プラントハンター その2

プラントハンター その2

シーボルトの日本植物誌
 ツュンベリーの来日から48年後の1823年(文政六年)、ドイツ人・シーボルトがツュンベリーの『日本植物誌』を携えて日本を訪れた。彼の来日目的は、日本の豊かな自然、特に植物について調べ、西洋に持ち帰ることであった。シーボルトの滞在は、初回が6年、二回目が(1859年~62年)3年と長く、その分日本人との接触も深く、プラントハンターとしてだけでなく、医学や政治・文化などにも大きな影響を与えた。中でも、シーボルトの功績として忘れてならないのは、欧米に日本の植物を紹介し、日本人の植物知識について高く評価したことである。また、日本の植物分類学をはじめとする植物学全体の発展に非常に大きな貢献をしたことである。
 ケンペルの書いた「日本の植物」は、リンネが生まれる前であったため、植物の命名や記述は、日本の本草学者の方法と大きな違いはなかった。しかも、植物を解説するにあたっては、日本人に教えを受けて記述している節もうかがえる。それがツュンベリーになると、日本で集めた植物をリンネの体系にそって整理し、『日本植物誌』を作成している。そして、シーボルトはツュンベリーの『日本植物誌』をもとに、日本の弟子などの助けをうけて、より完成度の高い『日本植物誌』を編纂した。
 ここで留意したいのは、シーボルトが日本を訪れたのは、いわゆる植物学を究めることが目的の全てではなかったという点である。現代人は、とかく学問的なことを良しとし、純粋な研究心を強調したがる傾向にある。シーボルトの調査は、実はオランダ東インド総督府へ予算を申請して、8131ギルダ(10ギルダ≒一石又は小判一枚?)をもらい受けて行われていた。さらに、出島における植物園の設立等に2000ギルダの予算が追加されている。そのため、採集した植物はすべてオランダ政府の所有となり、毎年珍しい植物をバタビア(現在のジャカルタ)政府に送ることが条件になっていた。
 当時オランダは、国の復興を東洋との通商貿易の推進に期待し、物産研究を目的としてシーボルトを日本に送り込んだ。それに応えて、1825年に彼がジャワに送った茶の実は、数年後、何万本にも生育し、それで作られた茶がオランダに輸入されている。また、彼は、1827年に、ボン大学のエーゼンベック教授に「出島における有用植物一覧」という論文を送っている。さらに帰国後、「古くて新しく輸入された日本とシナの植物の名称表」(1844~5)、「日本、東インド、西欧オランダの植物表とその価格表抜粋」(1848)など園芸関連の書物を出版している。
 
美しい植物を求めたシーボルト
野山草より
イメージ 1 シーボルトの影のようになって日本ではあまり注目されなかったが、ビュルガーのことも少し紹介しておきたい。薬剤師であったビュルガーは、シーボルトの要請で助手となり、江戸参府に同行している。シーボルトが長崎を去ってからも日本に残って、動植物の標本をライデンの国立博物館などに送っていた。ところが、この長年にわたる功績をライデン国立博物館の学者が評価したことに、シーボルトは反発した。そのため、シーボルトとの関係が気まずくなり、ビュルガーはジャワで事業を手がけ、植物研究から手を引いた。もっとも、シーボルトもビュルガーをまったく評価していなかったわけではなかった。それは、『日本植物誌』111頁のアジサイの変わった種に、Hydrangea B rgeri(ヤマアジサイ)という学名をつけていたことからもわかる。
 また、ビュルガーとともにシーボルトを助けた、ヴィルヌーヴという画家の存在にも触れておきたい。ヴィルヌーヴは、シーボルトが帰国した後も彼に資料や図などを送っている。シーボルトのために描いた絵の中に、日本人妻「滝」の肖像画がある。「滝」については、シーボルトは、最愛の情をこめてアジサイの学名に、Hydrangea Otaksa (おたきさんとの呼び名から)と付けている。彼が日本の植物のなかで最も美しいと感じたのは、アジサイ(Hydrangea)の仲間だったわけで『日本植物誌』の中にも数多く紹介されている。
 代表作である『日本植物誌』は、二巻に分かれ、図の大半が花木と常緑樹によって占められている。一巻の100図は、一般の好みに応えるとともに、シーボルト自身の最も注目する園芸植物、有用植物を最初に持ってきている。二巻は、50図のうち40図が針葉樹となっている。これらの図が、精密で美しく、日本の植物への愛好心を誘い、庭園を飾るようになったことはいうまでもない。                                           野山草より
イメージ 2 シーボルトが植物学に精通していて、日本植物の西欧紹介と西欧植物学の日本に紹介したことは、大きな業績であるが、一方で園芸界への貢献も見逃せない。それは、150図の282頁にわたる解説に示された、植物の栽培や鑑賞などに関する記述である。ハクウンボクの花の香りはヒヤシンスのそれと似ているとか、美しいツクシシャクナゲにはメッテルニヒ侯の名前を付けるなど、シーボルトが日本で得た知識とともに興味深く綴られている。さらに、この植物は、西欧の冬の寒さに耐えるとか、庭を美しく飾ってくれるに違いないというような紹介があちこちに見うけられる。
  そして、シーボルトは、種や苗などで数々の植物を西欧に送っている。中でも、ユリは、ゲント植物園に送られカノコユリが開花したこともあって高く評価された。
 
フォーチェンの植物探し
 1859年、シーボルトの初来日から36年後、イギリス人のロバート・フォーチュンがアメリカ政府やロンドンの園芸商から園芸植物採集の依頼を受けて、幕末の日本を訪れている。彼は、清国から茶の木の移植栽培に取り組み、それをイギリスの植民地製茶産業に発展させた偉大なる功労者であった。また、キク・ラン・ユリなどの東洋の植物を多数イギリスへ送り込んでもいる。当時はちょうど日本が鎖国を解き、開港した後だったので、外国人の旅行にも以前のような厳しい制約は課せられなくなっていた。したがって、フォーチュンは比較的自由に歩くことができ、植物探しにも幅ができた。
 フォーチュンが来日した時、ちょうどシーボルトが二度目の来日中で、しかも長崎に滞在していた。そこで、フォーチュンは彼の家を訪れ、仕事場や書斎に案内され、植物園や庭園を見ることができた。植物園には各地から集められたり、繁殖させたりした植物の新種が、ヨーロッパに送るべく準備されていた。フォーチュンは植物園で、シーボルトの大作『日本植物誌』の中に描写された、植物図の大部分の実物を見た。もちろん、植物園には、この本に記載されていない新しい植物が幾種類もあった。特に注目したのは、葉に白い斑が入ったアオキの新種である。それから雄のアオキ、また種々の針葉樹、たとえば、アスナロコウヤマキ、サワラ、ヒノキ、その他、興味深い種類が沢山あった。中でもコノテカシワ、グミ、ネズ、タケ、マキ、ツバキ、ヒサカキなど斑入りの植物はみな大変美しかったと、著書『江戸と北京』(三宅馨訳)の中で述べている。
 フォーチュンの植物探しは、江戸を訪れてますます本格化している。特に、団子坂、王子、染井の広大な植木屋群には、大きな期待をもって訪れている。まず、あこがれの団子坂では、大きな茶屋を覗き、この庭で一番珍しいものは、菊の花でつくった人形であったと述べている。数千の花を使って作られた菊人形の美人が、微笑を浮べて、茶屋や休憩所から出て来る客をしばしば驚かせていたと、当時の菊人形人気を解説している。
 さらに、染井や団子坂の苗樹園のいちじるしい特色は、多彩な葉をもつ観葉植物が豊富にあることだ。ヨーロッパの人々が自然の珍しい斑入りの葉を持つ植物を賞賛し、興味をもつようになったのは、ここ数年のことである。これに反して、日本では千年も前から、高尚な趣味を育ててきたといっていいだろう。そしてその結果、日本の観葉植物は、大抵変わった形態にして栽培するので、その多くは非常にみごとであると誉めている。
 
植物を愛する民族を探したフォーチェン
 フォーチュンの植物探しは、江戸の町中でも続けられた。浅草を訪れた時、キクが満開で、色も形も実にすばらしい、イギリスでは見ることのできないまったく異なった品種を手に入れた。そして、彼は、もしイギリスの花屋が、ハンマースミス寺院やストーク・ニューウインストンからはるばる浅草へキクを見に来ればどんなに目を楽しませることだろう、とまで言っている。
 さらに、優良な品種を入手するため、気に入ったキクを見つけるや、その場で掘り起こしたいと申し出た。というのは、シナで植木屋任せにしたら粗悪な植木をつかまされ、それも二度もだまされたからである。そこで彼は、植木屋が望みどおりのキクを滞在先の公使館まで届けてくれるというのを丁重に断わり、代わりに自分で取らせてもらって、大事に持ち帰った。
  また、フォーチュンは、鎌倉に行く途中、横浜周辺のある農家の庭で見事な菊の品種を見つけ、ぜひともそれを手に入れたいと思った。幸い、以心伝心で、適当な代価を払えば、好きなだけとってもよいということになった。そしてやがて、花を背負った農夫の子供が、フォーチュンの後からとぼとぼついて行くこととなった。このように彼は言葉の不自由などものともせず、行く先々で園芸植物の採集に励んでいる。
イギリスの家庭に植えられたアオキ
イメージ 3 ところで、彼の訪日の目的の一つは、イギリスの在来品種のアオキの雌木のために、雄木の品種を手に入れることであった。アオキは耐寒性に優れていて、美しく有用な外来種の常緑灌木で、名だたる英国の厳冬にも、また、ロンドンのスモッグのにもよく耐えた。しかし英国では、深紅色の実がならないので、それを可能にするような興味深い品種の雄木を探す必要があった。フォーチュンは、「冬から春にかけて、深紅色の実をいっぱい付けたこの植物が、イギリスの家の窓や庭を飾る情景を想像するだけで、自分がイギリスからはるばる日本に旅行してきただけの価値があると思う」と思いの深さを語っている。結局、彼の望みどおりになり、「フォーチュンのアオキ」は今なおイギリス人の庭を美しく彩っている。
 このように、フォーチュンが日本で植物を探しているうちに気づいたことは、日本の植物が美しいという事実だけでなく、日本人が身分の上下を問わず植物の好きな民族であるということだった。「下層階級でもみな生来の花好きであるということだ。気晴らしにしじゅう好きな植物を少し育てて、無上の楽しみにしている。もし花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い人々は、イギリスの同じ階級の人達に較べると、ずっと優ってみえる。」(『江戸と北京』より)と驚くほど高い評価を残している。