てくる茶会記は、断片的な茶会記を合わせても、280会程度しか探すことができなかった。出現する茶花の種類は、茶会記が少なかった割には多く64種。不明な種と新たな茶会記が見つかれば80種くらいまで増加するだろう。最も多く使用された茶花はツバキで17%、ついでウメが15%、キク11%、スイセン8%の順になっている。十七世紀前半の茶会と比べて、一位二位の順位は変わらなかったが、三位、四位のキクとスイセンが入れ代わった。順位は、十六世紀後半と同じに戻ったものの、一位から三位までで占める割合は43%と(十六世紀後半55%、十七世紀前半52%)半数を割っている。
  茶会でツバキとウメが使用される茶会の割合は、24%・20%と十七世紀前半より低下している。これは茶会でツバキやウメを活ける割合が減ったというよりも、その他の花が積極的に使用されるようになったことを現わしている。対象にした茶会記数は十七世紀前半の半数以下(43%)であるが、茶花の種類は64種と6種増えている。キクやスイセンに続いて多い種は、コウホネ、ボタン、サザンカ、ハス、ユリ、アサガオシャクヤクカキツバタ、ウツギ、ヤナギなどである。茶会で活けるられる花は、ツバキやキクなど上位の花に集中せず(μ=3.2、十六世紀後半はμ=4.1、十七世紀前半はμ=3.9)、様々な茶花が使用されるようになったと言えるだろう。
  十七世紀後半に登場した新しい茶花を示すと、以下のよう13種になる。なお、シュウカイドウやミズアオイなど複数の茶会記に登場した茶花は、先に記載された方を記している。
  レンギョウ・・・・1652年・慶安五年二月十七日「連翹」『隔蓂記』
  ヒルガオ・・・・・1652年・慶安五年七月十九日「昼かほ」『金森宗和茶書』
  シュウカイドウ・・1652年・慶安五年七月十九日「秋かひとう」『金森宗和茶書』
  ガンピ・・・・・・1653年・承応二年六月 「かんひ」『金森宗和茶書』
  ミツマタ・・・・・1653年・承応二年極月廿日「三また」『金森宗和茶書』
  トラノオ・・・・・1654年・承応三年九月三日「虎の尾」『金森宗和茶書』
  ハンノキ・・・・・1655年・承応四年二月十九日「はんの花」『金森宗和茶書』(なお、「慶長から明暦年間までの茶花」の項では初見としなかったが、あらためてこれを初見とする。)
  クマガイソウ・・・1679年・延宝七年三月廿八日「熊谷草」「後西院御茶之湯記」
  タニウツギ・・・・1681年・延宝九年七月七日「谷ウツキ」「後西院御茶之湯記」
  センノウ・・・・・1681年・延宝九年七月七日「仙翁花」「後西院御茶之湯記」
  ミズアオイ・・・・1682年・天和二年八月廿八日「水アフヒ」「後西院御茶之湯記」
  オミナエシ・・・・1686年・貞享三年六月廿日「女郎花」「三菩提院御記茶会記」
  エノコログサ・・・1691年・元禄四年十二月五日「エノコロ」「反古庵茶之湯留書」
  十七世紀前半に登場した茶花の種類が27種あったのに比べて、十七世紀後半には13種と出現数は半数以下に減っている。十七世紀までに登場した茶花の種類は100を超えて102種となったが、実際にはもっと多くの植物が使用されたものと思われる。それは、十七世紀後半に園芸植物への関心が急激に高まり、複数の園芸書が刊行されたからである。まず、最初に花卉の栽培方法を示す園芸書の草分け、『花壇綱目』が水野元勝によって天和元年(1681)に刊行された。また、「立花」の方に目を向ければ、数多くの伝書があらわれ、花材についての関心が深まっている。特に桑原富春軒仙渓は、貞享五年(1688)に『立華時勢粧(りっかいまようすがた)』で『本草綱目』などを引用して花材論を展開している。さらに、元禄七年(1694)には貝原益軒による『花譜』が刊行、元禄八年(1695)には『花壇地錦抄』が伊藤伊兵衛三之丞によって刊行されるなど続々と園芸書が登場している。そのため、今後新たな茶会記が発見されれば、さらに茶花に使用された植物の種類は増えるものと思われる。