十八世紀前半の茶花その3

茶花  17   茶花の種類その14
十八世紀前半の茶花その3
華道と茶花
  十八世紀に入り花卉園芸が盛んになったことを述べたが、立花(生花)はそれよりもう少し早く隆盛を迎えていた。立花(生花)と茶花の関係は、無論無関係ということはなく、互いに影響を与えていたと思われる。
  これまで、茶花と立花(生花)との関係について触れてこなかった。その大きな理由は、華道(立花・生花)の成立から発展までの過程が複雑なため、その中で茶花をどのように位置づけるか定められなかったからである。まず、生花(現代のいけばな)がどのように成立したかについては、勉強不足のためもあってよくわからない。華道とは、現在使われている言葉として、「生花(いけばな)」を指すものであろうが、その名称は時代によって様々に変わっている。華道書(花伝書)を見ると、「たて花、立て花、立花、立華、抛入花、投入れ花、挿花、瓶花、生花、活花」など、様々に呼ばれていて、その名称にはそれぞれの形態のあることが記されている。
  「生花(いけばな)」の成立については、茶花のような茶会・茶の湯に使用されるというような契機はなかったと思う。それでも、奈良時代(8世紀)頃には花が生けられていたことは確かで、なかでも「仏教の供花」は、日本の生花成立に少なからぬ影響を与えたとされている。初期の形態として、十五世紀の「立花」の様子を伝えるものに、『花王以来の花伝書』(15世紀末に成立)や『仙伝抄』(16世紀中頃相伝)などがある。この伝書は、「生花(立花)」の成立を示唆し、生花の最も古い様相を伝えるものと言われている。
  そして、室町時代になると「立花」として確立し、文阿弥や池坊専応が活躍し、『文阿弥花伝書』(16世紀中頃)『池坊専応口伝』(16世紀中頃)を残している。この時代に、立花の理論や様式などが一応確立されたとされている。以後、安土桃山時代(16世紀末~十七世紀初め頃)になると、豪壮華麗な立花が飾られるようになった。そのような立花には、大きな盆に砂を張りその中に花を立てるという、「砂の物」と言う形態が出現したことが特徴的である。それに対し茶花は、茶会記に記されている限りでは、立花のような理論や様式はまだ成立していなかったようだ。
  江戸時代になって、立花の隆盛は富裕な町人たちにも広まり、寛文~元禄年間にわたって巨大な立花が数多くの飾られた。こうした立花の流行と平行して、茶花は茶の湯の花として生けられていた。茶花が「なげいれ花」として注目されるようになるのは、天和・貞享年間ころからだろう。それは、貞享元年(1684)に、「立花」を「たてはな」ではなく「りっか」と称した『古今立花大全』を著した十一屋太右衛門が『抛入花伝書』に記している。
  同じように花を扱っている華道と茶道、互いへの関心は、貞享~元禄年間に顕著になったようだ。茶書で「立花」について触れたのは、『古田織部正殿聞書』が初見ではなかろうか。ただ、慶長年間に亡くなっている織部が実際に「立花」と言う言葉を使ったとは、どうしても思えない。華道と茶道の互いへの関心は、総括的に花を扱っている華道の世界の方が、茶道より関心が早いだろう。では、華道では、どのように茶花を見ていたのだろうか。
 
「茶花」の初見
 これまで、何の断りも無く「茶花」という言葉を使ってきた。現代では当たり前のように使用している「茶花」という表記は、利休の時代はもちろん、遠州の時代にも使用されず、かなり後になってから使われるようになった。では、いつ頃から「茶花」という表現が顕れ、使われるようになったか。それは、元禄年間頃から始まり、十八世紀に入ってから浸透したものと思われる。
  全ての文献を見たわけではないので、断言できないが「茶花」の初見は、元禄七年(1694)に刊行された『古今茶道全書』(紅染山鹿庵著)ではなかろうか。『古今茶道全書二』(元禄六年永昌坊書肆習成軒刊行  古今茶道全書  五巻ノ内)の「花生様の事」の中で、
「一扨時節の花と云は
正月  梅  元日草  ふく壽草  ふくいく草とも云
大ふくの茶花に祝用  椿花」とある。
  この「茶花」の記載、茶の湯で使用する花との意識はあるものの、まだ明確ではないような気がする。
  それは、同書の「出陣の花」の項で、「茶会の花は成ほとかろく水ぎはうしろへ見すかしきれい異風を専と生る也・・・」と「茶会の花」という表現もしているからである。著者は、「茶花」と「茶会の花」の関係をまだ曖昧にしている。
この言葉を使用したのは、華道の花との対比上から「茶花」や「茶会の花」と書いたのだろう。この当時までは、茶会、茶の湯で活ける花を指すのに、わざわざ「茶」という語を付けていなかった。それが元禄年間に入ってから華道に対し「茶の湯」の場ということを、意識するようになったのではなかろうか。同年、元禄七年刊行の『当流茶之湯流伝集』(遠藤元閑著)にも、「なげ入のうち込のと云言葉は茶の湯にはなき事也」と「茶之花」の記載がある。これは、「世になげ入のうち込花のなどと云は花の道を不知人の云なり・・・立花師の方よりなげ入のうちこみのと云。本生花は立花師のしる所にあらず。・・・なげ入のうち込のと云言葉は茶の湯には無事也」と、華道との関係から述べたものである。
華道の世界では、茶花への関心が少し早いようで、前述の十一屋太右衛門が『抛入花伝書』(貞享元年1684)で、茶の湯で使用する花入れ「二重切の筒」について華道の立場から触れている。さらに、元禄九年(1696)刊行の『立華訓蒙図彙』では、「抛入百瓶之花形」に「茶の花」という言葉を記している。それは、「冬のはなに事をかきて茶の花に枯々のすゝき・・・」というように、また、「たとへ茶湯に茶の花生るとも大事は一心也」などと記されている。また、『槐記』(享保十一年三月四日)にも「茶ノ花」と書かれている。以後の華道界では浸透し、明和二年(1765)刊行の『源氏活花記上』には「茶花」の記載も見られる。
  なお、華道書ではあるが、『三斎流生花』(享保十五年1730) には、「生花を投入打込と言ハ立花師の方より嘲呼たる詞ニて 造化自然の妙所 上代生活の術中なか 立花師の知る所にあらす  然るを書院に有る大なるを 大生花 中生花と云 数寄屋囲に有茶 花を投入といふなと  自ら我家をさミするににて笑ふへきに堪たり  只 生花と可称也」と、ハッキリ「茶花」と記している。ここでの使用も、華道に対し茶道の立場を明確にするためである。茶道の花「茶花」は、華道の「投入打込」ではないことを明言しているが、少々感情的な面を感じる。
  以上のように、「茶花」という言葉は華道を念頭にして形成されたものである。
 
十八世紀前半の茶花の種類
イメージ 1  以上のように、十八世紀前半の茶花は、華道からの影響を受けているものと思われる。事実『槐記』の茶花は茶会数の割に多種類の名前が記されている。そこで、そのような変化が十八世紀前半の茶花にどのくらい顕れているか見ることにする。まず、『学恵茶湯志』『槐記』の茶花をベースに『公家茶道の研究』や『茶道聚錦』の中に散見する「茶湯百亭百会之記」「他所之茶事道具献立の留」「島津吉貴茶会記」などの一部を加えて、十八世紀前半の茶花を示す。なお、その他の十八世紀前半の茶会記として、「如心斎茶会記」「不羨斎会付」など茶会記のあることが『茶会記の研究』に記されているが、見ることができなかった。
  十八世紀前半の茶会で茶花が記された茶会、約570には71種の茶花が登場する。十七世紀後半に比べて、茶会数は倍以上多いが、茶花の種類数は7種しか増えていない。
  最も多く使用された茶花はツバキで24%、ついでウメが12%、キク11%、スイセン10%の順で、十七世紀後半の茶会と同じような順になっている。これらに次いで、5位以下の茶花は、コウホネカキツバタ、ヤナギ、ラン、サザンカレンギョウ、コブシ、フクジュソウ、アヤメムクゲキンセンカシャクヤクセキチクなどとなっている。これらの順位は以前とは異なるものの、大半は十七世紀後半にも使用されている茶花である。また、十八世紀前半の茶花は、十七世紀後半の茶花と約6割が共通している。十八世紀前半の茶花が十七世紀後半と異なるのは、一位から三位までが全体に占める割合で、47%と6%と増えている。しかし、十六世紀後半(55%)や十七世紀前半(52%)の種類数に比べれば低い。
  個々の茶花についてみると、ツバキとウメの使用頻度がこれまでとは少し違っている。ツバキの使用割合は、茶会の32%(十六世紀後半が27%、十七世紀前半が29%、十七世紀後半が24%)と最高になっている。それに対しウメは17%(十六世紀後半が20%、十七世紀前半が26%、十七世紀後半が21%)と最も低くなっている。
  十八世紀前半に登場した新しい茶花を示すと、以下の15種になる。なお、ザクロなど複数の茶会記に登場した茶花は、先に記載された方を記している。
センニチソウ・・・・・・1701年・元禄十四年八月廿九日「千日草」『伊達綱村茶会記』
  ザクロ・・・・・・・・・1703年・元禄十六年六月六日「さくろ」『伊達綱村茶会記』
  ヤマナシ・・・・・・・・1703年・元禄十六年二月廿六日「山梨」『伊達綱村茶会記』
ナギ・・・・・・・・・・1717年享保二年八月六日「なぎ」『学恵茶湯志』
ビワ・・・・・・・・・・1717年享保二年十月五日「枇杷」『御茶之湯記』
ナツツバキ・・・・・・・1718年・享保三年五月廿八日「シヤラ」『御茶之湯記』
  スオウ・・・・・・・・・1726年・享保十一年三月五日「スホウ」『槐記』
  オキナグサ・・・・・・・1726年・享保十一年四月十三日「ウナイコ」『槐記』
  ハシバミ・・・・・・・・1726年・享保十一年霜月四日「ハシバミ」『槐記』
クワ・・・・・・・・・・1728年・享保十三年三月廿四日「クワノミ」『槐記』
カザグルマ・・・・・・・1728年・享保十三年四月三日「風車」『槐記』
  オオグルマ・・・・・・・1729年・享保十四年六月十三日「木香」『槐記』
  ハハコグサ・・・・・・・1733年・享保十八年五月十六日「ハハコ草」『槐記』
  ニワトコ・・・・・・・・1734年・享保十九年霜月十五日「ニワトコ」『槐記』
スモモ・・・・・・・・・1735年・享保廿年十月廿二日「李花」『御茶之湯記』
  以上、十八世紀前半の茶花を見てきたが、華道の影響を受け、茶花の種類が飛躍的に増加すると思われたが、実際にはさほど増えなかった。十七世紀後半に登場した茶花の種類が13種あったのに比べて、十八世紀前半には15種と出現数が多少増えたくらいである。華道界では、『抛入花伝書』『立華訓蒙圖彙』の後、『華道全書』(享保二年1717)『華道道知辺大成』(享保五年1720)『生花秘傳 野山のにしき』(享保十五年1730)『抛入岸之波』(元文五年1740)など、茶花に影響を与えそうな華道書が出されているが、あまり影響を受けなかったようである。
  これで、十八世紀前半までに登場した茶花の種類は118種となった。なお、実際にはもっと多くの植物が使用されたものと思われ、今後新たな茶会記が発見されれば、さらに茶花に使用された植物の種類は増えるものと思われる。