江戸庶民の楽しみ 93
お蔭参りとええじゃないか騒動
・伊勢参りからお蔭参りへ
江戸時代、「お蔭参り」と呼ばれる伊勢神宮への集団的な巡礼行動が周期的に繰り返された。もともと伊勢神宮への信仰は、江戸時代以前から民衆に広がっており、参詣も年を追うごとに盛んになっていた。元禄年間(1688~1703)に訪れたドイツ人の博物学者ケンペルは、二度の江戸参府旅行で、往復四回にわたって、伊勢参りの一団の人々に出会っている。そして、「この参詣の旅は一年中行われるが、特に春が盛んで、それゆえ街道はこのころになると、もっぱらこうした旅行者でいっぱいになる。老若・貴賤を問わず男女の別もなく、この旅から信仰や御利益を得て、できるだけ歩き通そうとする。自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手に入れなければならない多くの伊勢参りの人たちは、参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。」(『江戸参府旅行日記』斎藤信訳 平凡社)と書いてあるように、伊勢参りは江戸時代の初期から盛んに行われていた。毎年行われる伊勢参りのなかで、特に参詣者の多い年がある。それは、1650年(慶安三)、1705年(宝永二)、1771年(明和八)、1830年(文政十三年)てある。この年の伊勢参りは、特に「お蔭」がいただけるありがたい年としてお蔭年という観念が発生した。
宝永二年のお蔭参りは、少年層の抜け参りから始まったとされている。抜け参りとは、若年の者が親や雇い主に知られずに伊勢参りをすることである。若い男女が群集し、昼夜共に行動するということから、当初は是非が論じられたが、次第に習慣化し、一般の承認を得るようになった。お蔭参りに参加する人々は、年齢に関係なく、十分な旅支度をせず、路銀も持たずに家を出ている者が多かった。そのため、道中、人々の援助(施業)を受ける必要があった。伊勢街道では参詣人に無料の宿泊所が設けられたり、にぎり飯、赤飯、粥、茶、などがふるまわれたりした。なお、これらの施業には、むろん、神への「報施」とか参詣人を思いやるという動機もあったが、必ずしもそれだけではなかったはずだ。それは、施業されて当然と思う人々の、それも集団の無言の圧力が存在したに違いなく、その裏には、拒否することによって群集の略奪や打ちこわしの標的になることを恐れるといった意味も大きかった。
宝永のお蔭参りから66年たった、明和八年のお蔭参りは、最も大規模なお蔭参りと言われ、広範な階層の人々が参加していた。また、明和のお蔭参りには、お札(ふだ)が降るという不思議な現象があり、それも大規模かつ長期にわたって現象が見られたらしい。文政のお蔭参りは、明和のお蔭参り(1771年)から59年たった文政十三年(1830)、来年がお蔭参りの年にあたるとの情報が方々に流れ、待ちきれず阿波から始まった。このお蔭参りは、お蔭年が迫っていることが早くから予知されたため、六十年目の一年前に発生していた。そして、明和のお蔭参りと同様、各地にお札が降った。また、この文政のお蔭参りには、手に手に杓をもって参詣するという特徴があった。文政のお蔭参りでは、若い女性の男装や、鬼面などの面をかぶるなど、仮装の域を超えた風俗が見られた。また、明和のお蔭参りの際には、卑猥な歌を声高に歌ったり、妙な絵を幟に立てたりというような滑稽卑猥な風俗が見られた。
・お蔭参りは偶然ではない
ところで、お蔭参りの裏には何か作為的なものがありそうだ。柳田國男監修の『民俗学辞典』(東京堂出版)によれば、お蔭参りは、「季節は三月頃が多いようで、大体において春の遊山行楽の頃であった。」とある。日本人が春を迎えると浮かれ気分になることは古代のならいである。それは、「野遊び」として、古くは古事記や風土記にも登場し、冬から春を迎える重要な催しになっていたことが伝えられている。野遊びは、古代において、歌のかけあいや踊り、男女の交歓など民衆の最大イベントであった。万葉集の第一巻の巻頭の歌が春の野遊びの歌であったことからも、当時の人々の関心の高さがうかがえる。春になって、身も心も緩む心境は、暖房器具のなかった昔の人々でなければ実感しにくいものである。時代がかわっても、春に浮かれ気分になることは、江戸の花見などによって受け継がれている。
そこで、比較的資料が残されている文政十三年、明和八年、宝永二年などのお蔭参りの季節を見てみよう。お蔭参りのピークは、文政が閏三月、明和が四月となっているように、たしかに春の行楽シーズンである。また、元禄年間にケンペルが何回も見た伊勢参りも春であった。
次に、お蔭参りが六十年周期に発生しているということも、単なる偶然ではないようだ。1650年(慶安三)、1705年(宝永二)、1771年(明和八)、1830年(文政十三年)と、ほぼ六十年周期であるが、慶安三年正月より始まった慶安のお蔭参りは、前年に遷宮が行われている。そして、明和・文政のお蔭参りも遷宮の直後発生している。つまり、伊勢神宮の遷宮が行われ、伊勢参りをしたいと思う心理が働いている。それも、一生の内に一度は伊勢参りをしなければという願いも計算したものと考えると、六十年周期は単なる偶然ではない。
明治になって、廃仏毀釈が進められ、伊勢神宮は江戸時代以上に重要視されるようになった。そのため、遷宮後二年ほどの間参宮者が増加することは、明治以降にもあった。それは、文政のお蔭参りから六十年後の明治二三年(1890)、中外商業新聞は、一月十四日付で「・・本年は、伊勢大神宮のお蔭年となるが」と記している。そして、伊勢では一月早々、関東からの参宮者がなかなか多かったとある。してみると、六十年という周期は、遷宮という行事が意識されたものだと考えられるのではないだろうか。
お蔭参りや後述する「ええじゃないか」を、民衆の開放運動として考える説もあるが、それよりもお蔭参りは、風土に導かれた現象、さらに言えば、春の到来に気持ちか浮き立った人々が起こした自然発生的な現象と考える方が自然ではないだろうか。
・企てられた「ええじゃないか」
さて、いわゆる慶応三年(1867)に「ええじゃないか」騒動という、伊勢参りはしないが、お蔭参りに非常によく似た民衆行動が起きた。もちろん、「ええじゃないか」騒動は、六十年周期とも遷宮とも無関係に発生している。この「ええじゃないか」は、ええじゃないか踊りとも言われ、慶応三年八月中旬に尾張、三河、遠江の三ヵ国から始まったとされている。この時の特徴は各地でたくさんのお札が舞い、それも伊勢神宮のお祓いだけでなく、種々雑多な神札、神像に及んでいることに特徴がある。
さらに、いずれもその土地における民衆の踊りを踊ったのが特徴である。正装や化粧をして踊る地方もあったが、男の女装、女の男装、褌一つ、腰巻き一つ、さらには裸体の前に半紙一枚を帯に垂らしただけというようないで立ちさえあった。地域内を練り歩き、人家で酒や食べ物を乞う者もあった。札の降った家では、酒や米を民衆に提供した。また、このええじゃないか踊りは打ちこわしと表裏一体であったとも伝えられ、特に阿波では歌ったり、踊ったりしながら、家の中に入って、畳や建具を破いたり、価値のありそうな道具類をとって踊るなどの狼藉をはたらいた。
やがて、江戸周辺にも「ええじゃないか」は波及する。幕末の江戸で現世利益を求める信仰はかなり強いものがあり、少しも衰えることはなかった。そのため、江戸でも、お札が降って、ただちに「ええじゃないか」と世直し踊りを踊ることを強く待ち望む風潮があった。そして、十一月の末から十二月の初めにかけて、江戸では札が降り、仏像が降るというようなことが五十余例もあった。しかし、大半は参詣人が群集しただけで終わっている。
その前年の秋、浅草寺境内では、連日窮民が群集し、幟を立てて施しを求めて練り歩いていた。また、日本橋近くでも、貧窮民たちが町名を書いた紙旗を先に立て、押し歩いた。もし、このような状況が翌慶応三年にも起こっていれば、ええじゃないかの企ては、十分に成功する可能性があっただろう。しかし、江戸の人々は現世利益を求める参詣に加わることはあっても、踊り狂うという状況にはならなかった。そして、十二月五日の町触以降に降った札は二回に過ぎなかった。しかも、群集の参詣があったのは、そのうちの一回きりで、江戸では札降りは失敗している。
人々を陽動しようと、札や仏像を降らせたのは一体誰なのか、それは明らかでない。ただそれが、人為的であることは、実際に江戸の社寺からお札やお蔭札の類が多数紛失したことからも明らかである。実行者の目的はおそらく札降りをきっかけとして、江戸が騒乱状態になることを意図したものであろう。この「ええじゃないか」は、あきらかに人為的で、それまでのお蔭参りとは形態は似ていても、本質的には異なるものと考えられる。
「ええじゃないか」の失敗の原因は、年の瀬も近づいた寒くて人々が浮かれようのない季節に起こそうとしたことにもある。江戸の民衆が札降りによって狂乱しようとする下地はあるにはあったが、寒さが強まり、年の瀬も近づくなかでは、人々の心をとらえることができなかった。また、江戸庶民は、慶応三年がいわゆる六十年周期で起きるお蔭年でないことを知っており、二回目の黒船来航に動揺しなかったように、もはや流言飛語には踊らされなくなっていた。前年の打ちこわしにおいても、物見高い性格から見物には行っても参加しなかったように、たとえ札が降っても、それを冷静に見つめていたということだろう。「ええじゃないか」に踊らされなかったのは、打こわしを応援しても、参加しない、盗みをしないという庶民のモラルがブレーキになっていたと考えたい。
庶民とて、政治情勢は大体知っていて、この時期に踊り狂って打こわしをすれば、江戸の秩序が壊れることはわかっていた。それに庶民は、物価高や仕事がないことなどに不満は持っていたものの、自分たちの手で幕府を倒しても何ら解決につながらならないことを本能的に知っていたのだろう。
お蔭参りとええじゃないか騒動
・伊勢参りからお蔭参りへ
江戸時代、「お蔭参り」と呼ばれる伊勢神宮への集団的な巡礼行動が周期的に繰り返された。もともと伊勢神宮への信仰は、江戸時代以前から民衆に広がっており、参詣も年を追うごとに盛んになっていた。元禄年間(1688~1703)に訪れたドイツ人の博物学者ケンペルは、二度の江戸参府旅行で、往復四回にわたって、伊勢参りの一団の人々に出会っている。そして、「この参詣の旅は一年中行われるが、特に春が盛んで、それゆえ街道はこのころになると、もっぱらこうした旅行者でいっぱいになる。老若・貴賤を問わず男女の別もなく、この旅から信仰や御利益を得て、できるだけ歩き通そうとする。自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手に入れなければならない多くの伊勢参りの人たちは、参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。」(『江戸参府旅行日記』斎藤信訳 平凡社)と書いてあるように、伊勢参りは江戸時代の初期から盛んに行われていた。毎年行われる伊勢参りのなかで、特に参詣者の多い年がある。それは、1650年(慶安三)、1705年(宝永二)、1771年(明和八)、1830年(文政十三年)てある。この年の伊勢参りは、特に「お蔭」がいただけるありがたい年としてお蔭年という観念が発生した。
宝永二年のお蔭参りは、少年層の抜け参りから始まったとされている。抜け参りとは、若年の者が親や雇い主に知られずに伊勢参りをすることである。若い男女が群集し、昼夜共に行動するということから、当初は是非が論じられたが、次第に習慣化し、一般の承認を得るようになった。お蔭参りに参加する人々は、年齢に関係なく、十分な旅支度をせず、路銀も持たずに家を出ている者が多かった。そのため、道中、人々の援助(施業)を受ける必要があった。伊勢街道では参詣人に無料の宿泊所が設けられたり、にぎり飯、赤飯、粥、茶、などがふるまわれたりした。なお、これらの施業には、むろん、神への「報施」とか参詣人を思いやるという動機もあったが、必ずしもそれだけではなかったはずだ。それは、施業されて当然と思う人々の、それも集団の無言の圧力が存在したに違いなく、その裏には、拒否することによって群集の略奪や打ちこわしの標的になることを恐れるといった意味も大きかった。
宝永のお蔭参りから66年たった、明和八年のお蔭参りは、最も大規模なお蔭参りと言われ、広範な階層の人々が参加していた。また、明和のお蔭参りには、お札(ふだ)が降るという不思議な現象があり、それも大規模かつ長期にわたって現象が見られたらしい。文政のお蔭参りは、明和のお蔭参り(1771年)から59年たった文政十三年(1830)、来年がお蔭参りの年にあたるとの情報が方々に流れ、待ちきれず阿波から始まった。このお蔭参りは、お蔭年が迫っていることが早くから予知されたため、六十年目の一年前に発生していた。そして、明和のお蔭参りと同様、各地にお札が降った。また、この文政のお蔭参りには、手に手に杓をもって参詣するという特徴があった。文政のお蔭参りでは、若い女性の男装や、鬼面などの面をかぶるなど、仮装の域を超えた風俗が見られた。また、明和のお蔭参りの際には、卑猥な歌を声高に歌ったり、妙な絵を幟に立てたりというような滑稽卑猥な風俗が見られた。
・お蔭参りは偶然ではない
ところで、お蔭参りの裏には何か作為的なものがありそうだ。柳田國男監修の『民俗学辞典』(東京堂出版)によれば、お蔭参りは、「季節は三月頃が多いようで、大体において春の遊山行楽の頃であった。」とある。日本人が春を迎えると浮かれ気分になることは古代のならいである。それは、「野遊び」として、古くは古事記や風土記にも登場し、冬から春を迎える重要な催しになっていたことが伝えられている。野遊びは、古代において、歌のかけあいや踊り、男女の交歓など民衆の最大イベントであった。万葉集の第一巻の巻頭の歌が春の野遊びの歌であったことからも、当時の人々の関心の高さがうかがえる。春になって、身も心も緩む心境は、暖房器具のなかった昔の人々でなければ実感しにくいものである。時代がかわっても、春に浮かれ気分になることは、江戸の花見などによって受け継がれている。
そこで、比較的資料が残されている文政十三年、明和八年、宝永二年などのお蔭参りの季節を見てみよう。お蔭参りのピークは、文政が閏三月、明和が四月となっているように、たしかに春の行楽シーズンである。また、元禄年間にケンペルが何回も見た伊勢参りも春であった。
次に、お蔭参りが六十年周期に発生しているということも、単なる偶然ではないようだ。1650年(慶安三)、1705年(宝永二)、1771年(明和八)、1830年(文政十三年)と、ほぼ六十年周期であるが、慶安三年正月より始まった慶安のお蔭参りは、前年に遷宮が行われている。そして、明和・文政のお蔭参りも遷宮の直後発生している。つまり、伊勢神宮の遷宮が行われ、伊勢参りをしたいと思う心理が働いている。それも、一生の内に一度は伊勢参りをしなければという願いも計算したものと考えると、六十年周期は単なる偶然ではない。
明治になって、廃仏毀釈が進められ、伊勢神宮は江戸時代以上に重要視されるようになった。そのため、遷宮後二年ほどの間参宮者が増加することは、明治以降にもあった。それは、文政のお蔭参りから六十年後の明治二三年(1890)、中外商業新聞は、一月十四日付で「・・本年は、伊勢大神宮のお蔭年となるが」と記している。そして、伊勢では一月早々、関東からの参宮者がなかなか多かったとある。してみると、六十年という周期は、遷宮という行事が意識されたものだと考えられるのではないだろうか。
お蔭参りや後述する「ええじゃないか」を、民衆の開放運動として考える説もあるが、それよりもお蔭参りは、風土に導かれた現象、さらに言えば、春の到来に気持ちか浮き立った人々が起こした自然発生的な現象と考える方が自然ではないだろうか。
・企てられた「ええじゃないか」
さて、いわゆる慶応三年(1867)に「ええじゃないか」騒動という、伊勢参りはしないが、お蔭参りに非常によく似た民衆行動が起きた。もちろん、「ええじゃないか」騒動は、六十年周期とも遷宮とも無関係に発生している。この「ええじゃないか」は、ええじゃないか踊りとも言われ、慶応三年八月中旬に尾張、三河、遠江の三ヵ国から始まったとされている。この時の特徴は各地でたくさんのお札が舞い、それも伊勢神宮のお祓いだけでなく、種々雑多な神札、神像に及んでいることに特徴がある。
さらに、いずれもその土地における民衆の踊りを踊ったのが特徴である。正装や化粧をして踊る地方もあったが、男の女装、女の男装、褌一つ、腰巻き一つ、さらには裸体の前に半紙一枚を帯に垂らしただけというようないで立ちさえあった。地域内を練り歩き、人家で酒や食べ物を乞う者もあった。札の降った家では、酒や米を民衆に提供した。また、このええじゃないか踊りは打ちこわしと表裏一体であったとも伝えられ、特に阿波では歌ったり、踊ったりしながら、家の中に入って、畳や建具を破いたり、価値のありそうな道具類をとって踊るなどの狼藉をはたらいた。
やがて、江戸周辺にも「ええじゃないか」は波及する。幕末の江戸で現世利益を求める信仰はかなり強いものがあり、少しも衰えることはなかった。そのため、江戸でも、お札が降って、ただちに「ええじゃないか」と世直し踊りを踊ることを強く待ち望む風潮があった。そして、十一月の末から十二月の初めにかけて、江戸では札が降り、仏像が降るというようなことが五十余例もあった。しかし、大半は参詣人が群集しただけで終わっている。
その前年の秋、浅草寺境内では、連日窮民が群集し、幟を立てて施しを求めて練り歩いていた。また、日本橋近くでも、貧窮民たちが町名を書いた紙旗を先に立て、押し歩いた。もし、このような状況が翌慶応三年にも起こっていれば、ええじゃないかの企ては、十分に成功する可能性があっただろう。しかし、江戸の人々は現世利益を求める参詣に加わることはあっても、踊り狂うという状況にはならなかった。そして、十二月五日の町触以降に降った札は二回に過ぎなかった。しかも、群集の参詣があったのは、そのうちの一回きりで、江戸では札降りは失敗している。
人々を陽動しようと、札や仏像を降らせたのは一体誰なのか、それは明らかでない。ただそれが、人為的であることは、実際に江戸の社寺からお札やお蔭札の類が多数紛失したことからも明らかである。実行者の目的はおそらく札降りをきっかけとして、江戸が騒乱状態になることを意図したものであろう。この「ええじゃないか」は、あきらかに人為的で、それまでのお蔭参りとは形態は似ていても、本質的には異なるものと考えられる。
「ええじゃないか」の失敗の原因は、年の瀬も近づいた寒くて人々が浮かれようのない季節に起こそうとしたことにもある。江戸の民衆が札降りによって狂乱しようとする下地はあるにはあったが、寒さが強まり、年の瀬も近づくなかでは、人々の心をとらえることができなかった。また、江戸庶民は、慶応三年がいわゆる六十年周期で起きるお蔭年でないことを知っており、二回目の黒船来航に動揺しなかったように、もはや流言飛語には踊らされなくなっていた。前年の打ちこわしにおいても、物見高い性格から見物には行っても参加しなかったように、たとえ札が降っても、それを冷静に見つめていたということだろう。「ええじゃないか」に踊らされなかったのは、打こわしを応援しても、参加しない、盗みをしないという庶民のモラルがブレーキになっていたと考えたい。
庶民とて、政治情勢は大体知っていて、この時期に踊り狂って打こわしをすれば、江戸の秩序が壊れることはわかっていた。それに庶民は、物価高や仕事がないことなどに不満は持っていたものの、自分たちの手で幕府を倒しても何ら解決につながらならないことを本能的に知っていたのだろう。
文久4年(元治1年)1864年
3月 初午祭大方二の午に延びる
谷中延寿寺日荷上人像開帳(30日間)、朝参り等多数
伝通院内福聚院大黒天開帳(60日間)、見せ物・奉納物多数、参詣人群集する浅草寺奥山に活人形見せ物出る(妊婦の開腹模型や異人の人形等)
牛天神境内で百日間芝居興行
4月 守田座から出火、江戸三座が全焼
4月 回向院で勧進相撲
6月 山王権現祭礼、神輿行列あり、山車練物等なし
湯島天満宮災後、本社建つ、正遷宮され、祭礼あり
8月 芝金地院觀音開帳
8月 中村座で『百猫伝手綱染分』『本調子律艶糸』大入り
10月 湯島天満宮祭礼・本郷眞光寺天満宮祭礼、山車伎踊練物等で賑わう
11月 回向院で勧進相撲
11月 下谷坂本町二丁目要伝寺、巣鴨霊感院等で酉の祭始まる、以後年々参詣人増加
12月 本所伊予橋永井侯中屋敷示教稲荷の参詣許され、次第に繁盛する
☆この年のその他の事象
1月 火の用心、市中見廻り等の取締令
1月 吉原の遊廓が全焼する
4月 浮浪者が横行、上野山内の取締り
6月 京都で池田屋騒動が起きる
6月 浮浪者江戸に潜入により、放火などの恐れありと警戒体制を取る
7月 京都で禁門の変が起こる
7月 第一次長州戦争が始まる
8月 長州藩邸取上げにより打壊される
9月 酒問屋に株鑑札を配布、冥加金上納を命じる
10月 将軍上洛の無事を祝い庶民に祝儀が配られる
○三遊亭円朝、両国垢離場の席の真打ちになる
3月 初午祭大方二の午に延びる
谷中延寿寺日荷上人像開帳(30日間)、朝参り等多数
伝通院内福聚院大黒天開帳(60日間)、見せ物・奉納物多数、参詣人群集する浅草寺奥山に活人形見せ物出る(妊婦の開腹模型や異人の人形等)
牛天神境内で百日間芝居興行
4月 守田座から出火、江戸三座が全焼
4月 回向院で勧進相撲
6月 山王権現祭礼、神輿行列あり、山車練物等なし
湯島天満宮災後、本社建つ、正遷宮され、祭礼あり
8月 芝金地院觀音開帳
8月 中村座で『百猫伝手綱染分』『本調子律艶糸』大入り
10月 湯島天満宮祭礼・本郷眞光寺天満宮祭礼、山車伎踊練物等で賑わう
11月 回向院で勧進相撲
11月 下谷坂本町二丁目要伝寺、巣鴨霊感院等で酉の祭始まる、以後年々参詣人増加
12月 本所伊予橋永井侯中屋敷示教稲荷の参詣許され、次第に繁盛する
☆この年のその他の事象
1月 火の用心、市中見廻り等の取締令
1月 吉原の遊廓が全焼する
4月 浮浪者が横行、上野山内の取締り
6月 京都で池田屋騒動が起きる
6月 浮浪者江戸に潜入により、放火などの恐れありと警戒体制を取る
7月 京都で禁門の変が起こる
7月 第一次長州戦争が始まる
8月 長州藩邸取上げにより打壊される
9月 酒問屋に株鑑札を配布、冥加金上納を命じる
10月 将軍上洛の無事を祝い庶民に祝儀が配られる
○三遊亭円朝、両国垢離場の席の真打ちになる
★元治2年(慶應1年)1865年
1月 浅草奥山で十二支に因んだ活人形の見世物出る
2月 回向院で百日芝居興行
2月 回向院で勧進相撲
3月 浅草三社権現祭礼、山車練物多く出る
3月 守田座で『魁駒松梅魁曙幑(イチバンノリメイキノサシモノ)』大当たり
5月 回向院で陸奥金花山大金寺開帳(見世物一時参詣人多シ)を含め開帳2
6月 赤坂氷川明神祭礼、神輿のみを渡す
7月 芝薬王寺開帳
9月 中村座で勘三郎が芝居寿狂言興行大入り(前年カラ延期)
9月 神田明神祭礼、産子町職人が許可なく附祭を催し罰金
11月 雑司ヶ谷鬼子母神境内鷺明神で酉の祭始まる(以来年々賑ワウ)
11月 回向院で勧進相撲、五・六日目の見物人1万3千人
冬頃 調練場まで西洋風の太鼓を鳴らして群行(銃隊調訓練次第ニ盛ニナル)
○大坂の浄瑠璃語竹本対馬太夫が江戸に下り、人気を博す
☆この年のその他の事象
1月 市中に天誅の張紙多数
3月 物価引下げ令、買占め売惜しみ止令を出す
4月 家康の二百五十回忌を日光東照宮で行なう
5月 両国橋辺花火等、今年はなし
5月 第二次長州戦争が始まる
閏5 米価が高騰し、米穀雑穀の自由販売が許可される
7月 町会所で、窮民に米銭を支給する
1月 浅草奥山で十二支に因んだ活人形の見世物出る
2月 回向院で百日芝居興行
2月 回向院で勧進相撲
3月 浅草三社権現祭礼、山車練物多く出る
3月 守田座で『魁駒松梅魁曙幑(イチバンノリメイキノサシモノ)』大当たり
5月 回向院で陸奥金花山大金寺開帳(見世物一時参詣人多シ)を含め開帳2
6月 赤坂氷川明神祭礼、神輿のみを渡す
7月 芝薬王寺開帳
9月 中村座で勘三郎が芝居寿狂言興行大入り(前年カラ延期)
9月 神田明神祭礼、産子町職人が許可なく附祭を催し罰金
11月 雑司ヶ谷鬼子母神境内鷺明神で酉の祭始まる(以来年々賑ワウ)
11月 回向院で勧進相撲、五・六日目の見物人1万3千人
冬頃 調練場まで西洋風の太鼓を鳴らして群行(銃隊調訓練次第ニ盛ニナル)
○大坂の浄瑠璃語竹本対馬太夫が江戸に下り、人気を博す
☆この年のその他の事象
1月 市中に天誅の張紙多数
3月 物価引下げ令、買占め売惜しみ止令を出す
4月 家康の二百五十回忌を日光東照宮で行なう
5月 両国橋辺花火等、今年はなし
5月 第二次長州戦争が始まる
閏5 米価が高騰し、米穀雑穀の自由販売が許可される
7月 町会所で、窮民に米銭を支給する