江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)199
不景気で市民の遊びも萎縮する四年の夏
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昭和四年(1929年)七月、浜口内閣成立②、浅草水族館でカジノ・フォーリー発足⑩、ハエ取りデー⑳、夏のレジャーは海水浴へと向かう
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不景気の波は、少しずつ押し寄せている。遊びにも影響し、貧富の差が出始めているが、まだ市民は感じていないようだ。新聞は、お金のかかる遊び(避暑を兼ねた山登り)を、電車賃の安い近郊の海水浴と同列に扱っている。
大衆は不景気になる前から、いかにお金を使わずに遊ぶかと、四苦八苦している。それでいて、信心をともなった遊び(閻魔参りや草市)が衰退し、憂さ晴らしを求めた海水浴へと向かった。確かに、この年の暑さは異常で、八月の初めに36℃を超えた。戦前でも、こんな猛暑の年があったのかと驚く。今から約百年前、冷房が当たり前の現代とは比べられないが、やはり室内では耐えられず涼を求めたのだろう。
九月に入ると、不景気感がじわじわと浸透する記事(共同基金募集、酒無しデー)が目に着くようになり、遊びも萎縮気味になる。
7月6日A 逗子の「海の家」十日から開き九月十五日まで、大人20銭小人10銭
10日ka 浅草寺四万六千日の賽日なり
15日A 鎌倉駅の乗降客二万、海の人出「三万五千」、千五百人収容の海の家に三千人
16日a お盆の施餓鬼、だんだん減る御参詣
16日a 「海も山も大当たりの夏」この夏の新記録
20日A 「涼味万斛」夏の熱海温泉
21日A 雨の川開き、「呆気ない混雑」、人出陸上二十六万船九万
22日A 山の賑わい記録破り、上高地八百余人、房総の海一万等
29日A 逗子・鎌倉へ九万人、無料入場者で海の家大混乱、房総へ二万人
十日、日本初のレビュー劇場として浅草水族館の二階に作られた演芸場でカジノ・フォーリー(馬鹿騒ぎをする劇場)が入場料40銭でオープン。カジノ・フォーリーは、レビューとバラエティーの要素をミックスしたもので、エノケンこと榎本健一のデビューでもあった。なお、興行は30銭に値下げしても客には受けず、二ヶ月で解散。
同じく十日から逗子に海水浴場客休憩所「海の家」がオープン。料金は、大人20銭・小人10銭。省電の乗車券と入場券のセット発売を企画。十四日の日曜は、1千5百人収容の海の家に、早速3千人も訪れて大混雑。ちなみにその日は、鎌倉駅の乗降客数が2万人、海の人出は「3万5千人」もあった。翌日の十五日は藪入り、人出はさらに多く、「海も山も大当たりの夏」とこの夏の新記録となった。
一方市内ではどこも不景気で、浅草や上野公園の賑わいは例年より少なく、安価な芝公園のプールが混雑しているくらい。また、本所被服厰跡の大震災焼死者納骨堂では、お盆の参詣人が年々減る一方らしい。藪入りの閻魔参りも、草市も、新聞の紙面から消えつつある。なお、荷風は十日の日記に、「浅草寺四万六千日の賽日なり」と記している。
二十八日には鎌倉・逗子へ「九万人」、房総へ「二万人」など、日曜毎に増えているようである。ただ、山の賑わいは、「記録破り」とはいうものの「上高地八百余人」と二桁も違っている。市民の夏のレジャーは、お金がかからない海が山より人気があった。
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昭和四年(1929年)八月、殺人的猛暑36.2℃⑧、暑さで花見に負けぬ海水浴場の賑わい
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8月5日A 「泳ぐ場所もない すし詰めの海水浴場 出たは出たは七十万」
7日A 「不良狩りで暴露された 当世職業婦人の内幕軟派硬派の『悪』より恐しい 盛り場を毒す現代女」
9日A お手軽な夕涼み電車、西武高田馬場より村山貯水池へ運賃半額の60銭
12日A 「昨日の日曜もホクホクの鉄道」多少減ったが満員続き、人出六十万
20日A 「全市を挙げてツェッペリン・デーと化す、三百万の瞳が大空を」
四日は八月最初の日曜日、カラリと晴れて申し分のない海水浴日和。鎌倉・逗子は、泳ぐ場所もないほどの混みようで「十万を突破」、迷子が96名、ケガ人105名。それ以上の混雑は、手近な大森・羽田・子安で「十二万を下るまい」と。その他には、玉川方面、月島・お台場の水泳場、豊島園や井の頭などのプール、どこも混雑のピークを極めた。
山の方へもこれまでにない人出。「記録破り富士登山」と、山開きから四日までの登山者は「二十三万人」、大正九年の十万人を幾倍増するほど。女性の登山者も増えて2割程度となり、その大部分は女学生。また、四日に北アルプスへ登山した人は千5百人、上高地でのキャンプは230人。登山者の大部分は東京や大阪など大都市のサラリーマンであったとしている。
十一日の海水浴場は、前週より多少減ったが「六十万」、鉄道は満員続きであった。以後の人出は新聞に載っていないが、海の家が閉じるまであっただろう。市民の関心は、月半ば頃からツェッペリンの飛行船に向かった。十九日の東京は、飛行船を見ようと愛宕山やお台場をはじめ、屋上という屋上は鈴なりの人、さらにはプラットホームもすし詰めとなった。
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昭和四年(1929年)九月、新歌舞伎座開場⑤、関東大震災の盛大な追悼式に大勢の市民参拝
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9月2日A 「被服厰跡の参拝 夜をかけて六十万」、盛大な追悼式
5日A 明治座「梅雨小袖昔八丈」果然大好評
15日A 「カフェーに昨夜から禁札」
15日ka 氷川明神祭礼なり・牛込築土明神の祭なり
16日A 久しぶりの秋晴れ、日曜と十五日が重なったことから市内はすごい人出
22日A 「タケ狩り 栗拾い 二日続きの遊び場案内」
一日は関東大震災の追悼式、被服厰跡には「夜をかけて六十万人」が参拝した。東京府市主催の盛大な追悼式が被服厰跡で、その他、東西本願寺、回向院、浅草寺などでは法会が催された。本所公会堂、日本青年館、日比谷音楽堂等では講演会が開催された。また、街頭では震災共同基金募集、酒無しデーの宣伝、空からは緊縮のビラが撒かれるなど、様々な催しが行われた。少年団等6千人による募金は、一日で1万円を超える金額を集めた。
台風一過の日曜、久しぶりの秋晴れと十五日が重なり、市内はもとより周辺も人出。神宮球場の早法戦に「三万五千人」、玉川プールの全国学生水上競技大会に4千人。上野の院展に6千2百余人、二科展に4千5百余人、その他に商業展などにも千人程度。スポーツや美術などの秋にふさわしい賑わいもあるが、職業紹介所では、長雨にたたられ仕事にあぶれた人々に食券が配られたA⑯。