茶花 十七世紀前半の茶花の捕捉

茶花    12 茶花の種類その9
十七世紀前半の茶花の捕捉
  十七世紀前半の茶会記には、『小堀遠州茶会記集成』『古田織部茶書』に加えて『徳川実紀』に456会、『隔蓂記』261会、『江岑宗左茶書』648会、「有楽亭茶湯日記」97会などの茶会記が存在することが『茶会記の研究』(谷晃)に示されている。
  『徳川実紀』(新訂増補『國史大系』38~52より)には456会の茶会があると『茶会記の研究』に記されている。そこで、慶長十年(1605)から慶安三年(1650)までを見ると、180程の茶会(茶事等)が記されていた。その記述は、日時・場所・参加者を記すものが多く、道具立てや献立にまで触れる記述は非常に少ない。ただ面白いことに、茶花に関しては、活けた人や茶花の名前にまで触れている茶会記が数多く存在する。その茶会数は26会であり、道具立てを記した茶会より多いのが、十七世紀前半の『徳川実紀』の特徴である。
その理由は、将軍自体が無類の花好きであり、『徳川実紀』が将軍の言動を中心にまとめたものだから、「御花(白玉椿)を御みづからさし」というような記述が多くなったと思われる。実際、二代将軍・徳川秀忠は、「花癖将軍」とまで言われていた。登場する花の種類は、15種で、最も多いのがツバキ、他にムクゲ、コブシ、モモ、ウツギ、オウバイモクレン、テッセン、ユリ、カキツバタ、ウメ、オウバイシャクヤク、シラン、ハスである。なお、他にも茶会記として興味を引く記載があり、「廻り花」(寛永十七年九月十六日)の様子が記されている。
徳川実紀』には、茶会記が数多く記されているものの、全体としては全15巻と膨大で、記載されている茶会記の全てを確認することはできなかった。また、十七世紀後半からは、茶花に関する記述は減少し、茶花を数量的に検討するには適していないと判断した。なお、茶会記に新しく登場した茶花としてモクレン寛永五年四月三日)がある。
『隔蓂記』は、金閣寺の住職である鳳林承章が書いた日記(1635~1668年)で、261会の茶会記が記されていると『茶会記の研究』にある。しかし、思文閣出版の『隔蓂記』は全七巻と膨大で、日記中の記述も様々な書き方で茶会を記しているため、全ての茶会記を確認することはできなかった。『隔蓂記』の十七世紀前半(慶安三年まで)の茶会に関する記述の中で、茶花の記述もあるがその数は少ない。そのため、確認できた13会から紹介する。
  茶花の種類は茶会数にしては多く、13種ある。ツバキとスイセンが最も多く、次いでキク、他にハス、カキツバタフクジュソウ、テッセンなどがある。鳳林承章は、草花の種を蒔いたり、苗を植えたりと園芸が好きであった。当然、植物には造詣が深く、植物の名前もよく知っていたと思われる。たとえば、十六世紀には使用されなかった新しい茶花として、「草梅」を寛永二十年八月十三日に記している。この植物は、珍しいと指摘しており興味を持ったのだろう。この「草梅」は、たぶんキンポウゲ科のキンバイソウ(又はギンバイソウ)だろう。その他にもヤマツツジ(正保四年正月十二日)、ダンドク(正保四年十一月廿六日)、ヒイラギ(正保四年十一月廿六日)、コデマリ(慶安二年三月廿五日)など、新に登場した茶花の名が見られる。
  『江岑宗左茶書』(千宗左監修)には、648の茶会記が記されているので期待したが、茶花が記された茶会記は散在し、43会しかない。その割合は、総茶会数の一割にも満たないことから、数量的に解析するには少なすぎる。また、茶花の種類も17種と思っていたより少なく、主な種はキク、ツバキ、ウメ、スイセンなどである。その他の茶花として、ヤナギ、オウバイカキツバタコウホネアサガオ、テッセン、ユリ、ボタン、カザクルマ、ボケ、モモ 、フジ、ハスが登場する。したがって、『江岑宗左茶書』の茶花を数量的に解析しても、江岑宗左の特徴を論じるにはサンプル数が少なく、成果は得られないと判断した。
  「有楽亭茶湯日記」(『大日本史料第十二偏乃三十九』より)には97会の茶会が記され、そこでは60回茶花が活けられている。茶花は20種、ツバキ、ハス、スイセン、ウメの順で、その他にハマボウ、キク、ハギ、テッセン、ムクゲアジサイ、フジバカマ、フヨウ、クチナシシモツケ、シラン、フジ、テマリカンボク、シャクヤクツツジ、ヤマブキ、ボタンなどがある。新しい茶花として、ハマボウとフジバカマ、テマリカンボクがあるものの、この茶会記も個別の史料として統計的に検討するにはデータが少ないと判断した。
  なお以上から、十七世紀前半に登場した新しい茶花として示したもの(http://blogs.yahoo.co.jp/koichiro1945/24782986.html)に加える新な植物を示すと、以下の8種がある。
ハマボウ・・・・・・・・1612年・慶長十七年七月十一日「生まほう」『有楽亭茶湯日記』
テマリカンボク・・・・・1613年・慶長十八年三月十二日「天まり」『有楽亭茶湯日記』
フジバカマ・・・・・・・1613年・慶長十八年七月三日「藤はかま」『有楽亭茶湯日記』
モクレン・・・・・・・・1628年・寛永五年四月三日「白木蓮」『徳川実紀
カザクルマ・・・・・・・1646年・正保三年極月五日「かさくるま」『江岑宗左茶書』
ダンドク・・・・・・・・1647年・正保四年十一月廿六日「壇特花」『隔蓂記』
ヒイラギ・・・・・・・・1647年・正保四年十一月廿六日「柊之花」『隔蓂記』
コデマリ・・・・・・・・1649年・慶安二年三月廿五日「小手鞠」『隔蓂記』

 イメージ 1 以上の他にも40程の茶会記のあることが『茶会記の研究』に示されているが、大半が重複すると共に百に満たないもの(「松花堂茶会記」は今日庵文庫所蔵に15会、茶花は一会のみ、椿と梅。八幡市立松花堂美術館所蔵に23会で茶花なし)である。そこで、十六世紀前半の茶会記を一部記した「松屋会記」「宗湛日記」、『小堀遠州茶会記集成』『古田織部茶書』に『金森宗和茶書』(茶湯古典叢書四)の一会などを加え、以上の茶会記に散見する茶花を合わせて、十七世紀前半の茶花として数量的な検討をした。
  対象となる茶花が出てくる茶会記は、約620会。出現する茶花は種類58種、不明な種と新たな茶会記が見つかれば70種くらいまで増加するだろう。最も多く使用された茶花はツバキで19%、ウメ17%、スイセン16%、キク7%、ハス5%、ヤナギ4%の順になっている。十六世紀後半の茶会と比べて、一位二位の順は変わらなかったが、三位四位はスイセンとキクが入れ代わった。一位から三位までの割合は52%と十六世紀後半の55%より少し減少しているのは、一回の茶会に活けられる茶花の数が多くなっているためである。
  ツバキやウメの使用率が低下しているが、それは使用した茶花全体から見たもので、茶会全体から見ると逆である。十六世紀後半の茶会では、ツバキの使用された茶会は27%であった。ところが十七世紀前半では、茶会の約三割(29%)にツバキが活けられている。また、ウメについては、十六世紀後半の茶会では20%の使用率だが、十七世紀前半には25%と5%も増えている。この現象は、茶会に茶花が二種以上活けられることが多くなり、ツバキやウメ以外の種が増えたためである。
十七世紀前半の茶会には、27種もの新しい茶花が出現した、そして、一回の茶会で活けられる花数が増えた。しかし、茶花の種類数としては、十六世紀後半より種類が減少している。使用されなかった茶花を見ると、ミョウガ、タケノコ、クズ、ヘチマ、セリ、キウリ、ヒョウタンなどある。これらの植物は、今日の茶会でも使用頻度は極めて低いと思われる。十七世紀前半には、いわゆる茶花らしい種類の花が選ばれ、使用された時期であったと言えそうだ。