★庶民の遊びに憧れて

江戸庶民の楽しみ 23
★庶民の遊びに憧れて
・寳暦十年(1760年)二月、明石屋火事で中村座市村座が焼失する。
 春頃、肥前座が類焼し、十月に廃座願いが出される。
 春頃、六阿彌陀不残開帳を含め6開帳が催される。
 ・四月、麹町心法寺で印旛郡佐倉松林寺が開帳催される。
 ・五月、徳川家治、十代将軍になる。
 ・七月、人家に近いところでの花火遊びが禁止される。
 ・七月、浅草本法寺で安房南無谷村妙福寺が開帳を催す。
 ・十月、芝神明社勧進相撲が催される。
 ○市ヶ谷で松田長元が物産会催す
 
・寳暦十一年(1761年)三月、茅場町薬師内での信州高井郡金胎寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・四月、相州江ノ島岩屋弁財天開帳、江戸より参詣多し。
 ・四月、回向院一言観音開帳を含め7開帳が催される。
 ・五月、富士講中から鉄砲洲の富士浅間神社に、築山富士山を奉納される。
 ・七月、浅草唯念寺で下野高田専修寺が開帳を催す。
 ・十一月、浅草御蔵前八幡で勧進相撲が催される。
 ○土佐座が興行を始める。
 ○三田八幡宮開帳(開帳期間不明)が催される。
 ○是心軒一路が松月堂古流の生花を創始する。
 
・寳暦十二年(1762年)三月、芝高輪常照寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・三月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・三月、市村座で『柳雛諸鳥囀(ヤナギニヒナショチョウノサエズリ)』(廻リ道具ノ始メ)が大入りとなる。
 ・四月、神田明神祭礼が翌年に延期
 ・四月、回向院での上総国千田村稱念寺開帳を含め7開帳が催される。
 ・四月、両国橋詰で一丈余の翻車(マンボウ)の見世物、連日満員となる。
 ・閏四月、平賀源内が湯島で物産会を催す。
 ・七月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、永代寺での成田不動尊開帳を含め2開帳が催される。
 ○浅草榧寺開帳を含め2開帳(開帳期間不明)が催される。
 
・寳暦十三年(1763年)三月、四谷から大塚にかけて大火となる。
 ・春頃、回向院での邑楽郡板倉村宝福寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・四月、深川玄信寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・四月、神田明神社で勧進相撲が催される。
 ・六月、山谷熱田明神祭礼、山車・練物が出る。
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ○根岸円光寺の藤に見物人集まる。
 ○外記座が興行を始める。
 
・寳暦十四年(1764年)二月、朝鮮通信使通行の際、町人が華美な衣装を着ることを禁止する。
 ・三月、上野にて曲馬あり、諸人が見物する。
 ・三月、目白不動尊開帳を含め5開帳が催される。
 ・三月、浅草御蔵前八幡で勧進相撲が催される。
 春頃、三座で『助六』の狂言大当たりをとる。
 ・四月、回向院での入間郡山口金乗院開帳を含め5開帳が催される。
 ・五月、中村座で『菅原伝授手習鑑』が大入りとなる。
寳暦年間○両国界隈が賑わうようになる。
 ○江戸節や河東節が流行(土佐浄瑠璃ガ廃レル)する。
 ○弘法大師八十八箇所参り始まる。
 ○源氏流の千葉龍卜が江戸に来て、生け花が隆盛し始める。
 ○杉森稲荷祭、寳暦九年まで隔年で練物神輿出るが中絶する。
 ○小野照崎明神祭、隔年で練物神輿出るが七年から中絶する。
 ○寄席と称する演技場で講釈師演じる。
 ○寳暦末より矢口新田社に参詣多くなる。
・明和元年(1764年)六月、深川碗蔵番頭大久保豊州侯下屋敷の稲荷社へ参詣人多くなる。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・七月、回向院での伊勢山田入門寺開帳を含め2開帳が催される。
 ・八月、品川や千住・板橋の飯盛女の増員が許可される。
 秋頃 護国寺での秩父三十四番観世音開帳に女力持ち興行が催される。
 ・十一月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ○岡場(私娼)約40ヶ所となる。
 ○軍書講釈はやり深井志道軒ら人気となる。
 ○法恩寺陸奥南部本誓寺開帳(開帳期間不明が催される。
 
・明和二年(1765年)一月、市村座で『色上戸三組曽我』が大当たりする。
 ・三月、芝神明社勧進相撲が催される。
 ・春頃、谷中正運寺開帳を含め3開帳が催される。
 ・五月、川柳撰集『誹風柳多留』刊行を開始する。
 ・七月、回向院での府中深大寺開帳を含め4開帳が催される。
 ・七月、両国で「雷獣」の見世物に群集する。
 ・八月、小塚原・中村町の飯盛女の人数が一宿50人となる。
 ・八月、芝浦で捕獲された大翻車魚(マンボウ)が両国で見世物
 ・九月、神田明神祭礼が催される。
 ・十月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・十一月、森田座で『勝時栄源氏』大当たりも宗十郎怪我で不入りとなる。
 ○江戸の浮世絵師鈴木春信、錦絵を創始する。

 寳暦年間には、庶民の遊びが盛んになるだけでなく、庶民ならではの江戸文化が台頭してくる。江戸節や河東節が流行し、源氏流の千葉龍卜が江戸に来て生け花を広める。寄席と称する演技場で講釈師が演じるようになる。そして、浅草真先稲荷に田楽茶屋が数軒でき繁盛するなど庶民の憩う場所が増え、見世物のメッカとして両国界隈が賑わうようになる。
  江戸の町は当初、参勤交代の供をして地方からやってくる侍、関西などから上京して商家で働く町人、それに出稼ぎに来た田舎の人といった類の人間が多数を占めていた。が、江戸時代も百五十年程たつと、江戸生まれの江戸育ちという割合も次第に大きくなっていった。このように江戸で生まれた人が、「江戸言葉」という独自の言葉を使い、京・大坂とは趣の違う都市生活を営むようになった。
 それまでの庶民の遊びといえば、武士たちがやっていることを真似するというパターンが多かった。舟遊びや花火、吉原や歌舞伎にしても当初は、武士が圧倒的に多かった。武士の遊びに憧れて、庶民が次々に参入。やがて金の力にまかせて、自分たちの楽しみにしてしまった。
 しかし江戸中期になると、江戸の町には、庶民でなければ楽しめないような遊びも誕生した。たとえば、女相撲一寸法師など一種いかがわしい見世物の見物、また茶屋で評判の娘をからかったり、縁日を冷やかして歩いたり、怪しげな屋台で売られているものを立ち食いしたり・・とささやかではあるが、いずれも肩の凝らない楽しみが溢れていた。このように町人たちがさもおもしろそうに遊んでいるのを見ると、武士も時には町人の遊びを真似したくなっても不思議ではない。
 もっとも下級武士であれば、町人とともに行動することもできるが、身分がありプライドの高い武士ともなれば、庶民の真似をすることはありえなかった。テレビの時代劇を見ると、『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』をはじめ、身分の高い人が庶民のふりして街中をうろうろするような話がよく出てくるが、実際にはそんなことは許されなかった。
 安永年間(1772~81年)に入ると両国に「霧降咲男」という放屁男の見世物が出た。町人、特に庶民は、おもしろそうだと、勇んで見世物小屋に殺到した。が、まともな武士は、内心では興味があっても、下品な見世物には近寄ることはできなかった。安永七年(1778年)の善光寺阿弥陀如来開帳の際も「鬼娘」という見世物が出て賑わった。町中では、庶民がわがもの顔で遊び、面白そうなものがあふれていた。そのようなものに関心を向けて、松平大和守が堺町などへ家臣を見物に遣わしたことを以前に記した。当時の武士たちは、興味があっても実際に行おうということはしなかった。
 しかし、時代が下るに連れて庶民の楽しみに触れたくなり、将軍たちは城内で相撲見物するくらいでは物足りなくなった。庶民の街の賑わいを肌で感じてみたいと思っていたようで、庶民にしかできない楽しみに憧れていたことは確かである。それは、尾張藩下屋敷で、将軍たちが「御町屋」というテーマパークを作り、町人ごっこを楽しんでいたという事実がからもうかがえる。
 尾張藩下屋敷は、現在の新宿区戸山にあって、都立戸山公園の一部になっている。ここに、尾張藩徳川家の下屋敷があり、約45ha(136,000坪)もある広大な敷地の大半が回遊式庭園になっており、「戸山荘」と呼ばれていた。この庭園は、25の風景からなっていて、個々の景色には様々な趣向が凝らしてあった。
 たとえば、「鳴鳳渓」という場所にさしかかると、深谷にわけ入ったような心地になる。龍門の滝からは轟音とともに水が流れ落ち、急流の中にかろうじて出ている石の上を渡る。向かいの岸に登り後ろを振り返ると、いま自分が渡ったばかりの石が見る見るうちに水中に沈んでしまう。というような凝った仕掛けが戸山荘には作られていた。
 さらに、戸山荘において最も特筆すべきことは、宿場町「御町屋」を再現したことである。この原寸大の疑似宿場町には、在郷の農家や門前茶屋などの雑景と思われるような景観が数多く作られ、「小田原宿」と呼ばれていた。
「小田原宿」は、南北に36の町屋が約140メートルの長さの町並みを連ねていた。町の東には池と田園風景が広がり、本陣、問屋、旅籠屋のほか、米屋、酒屋、菓子屋、薬屋はもちろん、瀬戸物屋、本屋、絵屋、扇子屋、植木屋さらには、弓師、矢師、鍛冶屋といった職人の店、「和田戸庵」と称する医師の家など、本物そっくりの様々な建物が宿場独特の風情を生み出していた。その他番所や井戸などもあり、街道からやや奥まった所には、大日堂や人丸堂も建てられていた。
 さて、「東海道五十三次」に描かれた景色を一部再現した庭というのは、他の大名屋敷にも見られるが、戸山荘の「御町屋」の魅力は建物だけでなく、宿場の「空気」まで忠実に再現しているところにある。「御町屋」は、将軍家が訪れる遊興の場としても用いられた。店はのれんや看板で飾られ、実際に菓子や田楽などの商品も並べられていた。店先に置かれた調度品にしても、いずれも当代の一級品揃いという凝りようであった。
 たとえば花屋の店先には美しい生花が飾られ、草花の盆栽(はちうえ)もたくさん並べてあった。さらに、注目すべきは、鍛冶屋は炭を散らかしたまま、経師屋は表具を張りかけたまま、というような演出があった。それによって、あたかも町人が数分前までそこにいて、何かの用で中座しているような雰囲気が残されていた。
 ここを訪れた身分の高い武士たちは、小田原宿をふらふら歩き、店先の商品を手に取ったり、菓子を摘んだりして気ままな時間を過ごした。将軍家斉などは花屋の軒先で花を所望し、それを土産に持ちかえった。つまり「御町屋」は庶民の日常を疑似体験できるという、高級武士にとってはまたとない娯楽の拠点であった。
 ただ、原寸大で再現した庶民の街とはいっても、一点だけ本物の町と違っていた。それは、「御町屋」には町人が一人もいなかったことだ。なぜなら、武士たちが「素」に戻って遊んでいる様子は、庶民には決して見せられないものであったから。「大名家の施設テーマパーク」ともいうべき場所で、高級武士たちは文字通り羽織袴を脱ぎ捨て、ごっこ遊びに興じていた。
 さらに「御町屋」は、日頃自由のきかない高級武士にとって、庶民の間でちょっとした流行になっていた「旅行趣味」をも満たしてくれる存在だったに違いない。
 家斉もこの「御町屋」が気に入っていたらしく、再三訪れた。公式訪問ということになると、尾張藩に負担をかけるとともに、将軍としての外聞もあったのか、鷹狩りのついでに戸山荘に立ち寄るという形をとった。来訪する時には裏門から入って、裏門から出ていったと言われている。
  いつの世にも遊びには若干の後ろめたさがつきまとう。だが、そうした負の要素があるからこそ、遊びはより楽しみを増すのかもしれない。