江戸の打ちこわし

江戸庶民の楽しみ 94
江戸の打ちこわし
・打ちこわしと一揆
 慶応の打ちこわしを詳しく見てみよう。まず、打ちこわしの発生する前の江戸および周辺の状況をいくつか具体的に示す。
 慶応二年、江戸市中には、米の高騰や売り惜しみをする者の処刑を宣告する張札が三月に出る。四月、五月にも打ちこわしなどを予告する張札があった。五月十日には、米の安売りを予告する偽の掲示があったが、町役人などが訪れた人々を制して事なきを得た。
 江戸近郊の村々では、五月十八日、荏原郡八幡塚村の鎮守境内で、困窮人4~50人が名主らに金を出させて米の安売りをさせる。二十三日、同じく荏原郡堀之内村で名主宅を打ちこわし、米屋に安売りを承諾させる。二十四日、大井村御林八幡宮に百人余が打ちこわしのために集まり、「身元よき者」より三百三十両出金させている。
 そして、ついに江戸の打ちこわしがはじまった。二十八日、午後八時頃、手拭いで顔を隠した一人の男が南品川宿の御獄町稲荷社に来て、太鼓の借用を頼んだ。断られたが無理矢理持ち出し、馬場町東岳寺境内に運んで打ち鳴らしはじめた。すると、どこからともなく人々が集まり、南品川宿、北品川宿、品川歩行新宿など打ちこわした。また、北品川にもどって、東海寺門前・御殿山で打ちこわした。人数もはじめ20人ぐらいだったのが、おわりには180人ぐらいになっていた。打ちこわしにあったのは、質屋、米屋、酒屋など40余軒であった。
 二十九日の夜十時頃、人集めの太鼓が鳴り、この日は約4~500名が集まり、本芝(現在の港区)の二二ヶ町で六七軒の打ちこわしが行われた。六月一日には、午前三時頃より、同じ芝で、19軒の打ちこわしがあり、店の商品を散乱させ、六時頃逃げ去った。二日は、牛込、四谷(現在の新宿区)などで25軒、麻布で26軒が打ちこわされた。三日は、堀留町、牛込中里町、早稲田町馬場下町、鎌倉横町などで打ちこわしがあった。さらに、四日は本所茅場町、四谷伝馬町、五日は本所緑町、六日は赤坂で打ちこわしが続いた。打ちこわされた家は、質屋や米屋、酒屋の他に横浜貿易で利益を得て日頃からよく思われていない唐物渡世業者などの裕福な町家であった。
 江戸の打ちこわしがようやくおさまった直後(六月十三日)、武州世直し一揆秩父郡名栗村からはじまった。穀物を食いつくした村民が、座して死を待つよりは、と蜂起。名栗周辺より農民2~300人が飯能川原に結集した。碗箸杓子の絵を描き、「世直し」と記した大文字の幡か、あるいは「平均世直し将軍」と太筆で記した幡を真先に押し立てて、飯能村の四軒の籾屋を打ちこわしたのを機にはじまった。以後、一揆は拡大し、十万人規模になったとされている。
・誰が打ちこわしたか
 さて、市中の打ちこわしに先立って行われた村々の騒動の実行者は、被害を受けた名主などによって身元がわかっている。それでは、打ちこわしの実行者は、どの程度確認されているのだろうか。最初の品川宿では武家、町人、中間躰の者が入りまじっていたとある。その他、印半天などを着た職人、または肴屋らしき者、弁慶縞の単物を着た若衆などという記述もあることから、打ちこわしはその日ぐらしの貧民層で職人が多かったようである。それも、遠方の者ではなく、付近に住む難渋者たちらしかった。また、六月二日に捕らえられたとされる三人は、俗に言うごろつきであった。
 職業のはっきりしていたのは、六月五日、赤坂の打ちこわしをして召し捕られた、塗師、竜吐水屋、鳶職、八百屋などである。しかし、この日、打ちこわしの見物禁止の町触も出されており、つかまった8人が、果たして見物人か参加者かという疑問は残った。
 江戸の打ちこわしは、噂があると大勢の人数が集まってきた。そして打ちこわしを制止することもなく傍観していた。打ちこわしの人数は様々で、10人から120人ぐらいが多かったようだが、なかにはたった2人でこわしたというのもある。六月五日の本所の質屋の打ちこわしは、十二、三歳の子ども7人から始まった。このように、大人に混ざって子どもの参加もあった。なかには、十五、六歳の男子が屋根の上を跳ぶように自在に走り回って指示していたという記録もある。
 打ちこわしが具体的にどういうものかというと、昼間町内の者が質屋や米屋にやって来て、施しを乞う。それを断ると、今晩こわしに来ると言って立ち去る。また、朝から何となく人数が集まり、はじめは子どもの中に大人が混じっていて遠巻きに見ていたのが、若衆が長暖簾を引きちぎったのを合図に見物人がどっと声を上げてなだれ込むなど、形は様々であった。ただ、共通するのは、家財を打ちこわす、商品を散乱させるなどが中心で、いわゆる盗みが目的ではなかったこと。また、打ちこわしには、必ずといっていいほど多数の見物人がいて、打ちこわしに声援を送っていることである。
 ここで、注目したいのは、江戸の打ちこわし(五月二十八日)より前に行われた近郊農村の実力行使では、米の安売りをさせたり、金を出させるなどしていた。ところが、品川から始まる打ちこわしは、米や金などを取るよりものを壊すことが目的となっていた。そして、庶民は打ちこわしを見物しているだけで、米や金を貰うという実質的な恩恵をなにも得ていない。
 一方、武州世直し一揆は、高利貸、外国売買の商人、宿々籾問屋、高利質屋などを対象としたが、人身殺傷はなかった。一揆といっても、下層農民だけでなく職人を含み、村役人の指導もあり統制がとれていた。各村の一揆の要求と目標は共通し、一揆は行く先々でその地の人々と交代し、前の組は自分の村に帰るというように、村同士の連帯が図られていた。
 江戸の打ちこわしは、連鎖的に発生しているが、革命を目指すものではなく、日頃のうっぷんを晴らすという感情に支えられていたように見える。打ちこわしに参加した人々は、生活に困窮していたはずだが、なぜか略奪行為はしていない。打ちこわしを行なうのは、近在に住んでいる困窮民だったと言われているが、打ちこわしにあった家の顔見知りの者ではなかった。打ちこわしにあった家の人は、犯人を見ているが以前会ったことがないとしている。もし、近くの住民であれば、見物していた近所の人は、犯人を密告するか白状させられているはずだ。なお、実行者は必ずしも町人だけではなく、首謀者はわかっていないものの、計画的なものもあったとされている。
 江戸の庶民は、幕末の騒動を常に見物していたのは確かだが、中心となって行動したのかというとどうもそうではないようだ。江戸の打ちこわしが、庶民の生活苦から自然発生的に起きたという見方には、やはり疑問が残る。打ちこわしの終結は、触れが出されたからというよりは、打ちこわしが庶民の暴動を誘発させるに至らなかったためではなかろうか。

慶應2年1866年 
1月 浅草奥山に活人形やゼンマイからくり人形等が出る   
1月 芝白金清正公前明地に牝ライオンの見世物       
2月 茅塲町薬師境内花角力、大繁盛            
2月 守田座で『富治(フジト)三升扇曽我』「いかけ松」大当たり
3月 南傳馬町辺りで年少者の歌舞伎狂言を催し賑わうが中止 
3月 回向院で勧進相撲                  
3月 浅草寺蔵前で活人形の見世物出る(膝栗毛ノ人形、遊女ノ湯浴ミ姿ナド)  
4月 座元薩摩吉右衛門等は米沢町で興行を許され、大入り  
4月 小石川白山権現社内で百日芝居興行          
5月 両国橋東詰で西洋伝来木匠の器械の見世物、流行らず  
5月 猿若町三座の芝居興行中止(人通リ絶エ、揚屋・飲食店等サビレル)    
6月 神田社地三天王御旅なし、山王権現祭礼なし      
6月 本所回向院で三河国勝鬘皇寺開帳、曲馬等の見世物あり 
6月 芝金杉円珠寺境内、百日芝居興行
7月 山谷正法寺天開帳、朝参り多い            
8月 浅草御蔵前で、7歳の天神小僧が文字の曲筆の芸を見せる
9月 上野大師縁日(貧民群集シ異人ニ怒鳴ッタタメ春米屋休業)         
11月 三芝居顔見世狂言興行なし
11月 芝金地院開帳                    
11月 回向院で勧進相撲
冬頃 寺院等で無断で富突興行、場主捕らわれ催主厳刑される 
☆この年のその他の事象
1月 薩長同盟が成立
2月 上野花見の頃、山内の出茶屋が閉めさせられる
3月 市中寄席取締り通達
4月 弁当屋が流行る(調理シテ重箱ニ詰メテ売ル)
5月 医学所出張所を増設、種痘を実施
5月 物価急騰し、打ち壊しが起きる 
6月 窮民に銭を支給する      
8月 町会所で、窮民に米を廉売する
8月 団子坂で英国人と貧民が衝突、怒った群集は猿若町の方まで追いかける
9月 窮民、施しを求めて練り歩く
10月 幕府の歩兵が吉原で乱暴を働く
10月 芸人の渡航が許される
11月 吉原の遊廓が全焼する     
11月 牛を羹にして商う店や西洋料理と称する貨食舗が所々に出現
12月 徳川慶喜、15代将軍になる