★盛んになる相撲

江戸庶民の楽しみ 24
★盛んになる相撲
・明和三年(1766年)二月、堺町から出火中村座市村座が焼失する。
 ・三月、芝神明社勧進相撲が催される。
 ・春頃、永代寺での三河岡崎伊賀八幡開帳を含め4開帳が催される。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・夏頃、回向院での南都菅原喜光寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・七月、回向院での川崎真福寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・九月、市村座で『忠臣蔵』中蔵の定九郎、工夫を以て大当たりする。
 ・十月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ○亀戸龍眼寺の境内に数種の萩が植えられ遊覧地となる。
 ○浅草榧寺での甘楽郡白井源空寺開帳を含め2開帳(開帳期間不明)が催される。
 
・明和四年(1767年)三月、永代寺で近江竹生島弁財天開帳が催される。
 ・三月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・四月、深川洲崎弁財天開帳を含め4開帳が催される。
 ・四月、相州江ノ島岩屋弁財天開帳、江戸より参詣人多数訪れる。
 ・七月、田沼意次側用人になる。
 ・八月、中村座で『鳴神』が大当たりする。
 ・八月、高田穴八幡宮祭礼に練物が出る。
 ・秋頃、髪切り魔が出現する。
 ・十月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ○狂歌が流行し始める。
 ○猿町雉子宮宝塔寺開帳(開帳期間不明)が催される。
 
・明和五年(1768年)二月、風邪はやり、風神送りの行事が盛んとなる。
 ・春頃、王子権現開帳含め2開帳が催される。
 ・四月、吉原江戸町より出火、遊廓が焼失する。
 ・五月、森田座で『笠森お仙』を上演、好評となる。
 ・六月、鳥越明神祭礼に練物が出る。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 夏頃、回向院での尾張野間之内海大師堂寺開帳を含め5開帳が催される。
 ・七月、中村座で『繰歌舞伎扇』が大評判で大入りとなる。
 ・九月、本所回向院で勧進相撲が催される。
 ・十一月、市村座で『吉原雀』が大当たりする。
 ・十一月、市ヶ谷八幡宮勧進相撲が催される。
 ○町人の間で尺八が人気となる。
 ○下谷広小路に伊藤松坂屋が店を開く。
 
・明和六年(1769年)二月、中村座で『相生獅子』が大入りを取る。
 ・三月、回向院での近江三井寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・春頃、両国で達磨男の曲芸大当たりする。
 ・四月、森田座で『仮名手本忠臣蔵』を上演、大大当たりとなる。
 ・六月、娘評判記、読売仙歌などの販売が禁じられる。
 ・夏頃、浅草寺観音開帳を含め7開帳が催される。
 ・八月、渋谷東福寺で相模三浦郡矢部村満昌寺開帳が催される。
 ・八月、田沼意次老中格になる。
 ・九月、小石川氷川明神祭礼、町々より練物を出す。
 ・九月、市村座で『小野道風青柳硯』が大当たりする。
 ・九月、神田明神祭礼、喧嘩あり、祭礼はこの年より休止となる。
 ・十月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ○「通」という言葉が使われ始める。
 ○浅草寺の見世物に大蛙が出る。
 ○浅草や両国で盲と女相撲が興行、日々大入り。
 ○浅草閻魔堂で足立郡千菜山十連寺開帳(開帳期間不明)が催される。
 
・明和七年(1770年)一月、薩摩座で平賀源内作浄瑠璃『神霊矢口渡』が初演される。
 ・三月、回向院での近江三井寺開帳を含め6開帳が催される。
 ・春頃、湯島天神開帳(開帳ニ謎解キ評判)を含め3開帳が催される。
 ・四月、森田座で『仮名手本忠臣蔵』の半四郎大当たりする。
 ・四月、深川八幡で勧進相撲が催される。
 ・五月、江戸近郊に蝗害、麦・野菜に被害が出る。
 ・六月、山王権現祭礼が催される。
 ・六月、回向院での嵯峨清凉寺開帳に「嵯峨おこし」が売り出される(江戸ノオコシノ始メ)。
 ・閏六月、城下の町中や人家の多い所での花火が禁制となる。
 ・夏頃、回向院での嵯峨清涼寺開帳を含め8開帳が催される。
 ・秋頃、回向院での京都東福寺塔頭海蔵院開帳を含め7開帳が催される。
 ・十一月、市谷長延寺で雲州釈迦獄雲右衛門が大関となり、雷電為右衛門と一世一代の相撲興行を催す。
 
 相撲の歴史は古く、江戸時代になっても何度も禁止されているが、寛永元年(1624年)頃から営業本位の勧進相撲が許可され興行として確立した。宝歴七年(1757年)、江戸勧進相撲独特の相撲番付(縦書きの番付で、歌舞伎をはじめ以後の全ての番付がこの形式を真似している)が発行されている。
  またこの頃、江戸(春冬)、京都(夏)、大坂(秋)の四季の勧進相撲が公認され、化粧回しも出現している。相撲は武術の類から分かれて、次第に風流化していった。明和年間(1764~72年)には、相撲会所や相撲茶屋などができ、天明元年(1781年)年には、回向院の勧進相撲から興行日数が晴天十日間に定まった(以後1923年まで続く)。寛政元年(1789年)には、横綱が免許され、土俵入が披露されている(なお、当時の横綱=最強者ではなく、最高位は大関であった)。
 当時、勧進相撲だけではなく、辻相撲や素人相撲も人気があった。安永二年(1773年)には、以前から盛んに行われていた素人相撲や神事などの相撲も木戸銭の徴収が禁止された。これは、相撲人気の加熱を防ぐためと、見世物化することにブレーキをかけようとしたものであろう。相撲人気はさらに高まり、将軍も見ずにいられなくなったのだろう。
 寛政三年(1791年)六月、将軍家斉は、城内の吹上庭で相撲を上覧している。その時、メーンイベントとなった取組は、東関脇・陣幕島之助×西関脇・雷電為右衛門、東大関・小野川喜三郎×西大関谷風梶之助であった。
 まず関脇同士の対戦では、これまで十数回戦って一度も勝ったことのない陣幕が“喉づめ(のどわ)”という技で雷電を破った。陣幕は上覧相撲で勝ったことから名を上げ、抱え主の殿様は上機嫌だったという。
 次の取組は、行司が軍配を引かないうちに、両者が取り組んだので取り直し。再度の仕切りで、軍配は引かれたが、谷風は立ったが小野川は“待った”をした。そこで、行司は小野川が気遅れしたものと判断して、戦わずして谷風の勝ちとした。そのため、将軍は、期待された大一番を見ることができなかった。もしこれが上覧相撲でなく、いつもの勧進相撲であったなら、小野川も“待った”をせず、力と力のぶつかり合う熱戦が見られただろう。
 上覧相撲になると、陣幕のように勝つことだけしか考えない力士が出てくる。小野川にしても、正攻法では勝てないとみて、“待った”戦法を仕掛けたのだろう。それに気づいた行司は、見苦しい相撲を将軍に見せたくないという思いから、いち早く谷風の勝ちと告げたに違いない。(以前、無敵の大関・初代谷風が関脇八角に何度も“待った”をされ、谷風は戦う前に体力と集中力を消耗して、負けたことがあった)。
 ところでこの上覧相撲は、一体誰が最初に考えたのだろうか。それは、あの「寛政の改革」を推進した松平定信であった。では、なぜ、質素倹約を旨とする改革中に実施したのか。定信は、厳しい改革で、人心が萎縮し沈滞することを恐れた。と同時に、士気の高揚を目指して上覧相撲を行ったものと思われる。
 もっとも将軍の相撲見物は、庶民の相撲熱を高めることには貢献したが、武士たちの士気高揚にはあまり効果がなかったようだ。上覧相撲では、それまでの辻相撲や見世物の類から一歩でて、ルールや格式を持ったものとして認められた。たとえば、上覧相撲に勝った谷風は弓が与えられ、弓取式が行われたのを機会に、「これより三役」の勝ち力士に、矢・弦・弓を授けるようになった。
 相撲人気が高まると、女相撲や座頭相撲のような珍妙な相撲も登場し、その様子が当時の黄表紙滑稽本に描かれている。特に明和年間には、女相撲が大流行したらしい。さらに、盲と女の相撲は、日々大入りと人気を博したが、当然、社寺奉行から停止を命じられ、相撲小屋の取り払いはもちろん、興行人も罰せられた。ただ、これによって絶えたかといえば、というわけでもない。珍相撲は、明治になって違式註違条例により大相撲自体が弾圧されたにもかかわらず、明治二十三年(1890年)十一月十四日付の国民新聞に、「評判の女頭も、昨日より回向院境内にて興行する」とある。
 さて、女相撲は、下々の者しか興味を持たなかったのかといえば、そうでもない。平賀源内が書いた『長枕裾合戦』によれば、田沼主殿頭の息子山城守は、神田橋の屋敷で、毎晩の奥女中に相撲を取らせていたという。勝ち負けは度外視して、とにかくおもしろく取った方が勝ち。殿様のお気に召せば法外の褒美が貰えたそうだ。