江戸のくだもの その5

江戸のくだもの    その5
枇杷
イメージ 1  ビワは、もともと日本あったという説がある。だが、現在栽培されているのは中国から渡来したビワである。ビワを最初に紹介したのは、天平宝字6年(762)正倉院の文書の記録で、その中に「枇杷子七文」とある。当時果実の中では最も安価であった。その後、『延喜式』の供奉雑菜の項に、ビワ十房が他の果樹とともに登場している。平安時代から江戸末期にかけて次のような書物に枇杷の記載がある。『唐頼本草』『医心方』『類聚名義抄』『色葉字類抄』『字鏡集』『本朝食鑑』『農業全書』『大和本草』などに、枇杷に関する記録がある。
  ビワは、江戸末期に栽培が始まるまでは果樹としての地位は低く、日本ではほとんど重要視されていなかった。千葉県南無谷村( 現阿波郡富浦町)では江戸中期の宝暦年間(1750~63) にビワの栽培が始められ、江戸の市場に出荷している。また、天保・弘化年間頃、長崎で奉公していた女中が中国渡来の種を自宅に蒔いた内から出た変種として、茂木ビワが作られている。
  江戸時代、ビワは果物として販売を目的にして栽培されていたものは少なかった。それでも、鑑賞用として、鉢植で栽培していたことは確かで、『草木奇品家雅見』には「宮重丸葉びわ」が描かれている。
ビワ図左
 
葡萄
イメージ 2 日本では古代から野生ブドウとしてヤマブドウまたはオホエビカズラを食用にしてきた。ブドウ甲州種の伝来説によると、文治2年3月27日(鳥羽天皇の御世、1186年)甲斐の国(現在の山梨県八代郡祝村( 旧上岩崎村)城の平で、雨宮勘解由によって発見された。彼は、路傍に生育した蔓性植物の茎蔓、枝葉が尋常のヤマブドウと異なっていることに注目して、園内に移植、培養すること5年で、30余の成熟果を得て試食した。果色は朱紫色で味極めて甘美であることを確かめ、これを増殖し、その栽培面積を増加した。
  安土桃山時代までは珍果とはいえ、一地方の産物にすぎなかったが、江戸時代に入って天下の名品、甲州ブドウとして江戸に出荷されるに至った。なお、甲州ブドウは、日本の自生種から変生したものではなく、持ち帰られた支那ブドウから生成されたらしい。日本には、欧州ブドウに属する聚落ブドウもある。聚落ブドウは、桃山時代に京都の聚落邸で栽培されたもので、明国から持ち帰ったものと伝えられる。昭和初期までは一部の地方で栽培されていた。
ニシキノブドウ図左下
 江戸ではブドウの出荷時期が統制させるなど人気があり、庶民の果物として普及していたのだろう。滝沢馬琴は庭に植え、丹精して育て、実ったブドウを店に卸し家計の足しにしていた。江戸の町には、他にも庭で、本格的に栽培していた人がかなりいたのではなかろうか。