江戸のオープンガーデン

江戸のオープンガーデン
 
・庶民に無料公開し大好評
 「ガーデニングブーム」の延長線上で、オープンガーデンという活動形態が、いま注目を集め始めている。オープンガーデンとは、私的な庭園の公開を目的として、1927年イギリスで発足したナショナル・ガーデン・スキーム(NGS)がその発端とか。日本でもここ数年各方面から注目されるようになり、実際、新宿・世田谷などのグループをはじめ、日本各地で個人庭園の公開が行われている。
 庭の形態も違えば、来訪のマナーやもてなしの手法もまったく違う日本で、オープンガーデンの試みは、所詮物まね、定着は期待できないという向きも少なくないが、では日本にはこの種のレジャーが存在しなかったのかといえば、そんなことはない。やはり、お江戸は広く、粋な人も大勢いたのであった。
イメージ 1 そのはじめは、黄門さんこと水戸光圀であろう。光圀の逸話には、どこまで本当のことなのか疑わしい話が山ほどある。が、オープンガーデンについてはかなり信頼できる。後楽園(小石川後楽園が後楽園の本家)は、光圀よって完成されたものである。後楽園の名は、『岳陽楼記』の「先憂後楽」(為政者はまさに天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみは後れて楽しむ)からきている。その精神から鑑みても、光圀は後楽園を民に見せることを許したことは納得できる。1700年(元禄十三年)光圀がなくなるまで、誰もが拝観を願い出れば許可が出たらしい。イメージ 2
 ただ、後楽園の拝観は畏まったものであろう。それに対し、もっと気楽なお庭拝見をさせてくれたのが春田久啓である。彼は、「梅顛」(梅マニアの意)と呼ばれるほど、梅を愛好した旗本である。春田久啓こそ、まさしく日本版オープンガーデンの先駆者ともいえる人物である。彼は四谷御門外の広大な屋敷を様々な種類の梅の木で埋め尽くし、文化九年には『韻松園梅譜』(1812) というタイトルで、自慢の梅96品を図写した色彩画帳を出版した。
イメージ 3 しかも、気前の良い久啓は、私設梅林の走りとなったその自慢の庭園(韻松園)を、大勢の庶民に無料で公開して、おおいに歓迎された。ガーデニングを楽しむ人には、自分が丹精込めて作り上げた花や庭を、他人に見せて称賛されたいという思いが少なからずある。それは多分、江戸時代の身分の高い人々だって例外ではなかっただろう。それに宣伝効果という意味では、同じような階級の人間に見せるより、物見高く、好奇心丸出しで見に来る庶民の方がよほど効果があっただろうと思われる。
  ところで江戸時代において、園芸好きで社交的な園主がオ-プンガ-デンを催すというのは、なにもそう珍しい話ではなかったようだ。『十方庵遊歴雑記』(十方庵主作)という江戸後期の書物がある。これは作者が江戸近辺の名勝・古跡を自ら散策し解説した紀行文学だが、花鳥風月を愛し、茶や琵琶もよくしたという作者はその雑記の中でいくつかのオープンガーデン見聞録を残している。そこでそれらの庭園がどのような趣向のものであったか具体的に見ていきたい。
 
・絶品と評されたアサガオ屋敷
 まず、小石川・阿波殿町にあった「松平播磨守」の庭園を紹介しよう。屋敷の広さは、「南北凡三町半、東西二町余」とあるから、約7haの面積を有していたと思われる。そして、松平邸の庭園の見どころは、何といってもアサガオが主役であった。種類が多く、花もどこよりも見事だということで、かなり世上の評判が高かったらしい。そこで、作者は、文政二年(1819) の七月上旬に、まだ夜が明けないうちから、3人の知人と同道して出かけている。むろんこれは、アサガオの開花時間に合わせて出立したものだろう。やがて無事到着。雑記に「折節、小原通斎は明け番にて居合わせ、我輩を案内して隅々までを見せたりき」とあるところをみると、庭の見学について特に事前の連絡はとっていない様子。突然訪ねていっても身元さえしっかりしていれば、親切に対応してくれたようである。
イメージ 4 さて、肝心の朝顔だが、雑記の記述によれば「二本の柱と垂木のみ竹で、その他はみなアサガオで作られた枝折戸があり、そこから入って、両側はすべてアサガオである。」さらに、「北へおよそ十五間、道幅にして五尺ばかり、その数六十種の源氏の巻を名にせり」とあるから、長さ27メ-トル、道幅1.5 メ-トルもの規模のアサガオの小路をつくり、しかもその一つ一つに、源氏物語の巻名、例えば「紫上」「明石」「朧月夜」というような雅びな名がつけられていたらしい。そしてその有り様はといえば、「花も葉も一種として似通ったものがなく、また、北の行き止まりより西に曲がる路、この両側にも数百品のアサガオ類があって、花も葉もすべて異なっている」というからこの家の主の懲りよう、尋常ではない。また敷地の中程には「大きさ三間四方(約30平方メ-トル) ほどの茶亭がある。屋根だけが萱で、三方の壁はことごとくアサガオを配している。特に瑠璃の白、あさぎに絞りなどの花が真っ盛りで、壁で咲いているその美しさはとても筆では言い尽くせない」という。
 この雅びな茶屋で喉を潤し、煙草をふかしながら辺りを眺めると、これがまた界隈、隙間なくアサガオで埋めつくされていた。これには美しい景色はたくさん見てきたはずの作者も、「絶品というべき」とほめちぎっている。その上、この屋敷内には藤棚や菊花壇、「田舎に遊ぶ心地がしておもしろい」畑地、小舟二艘をつないだ池、名水と噂の高い湧水の出る渓間、台所付きの小亭など様々な趣向があり見るものを飽きさせない。もちろん、花や月が見事な時分には、小亭で茶席や酒宴も開かれていたようで、まさしく究極のレジャ-スタイルが江戸時代すでに存在していたといえる。
 
・毎月巳の日はオ-プンガ-デン・デ-
  先の播磨守上屋敷の隣町に当たる大塚吹上という所に、「松平大学頭」という殿様の上屋敷があった。こちらは三町四方というから、9ヘクタ-ルもある広大な邸宅。実はこの屋敷で「毎月巳の日は庭を開きて諸人見せしむ」、つまり月に2、3回オ-プンガーデンの日を設定して、希望者に開放し、目の保養をさせていたという記録が残っている。件の十方庵主は、文政年間、戌寅の年五月下旬に知人と2人で訪れている。この庭園の売物は「南北の長さ数百間、広さ七八間、この両側の土手がすべて桜の木名なので、花の咲くころはさぞかしと思われる」と書かれた桜並木に「数百株みな異なるもので、それぞれ名のある木だ、実の熟すころ、また花の頃はいかがぞや」という梅林、「この山の半腹より下裾にかけて一面山吹なので、花の盛りの頃はどれほどすばらしいだろう」という山吹畑、さらに「池の辺にある長さ二十四間、棚の高さ七、八尺」という藤棚など、いくつもの見どころがあり、その時期になると、終日人々が散策しているという。
イメージ 5 作者が訪れたころは、まだ十分ツツジの魅力が味わえる時期であったらしく、「最近まで、ツツジは真っ盛りで、今もツツジは山の小道におびただしくあふれている。茶亭から池の方を眺めると、ツツジの花が燃えるように赤いのが実に見事だ」と描写している。また、邸内には水茶屋もあり、巳の日には藩中の大勢の人が参詣に来る弁天宮、河童が住むと言い伝えられている池、徳川光國公の学問所であったという書斎の跡など、由緒ある観光ポイントも豊富である。ただ作者は見学記の最後に「それぞれの林泉は良いが、色々な樹木を人工的に変えてこしらえた景色なので、自然の風景と比べれば見劣りがする」というような正直な感想を残している。つまり美しいことは美しいが、人の手が入りすぎて、所詮自然の美には適わないということだろう。
 
・風流な園主と無粋な園主
 それに比べると、はるかに作者の意にかなったと思われるのが、妙義坂(現在の駒込)名主・今井五郎兵衛の梅園である。作者の知人が、この庭の主と和歌を通じて昵懇の間柄で、作者も同行したものらしい。さて門より中に入ると、「左右目に入るもので梅の木でないものはないくらい、香りもよくまるで香木の部屋にいるようだ。・・中略・・纏が置いてあるので名主の家だとわかるが、そうでなければ三百石以上の武家だと思うだろう。屋敷は広いが掃除がよく行き届き、箒目のきれいなの見て主の心もさぞかしと察する。林泉は無理につくったような木や石はまったくなく、自然のままの木々が、かえって土地柄にあった風景を醸し出している」と、作者の満足度は高く、庭園の隅々まで見て回っている。今井邸自慢の梅林については、「広さ二十数間ほど、梅の木だけを植えこんでその数、数百本。豊後、薄紅、青軸、八重、紅梅などばかりで、普通の野梅は一本もなく、今を盛りに咲きそろっている様子はいいようのないほど美しい」とある。おもしろいことに、有名な向島の左原鞠塢の梅林について「おこがましく新梅屋敷などと言ってはいるが、野梅ばかりでさして見るべきものなし」と切り捨て、それに引きかえ「今井邸の庭の花はどれも名のあるもので、花の優に艶なこと、界隈に例がない」と讃えている。
 また風情ある住居の様子や、煎茶に菓子にと心効いたもてなしを目にして、「この家の主のよき亭主ぶり、さすがに和歌の道に心を寄せるだけあって奥ゆかしいものだ」と主の人間観察にも余念がない。
 かと思えば、上北沢村(現在の世田谷区)の庄屋左内には、逆に批判的な文章を残している。この家はボタンの花が有名で『江戸四季巡覧』を出版。各地から大勢の人々が見物に行くと、大層な評判。それで卯月15日に珍しく作者は一人でボタンを見に出かけている。往復八里(約32キロ) の道のりもかえって趣があっておもしろいと、道中の機嫌もすこぶるよい。おそらく3~4時間近くかけてたどり着いただろう左内邸は、「四方は葦簾で囲い、東西十三間、南北六間、一の花壇から第七の花壇までおよそ三百八十五種のボタン、花はすべて違って一つとして尋常のものはなく、奇々妙々感嘆するばかり、自分もこれほどのものとは思わなかった」・・中略・・「とりわけ第一花壇の六本目の尾山という花は聞くも及ばぬ名花なり」と絶賛。
  ところが作者が「内庭に秘蔵している絶品のボタンを見たい」と申し出たところ、料理を注文しないと家の主が不興との由。つまりこの家、表向きは食物屋ではないが、「支度」と称して、3人分2百疋くらいで、客が希望した物を作って食べさせているらしい。確かに中をのぞき見ればいくつかのグル-プが、衝立で仕切られた座敷で食事をしている。そこで作者はどうしたかというと、「支度」を頼まなければば快く見せないというのは、風流ではないと案内してもらうのを諦めた。「ボタンの手入れはいかにも賞すべく、だが主人が風流心を失って、賃金も貪るのは憎むべし」というわけである。
 丹精込めた庭を人に見せるという、ただそれだけの行為からも、ゆかしい人物もいれば、逆に自慢ばかりが鼻につく人やあわよくば一儲けしようと考える人が出てくる。一方、見る側も同じものを見ても、ほめる人もいれば逆に誹る人もいて、実に世の中は様々であると『遊歴雑記』の作者、十方庵主は述懐している。そして、それはどうやら今も昔も変わらない。21世紀の園芸の新しい動向とも期待されているオ-プンガ-デンだが、見せる側、見る側その両者に風流を解する心がないと成立しえないことを、この本は教えてくれている気がする。