★御開帳

江戸庶民の楽しみ 17
★御開帳
享保十三年(1728年)一月、中村座で『曽我蓬莱山』が大当たりする。
 ・三月、芝愛宕山開帳を催す。
 ・七月、吉原角町の名妓玉菊の三回忌に灯籠が出て、年中行事になる。
 ・九月、風水害で両国橋流失する。
 ・十一月、神田明神祭礼が催される。
 ○撃鉦先生『両巴巵言(リョウハシゲン)』を刊行し、洒落本の始めとなる。
 ○下野高田専修寺開帳(開催地・開帳期間不明)

享保十四年(1729年)一月、中村座団十郎の『矢の根五郎』が大入りを続ける。
 ・四月、天一坊が獄門となる。
 ・四月、法恩寺で近江錦織寺が開帳を催す。          
 ・五月、中国商人が移入した象を将軍らが見物する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・十一月、中村座で『梅暦婚礼名護屋』が大当たりする。     
 ・十二月、江戸で独楽遊びと独楽販売を禁止する。       
 ○東叡山清水堂開帳を含め2開帳(開帳期間不明)を催す。 
  
享保十五年(1730年)一月、中村座で『唐錦国性爺合戦団十郎が銀箔の足駄で御咎となる。
 ・一月、市村座で『年暦幼曽我』が春より大当たりする。
 ・二月、賭博で使う道中双六類の出版を禁止する。
 ・五月、高田八幡宮が破損し、喜田七太夫勧化能興行を催す。
 ・十月、中村座で『相生獅子』初下り、瀬川菊之丞が大当たりする。
 ・十一月、鍋をかぶりという疾はやる、鼻より上黒くなる。
 ○護国寺に修理費捻出のため、三ヶ年に三回の富興行を許可する。

享保十六年(1731年)一月、中村座で『傾城福引名古屋』初演、無間鐘好評で七月まで興行する。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 夏頃  歌舞伎に幽霊の仕掛け物が初登場
 ・九月、池上本門寺日蓮450年忌法要を催す。      
 夏頃、市村座で「水仕合の嚆矢」が大評判となる。     
 秋頃、市村座で『大角力藤戸源氏』十月まで大入りする。 
 ・十月、吉原の万字屋が京都島原から遊女を呼び、大繁昌する。
 ○麹町天神開帳(開帳期間不明)を催す。           
 ○二頭八足の奇形牛が見世物に登場する。
       
享保十七年(1732年)一月、中村座で『初暦商い曽我』長五郎が大当たりする。
 春頃、京の宮古路豊後掾市村座に出演し豊後節が流行する。
 春頃、浅草寿命院での上州新田医王寺開帳を含め3開帳が催される。
 ・五月、幕府が隅田川で餓死者の慰霊及び悪疫退散を願う水神祭を催す(江戸花火発達の契機)。
 ・六月、奈良興福寺伽藍建立募金に浅草寺で、十年間、富突講の興行を許可する。
 ・九月、吉宗、草鹿とともに賭弓・笠掛・円物、古代からの射礼の式を再興する。
 ・十一月、市村座で『兵根元蛭小島』が大当たりする。
 ○石神井川に千数百本の楓を植栽する。
 ○全国的な飢饉、米価が高騰する。
 目白不動院開帳(開帳期間不明)を催す。              
 ○江戸砂子初輯成る。
 ○上野寛永寺・大久保七面社の桜に遊覧者多し。    
 ○下谷正灯寺・鮫洲海晏寺などで紅葉の見物人が増える。

 花見と並んで、春の行楽として人気の高かったものに「開帳」がある。ただ、最近では「開帳」という言葉を聞いても、なんのことだかわからない人が多くなっている。開帳とは、寺社で、普段参拝が許されていない秘仏を、一定期間帳 を開いて信者に見せ、結縁の機会を与えるという催しである。江戸時代には老若男女を問わず多くの人々が訪れていた。
 神仏を信仰するという気持ちが希薄になった現代人から見ると、なぜ江戸時代の人々がそれほど熱心に開帳に出かけていったか理解に苦しむ。もちろん当時は、娯楽が極端に少なかったから、暇つぶしに開帳に出かける人が多かったとも言えるが、神仏を信じその慈悲にすがろうという気持ちが根底にあったのは事実のようだ。 上は、祈祷によって病を直そうとする将軍から、下は日々朝参りを欠かさない庶民まで、宗教活動が人々の日常生活に深く浸透していた江戸ならではの風俗といえる。
 とはいっても、宗教には必ず遊楽がついてまわるのが当時の特徴でもある。開帳にも多くの茶店や床店、力持ちや独楽の曲芸といった見世物小屋などが立ち並び、庶民にとって開帳は行楽の場としても欠かせないものになっていった。また、寺社側にしても、本来、開帳は純粋かつおごそかな宗教的行事として行われたが、信者から奉納金品や賽銭がたくさん集まることがわかると、次第に募金が大きなウエートを占め、開帳もそれ目当てに行われるようになった。
 浅草寺の開帳は、承応三年(1654)が最初とされているが、その時すでに、開帳の期間中の賽銭を入札にかけて金参百両で売り渡したという話がある。つまり、開帳が商売になると直観した人たちがいたということだ。
  江戸時代には、記録されているだけで何と千五百件を超える開帳が催されているが、その中で純粋に宗教的な結縁を目的にかかげたのはたったの一件しかなかった。実際は、寺社が金を集めるために行ったものばかり。それも開帳の目的は九割以上が建物の修復助成とされていたが、集めた賽銭や奉納金品は、建造物などの維持管理に使われるより他の用途に回っていたようである。
 にもかかわらず、幕府が多くの開帳を許したのは、寺社に対する公の助成が当時十分にできていなかったからである。開帳はいつでも勝手に行えるというものではなく、寺社奉行の許可を必要とした。開帳を成功させ、大金を集めるには、とにかく大勢の人に見に来てもらうことが絶対条件であるから、当然、地の利のよい盛り場周辺の寺社に狙いが絞られた。地方の寺社は、江戸にある他の寺社の境内を借りて開帳を行うことになり、これを「出開帳」と呼んだ。
 出開帳は何も江戸に限ったことではなく全国各地でひんぱんに行われていた。だが、短期間で大勢の人を動員して自宗の勢力をアピールしようと思えば、やはり地方の寺社としては、大都市、特に江戸での出開帳に大きな魅力を感じたと思われる。それに対し、江戸にある寺社がご当地で行う開帳を「居開帳」という。寺社奉行による開帳差許しの規則によれば、同じ寺社の開帳については、33年に1度という規則が設けられていた。また、江戸の寺社が出開帳のために場所を提供する場合についても、一年に5件以内と定めていた。
  出開帳の最初は、延宝四年(1676)に本所回向院で行われた近江国石山寺観音の開帳である。以後、回向院は出開帳のメッカとなり、多い年には年に4回も行っている。1回の日数は60~80日程度、ただ、長い場合は100日を超えるものもあったようで、信州の善光寺などは評判が高く常連であった。
 たくさんある江戸の寺社の中でも、特に回向院に人気が集まったのは、近くに両国橋広小路という江戸随一の盛り場をひかえ、またその先に本所・深川の遊里があったからだろう。一方、居開帳がもっとも多かったのは、浅草寺で、江戸時代に36回も行っている。してみると、前述の開帳差許しの規則は、実際にはかなり融通がきいたようで、寺社側は様々な大義名分を押し立てて許可をもらっていたようだ。
 ところで、開帳を成功させるには、宣伝が重要である。そこで、開帳を予定している寺社は、一人でも多くの人に来てもらうため、両国橋など人目に付く場所に、大中小様々な建札を設置し宣伝に努めた。大きいものになると一丈五尺(4、5m)ほどもあったという。
 享保四年(1719)の浅草寺の開帳では、9カ所に建札を設置している。といってもこの時は、浅草寺自身が開帳する、すなわち居開帳の建札であるから、宣伝としては控えめな方であった。これが、出開帳ともなると江戸での知名度の低い寺社が多いから、どうしても宣伝活動に力を入れざるを得ない。出開帳の許可も居開帳と違って一年くらい前に下りるので、早くから準備することもでき、居開帳の倍以上建札が設置された例もあった。
 さらに、もう一つの宣伝方法は、江戸市中の開帳パレードである。これは出開帳の場合、江戸に開帳仏が到着したことを知らせるために行われるのだが、揃いの衣裳を身につけた講中が大幟を押し立てて団体で練り歩く様は、人目をひき、宣伝効果は抜群であった。わざわざ繁華街をコースに選び、裕福な商人から寄進を取りつけ、一方、商人たちも積極的に開帳パレードのスポンサーになって店のPRに結びつけたりしていた。また、開帳に伴って催される見世物も、人を集めるには有力な手段であった。
 寺社は開帳にできるだけ多くの人々を集めようと、商人や見世物などいろいろなものを利用しているが、逆に開帳を利用している人もいた。たとえば、享保十八年(1733)の浅草寺の開帳の際、吉原の遊女たちは本堂裏に千本桜を寄進し、満開の枝に自分たちの名を書いた札や詩歌の短冊をつるし、参詣帰りの男たちに登楼を誘ったという。また、開帳に奉納した物の内容が「奉納物速報」として売り出されたが、その奉納物の大部分が吉原の遊女屋とその抱え妓によって占められていた。しかも、その主な奉納物は、遊女の名入りの提灯である。つまり、浅草観音には登楼客がふえるように手を合わせ、参詣客に対しては自分を売り込むという、一石二鳥を狙った作戦であった。
  さて、江戸では長らく、居開帳は浅草寺、出開帳は回向院と互いに張り合っていたが、両寺院が時を同じくして開帳を催すこともしばしばあった。また、開帳ではなくても浅草の縁日(四万六千日など)と回向院の開帳が重なることも珍しくなかった。このような場合でも、参詣者の奪い合いになるかと言えば、必ずしもそうではなかった。むしろ相乗効果となり、ともに賽銭額は増えたようだ。見世物については、距離的に近いこともあって、両方に足を運ぶ人が多かったので、プラス効果はもっとはっきり現れた。
 開帳による賽銭その他の収入は、善光寺出開帳の例で見ると、元禄五年(1692)がもっとも多く一万二千両余。が、文政三年(1820)になると三千両余とぐっと少なくなる。年代が後になるにつれて減少する傾向があるらしい。さすがに長くやっていると、ご開帳のありがたみも薄れていったのだろう。その上、後になるにつれて開帳の「宝物」にもかなり怪しげなものが登場し、「地方の名もなき小寺の開帳は、もっぱら資金集めのために急ごしらえで作ったイカサマばかり」というような有様で、人々の開帳熱も冷めていった。
  それにひきかえ、見世物などの賑わいは、逆に幕末に近づくにつれて一層の盛り上がりを見せた。さては、賽銭が木戸銭に化けたのだろうか。1回の開帳に訪れる人数は、多い時は30万人から100万人近くに達したこともあっただろう。また、開帳に伴って催される見世物の入場者から想定すると、江戸では年間延べ100~200万人の人々が開帳に出かけたと推測される。