茶庭 7 千利休その3

茶庭 7 千利休その3
利休の茶庭
  利休自身が作庭という視点をどの程度持っていたかは、結局よくわからない。利休の茶庭に関する記述は、全体に凡庸なものである。意図を伝えようとするのはわかるが、具体的な形としては把握しきれていない。ほとんどが「いわれている」「伝えられている」などの表現で、あたかも利休が創作したように錯覚させる記述が多い。そこで、参考になると思える記述を少し紹介することにした。(但し、利休の茶庭に関する資料をすべて見たわけではないので、より的確な資料があればお教えいただきたい。)
★『千利休  茶の美学』(成川武夫)より・「茶庭の造形  ・・・茶庭という庭園様式の形成を利休ひとりの創意に帰するわけには、無論、いかないだろう。しかし露地の敷石は、利休が大徳寺の門前に不審庵を建てたとき、西芳寺のそれを見て初めて露地に導入したといわれているし、自然石の蹲踞は利休好みと伝えられている。その他、石燈籠の露地への導入は利休の創始であり、中潜りにつける猿戸も彼の作為によるといわれている。・・・不均整な飛石の配置や、燈籠、蹲踞、植栽などによって構成される露地の凝縮された空間は、想念の世界における深山幽谷の象徴的再現であり、人工的洗練の極致のうちに、簡素・素朴・自然・幽寂な山居の趣を現前させる。・・・露地は草庵の茶室に通じる路として、日常的脱俗的な詫びの世界への導入の役割を果たすとともに、茶庭としてそれ自身、超越的な詫びの世界の象徴としての意味を担っているというべきであろう。」
★『千利休の創意』(矢部良明)より・「利休の考えた茶庭の最大ポイントはなんであったか。筆者の推測はこうだ。通俗と超俗の境に、それとわかるように、はっきりと境界線を引いてしまおうという点であった。いわゆる結界の創設である。」
★『利休の茶室』(中村利則)より・「茶室は北向きに構える原則があった時代に、孤高にも全く正反対の南向きに茶室を構えたのが利休である。それは様態的には紹鴎の四畳半を写しながらも、茶室を南向きに構えることにより、侘茶を晴の領域に位置づけたことを意味する。そしてそのことがやがて、侘茶が茶の湯の本流となり、非日常の世界を造り上げていく条件でもあった。
  この四畳半での茶会の折、客は路次口から通り庭である脇坪の内へと入る。・・・面坪の内の様子は「草木不植、石たてす、砂負(撒)かす、栗石ならへす」(『烏鼠集』)といった無表情をもち、塀越しに松の大小が多数見えるばかり。それも「客のめ不移良、御茶に精を入、名物に心をつけしめんため也」(『烏鼠集』)という。」        なお、利休が「茶室を南向きに構える」ことについては、神津朝夫の異論(『千利休の「わび」とはなにか』を参照されたい。)がある。
★『日本庭園を愉しむ』(田中昭三)より・「茶の湯の実践の場として茶室と露地があり、そこは人工と自然、日常と非日常が溶け合った、あるいはそれらを止揚した場である。
  したがって厳密にいえば、露地の風情は、たんに自然の一部を切り取った景観ではないのだ。」
★『日本建築の空間』(井上充夫)より・「利休が堺の茶室に露地をつくったとき、海を見晴らせる景色のよい場所であるにもかかわらず、わざとそれを植込みでかくし、手水をつかう場所からわずかに海がのぞけるようにした。そして利休は、つぎの発句を引いてその意図を説明したという。
  海すこし庭にいつみの木の間かな
このような工夫は、禅僧のいう「残山剰水」の思想に通ずる。・・・自然を断片化しようとする傾向と一致するものである。」
★『茶庭における植栽変遷に変遷に関する史的考察』(安蒜俊比古ほか)より・「天正14~15年(1586~1587)頃から草や樹、手水鉢、飛び石が持ち込まれ、腰掛けや雪隠などが設けられるようになるとともに「坪の内」、「面坪の内」の面積が広げられ、それに伴なって、今日、随所に造られるような露地(茶庭)には植物が植えられ、石が置かれるようになる。・・・利休の円熟期(後期)には露地の形式が確立するとともに、露地に対する植栽について、かなりの積極性が認められるようになる。
  利休の晩年以後、茶庭(露地)はさらに発展、展開して、二重露地の構成を持つに至る。」
★『日本の庭園』(田中正大)より・「利休は路地の掃除は、茶会の時刻の直前でなくて、数時間前に掃除して、その後で散った落ち葉はそのままにして置くことを教えていた。山居の趣を出そうとした利休の茶の心に合っていた。
桑山左近が、利休に路地のつくり方を訪ねたとき、
  樫の葉のもみぢぬからにちりつもる奥山寺の道のさびしさ
という僧西行の歌で答えたと伝えられているのも、同じような意味であろう。この歌は、利休の路地のつくり方ばかりでなく、利休の茶の心を説くときよく引用される歌である。落葉の中に、利休の茶が象徴的にあらわれているともいいうると思う。」
★『日本の庭園』(森蘊)より・「飛石が茶室露地用になったのは千利休以後のことである。利休が生きていたころは「実用六分、景観四分」位の比率で実用が尊重されていたが、少し時代が降って古田織部の頃になると景観の方が逆に六分となり、実用が比較的軽く見られるようになった。また利休は「ふかふか」した丸味を帯びたものを好んだのに対し、小堀遠州の飛石は「きっぱり」と見えるのを特徴としているのも面白い。」
★『露地・茶庭』(北尾春道)より・「利休時代において創始された露地は、草庵体の簡単な一重露地の形式であったことは『茶譜』にも書かれている」「天正十年六月十二日(西暦一五八二)羽柴秀吉は光秀を討とうとして軍を山崎の宝寺に進め、その陣中にあつて一服の茶を喫しようと利休に命じて妙喜庵の境内に造らせたのが待庵の席であることは、すでに世に知られており、露地は多少後世において改修されているとはいえ、とにかく古風な様式を伝えていることは事実で、すなわち外露地、内露地の区別がなく、簡粗な飛石と霰散の延段があつて、単に蹲踞および石灯篭を配した純然たる一重露地の形式を示す当代唯一の遺構である。「槐記巻三」によれば、『妙喜庵ノ石ノ高サ、二寸バカリアリトテ、此ヲ法トスルハ違也。妙喜庵ニハ、本ハ小石ヲ敷キタル庭ニテ定覚ナト若キ時マデ覚エタリ、ソレヲ近年トリタル跡ノ、石ノ高也、常式タルベカラズト云、イカサマ左モアルベシト仰セラル』とあつて、享保のころ中井定覚の説でば躪口前には小石を敷いてあつたと称し、それは利休が雨後の山路に所々砂利の露出しているのを見て、これを露地の一部に写したと伝える形式にも思われ、その後現在のように飛石にかえられたというのである。」
  この文からすると、千利休作と認めうる唯一の現存茶室、「待庵の路地」は、たしかに利休風であるかもしれないが、利休がつくった当時の形とはとても言いきれない。
 
  以上は、利休の茶庭について茶書を通じて考察したものであろう。茶書は、むろん造園の研究者のために作成されたものではなく、茶の湯を勤しむ人のために書かれたものである。茶道の愛好者であれば、利休の心を尋ね、利休の境地に近づこうと、できる限りの推測を試みるのは当然である。また、茶道の家元は、自派の茶道を普及させるための茶書を作成することも、ごく自然なことである。
  たとえば、千家に関する基本史料とされている『千利休由緒書』を、どのように位置づけるかは、茶の湯の世界で判断することであろう。ただし、茶の湯の世界で一定の結論に到達しているとはいっても、文献の信頼性に疑問があれば、それは茶の湯の世界に留めておくべきであろう。