遊びから見る江戸と明治以降(東京)の庶民社会3「気暢ばし」(「気延ばし」きのばし」)

江戸東京市民の楽しみ(昭和時代)303

遊びから見る江戸と明治以降(東京)の庶民社会3「気暢ばし」(「気延ばし」きのばし」)

 庶民がどのような生活をしていたか。江戸庶民は困窮し、苦しい生活を送っていたと思いがちである。確かに、慶応二年の窮民調査によれば、最下層の人々は、畳や建具もない生活をしていた。それよりましな人々(中窮民)でも、その生活程度は、竈に湯釜、破戸棚か箪笥があり、芋粥を二度くらい食べられる程度であった。その上の人々(窮民の上)は、畳や建具に鍋釜等があって三度の食事のうち二度ほど粥にしていたとされる。これらの人々がどの位いたか、江戸の人口約百万人の半分ほどが庶民とされ、その六割程を窮民が占めていたと推測される。

 この状況から推察すれば、江戸庶民の大半は、不況が改善された平常時でも、食事にも困窮する人々であり、さぞ苦しい毎日を過ごしていた。とても幸せな生活など無縁と思えそうである。しかし、彼らの生活感は、現代人か思うより悲愴的ではなかったようだ。と言うのは、苦しいときは、大勢集まって裕福な家に行って施しを得ようと歩いた (『武江年表』より) 。このように、貧民が徒党を組んで米よこせなどの要求がまかり通った。貧民の食い扶持は、何とかなるという庶民社会の支えを頼ることが出来た。

 庶民の生活は貧しく、幕末に訪れた外国人にとっては、見苦しく蔑視する一面があった。しかし、中には庶民を「一見貧しく粗末に見えるけれども、それなりに満足している」と観察している。さらに、「貧しいながらも、日々楽しく暮らしている」とまで言及する人もいた。特に、5年余を日本で暮らしたタウンゼント・ハリスは、貿易商として清、ニュージーランド、マレーシア、マニラ、セイロン、インドを廻り、諸国の実情を知っていたので、日本の下層民が決して不幸な生活をしていたとは見なかった。

 江戸庶民がどのような衣類を着て、何を食べ、どのような家に住でいたか、断片的なことは残されている。また、仕事を始めとして、どんな風に過ごしていたについても、ある程度わかっている。そして、それらから推測して、江戸庶民は上からの政治・経済に翻弄されながら、季節や天候など、自然環境の変化や推移に応じた暮らしをしていたものと思われる。

 その日その日を暮らすという不安定な生活と言えそうだが、庶民は不安を感じず、案外気ままに過ごしていた。それは、その日暮らしであっても、隣人・長屋などの共同体に支えられており、相互扶助によって何とかなっていた。そして不思議なのは、「宵越しの銭を持たず」の心意気以前に、下層庶民に欲張ろうとする気持ちをあまり感じないことである。

 仕事と遊び、どちらを優先するかは、現代では仕事に決まっていると考えるが、江戸庶民には労働と余暇というような区分けが無い。と言うのは、例えば花見、現代では手軽な遊びと考えがちである。江戸庶民にとっての花見は、決して気軽な活動ではなかった。と言うのも、隅田川飛鳥山などへ出掛けるのにどのくらいの時間が必要であろうか。神田(須田町)から隅田川(向島)のサクラを見るためには7㎞歩く必要があり、神田(神田駅)から飛鳥山(王子駅)だと7.5㎞も歩かなければならない。どちらにしても、往復歩きであるから、花見は半日どころか一日の行程となる。

 確かに、江戸庶民の花見は、もし弁当や酒と肴を持参すれば交通費はなし、だから一銭もかからない、まことに安上がりの活動であった。それでも、道中の途中には、さまざまな誘い、茶屋や店も出ており、買い食いも花見のうちであったであろう。そうなると、花見は今の感覚からするような気軽なレクリエーションではなく、しっかりと気を入れて楽しむものであった。

 なお、江戸時代には、現代のレジャーやレクリエーションという活動や概念はなかった。レクリエーションについて言えば、庶民は肉体的な疲れを約15㎞も歩いて癒すことはあり得ない。また、精神的ストレスを回復するにはお参り(参詣・参拝)、花見は気分を転換する為ではない。レジャーについても、「余暇」とか「自由時間」に基づく行為であり、江戸庶民には、仕事と余暇などを区分するような生活形態は成立していない。

 庶民にとって、遊びは仕事の息抜きではなく、生活の中心であったと言っても良いだろう。彼らは、貧しくても楽しく暮らす術を持っていたようだ。江戸で人々がそのような風に呑気にかまえていられた理由は、何なのだろうか。一つには、下層階級の人々はその日その日の生活が送れればそれでよく、無理をしてお金を貯める必要がなかったということ。また、相互扶助の精神が浸透し、仲間を押し退けてまで仕事をし、金を貯めようという人が少なかったこと。つまり、現代のような競争社会ではなく、意外にストレスが少ない社会であったことなどが上げられる。

 では、江戸庶民が遊びに求めていたのは何であろうか。庶民の心を満たすもの、仲間同士の連帯を深めるもの、助け合うものである。花見にしろ、芝居や祭りにしても、皆で楽しむものであり、三田村鳶魚流にいえば「自分を楽しみ、他をも楽しませる」ものであった。遊びで得られるものの中で、最も大切なのは気持ちを伸(暢)びやかにする「気延ばし」であろう。心の豊かさを深めるために遊ぶのである。ただ、遊んでいる庶民には、そのようなものを求めているという自覚はなく、遊びたくて遊んでいる。

 幕末に訪れたルドリフ・リンダウは、「日本人ほど愉快になり易い人種は殆どあるまい。・・・そして子供のように、笑い始めたとなると、理由なく笑い続けるのである」(『スイス領事の見た幕末日本』より)と述べている。江戸時代の日本人は、自分が楽しい気分でいられる遊びを知っていた。妙に効用や効果などを期待してレクリエーションを行なわなければならない現代人の遊びは、本当に心を満たしているであろうか。

 明治以後の日本人は、徐々に変化していくことになり、遊び心さえも忘れてしまって行くのである。レジャーは、現代生活のストレスを解消するために欠くことのできないものになっている。遊びが「気散じ」、さらにはその場のうさ晴らしという、現状逃避的な傾向が強くなっていくのである。