茶庭 10 古田織部その1

茶庭 10 古田織部(1544~1615年)その1
織部茶の湯と茶書
  吉田織部(重然)は、織田信長豊臣秀吉徳川家康に仕えた武将である。重然(織部)の名が茶会記に初めて記録されるのは、四十歳の時である。若い頃は茶の湯に関心がなかったようだ。利休の死後、秀吉の御伽衆を務めた頃から、茶の湯で名声を得ている。それ以後は、目覚ましい武勲はなく、武将よりも茶人として認められ、家康に仕え、秀忠の茶の湯指南を務めている。それによって、織部茶の湯を通じて朝廷や大名など幅広い人々とつながりを持ち、影響力を持つようになった。そのため、徳川幕府から織部の存在は危険視されるようになり、1615年の「大坂夏の陣」の豊臣方に内通しているという嫌疑をかけられた。これに対して織部は一言も釈明せず、大坂落城後に享年七十二才で自害した。
  織部茶の湯は、利休を精神を継承し、武家流の茶の湯を確立させたとされている。また、利休は弟子たちに自分の模倣を求めることをしていなかったので、織部は当然のことながら自らの茶道を極めることができた。織部がどのような茶の湯を行ったかについては、『宗甫公古織へ御尋書』に綴られている。この書は、慶長九年~十七年(1604~1612)にわたり、小堀遠州自身が直接、また人を介して、織部茶の湯に関して(遠州でなく上田宗箇が
)聞き記したものであるとされている。また茶会についても、詳細に記録され、日時が判明し、背景や状態が把握できることから資料としての信頼性が高い。なお、『宗甫公古織へ御尋書』は、『古織正伝慶長御尋警』『宗甫公古織江御尋書』などの名称でも呼ばれている。その他の書として、『古織公聞書』『古田織部正伝聞書』『古織伝』など、いくつかの名称で呼ばれているものがある。これらは、底本の書名をとり『古田織部正殿聞書』と称されている。この書は、伝書が一般にそうであるように、ある時点で織部茶道の信奉者によって集大成されたものであろう。そのため、『宗甫公古織へ御尋書』とは性格が異なるとされている。(『古田織部茶書』市野千鶴子より)
 これらの茶書を見ると、織部茶の湯は、二方向からの見方で解釈されているように思える。一つは、利休の精神を踏まえつつも、時代の要請に応えながら織部の色彩を増していったとする見方。もう一つは、織部のオリジナリティーを優先して、その独自性を強調する、という解釈である。茶書は、以後数多く作成され、その先陣とも言えるのが織部関連の茶書である。それも、自らの権威の正統性を示す最初の茶書である。
 
茶の湯の隆盛と茶書
 世の中が安定する十七世紀に入ると、茶の湯は全国の大名たちによって嗜まれ盛んになる。茶の湯の隆盛を受け、茶人たちは新たな流派を形成し、お抱えの指南となる。茶の湯の流派は、以下のように十七世紀に入ってから急激に増加する。
茶の湯の主な流派創設一覧
流派創設時期   流派名        流 祖                   茶書
十七世紀初期  裏千家流       千宗旦         
十七世紀初期  松尾流        松尾宗二(楽只斎)             
十七世紀初期  久田流        久田宗栄(生々斎)             
十七世紀初期  宗和流        金森宗和                  
十七世紀初期  遠州流        小堀遠州(宗甫)    1612『宗甫公古織へ御尋書』
十七世紀初期  有楽流        織田長政        1626『草人木』   
十七世紀中頃  表千家流      江岑宗左        1640『長闇堂記』  
十七世紀中頃  武者小路千家流 一翁宗守(似休斎)  1641『細川三斎茶湯書』 
十七世紀中頃  薮内流(下流)   藪内剣仲(藪中斎)   1659『古田織部正殿聞書』
十七世紀中頃  上田宗箇流    上田宗箇        1663『江岑夏書』    
十七世紀中頃  石州流        片桐貞昌(宗関)    1665『石州流三百箇條』 
十七世紀中頃  古市流        古市宗庵        1672?『江岑宗左茶書』
十七世紀後期  普斎流        杉木普斎        1680『茶道便蒙抄』 
十七世紀後期  三斎流        一尾伊織(徹斎)    1690『南方録』     
十七世紀末   宗遍流         山田宗遍        1691『茶湯三伝集』   
十八世紀初期  堀内流        堀内仙鶴(化笛斎)   1701『茶話指月集』   
十八世紀初期  三谷流        谷宗鎮            1716『源流茶話』     
十八世紀中頃  江戸千家流    川上不白        1738『茶湯秘抄』    
十八世紀中頃か  珠光流(奈良流) 鈴木道義         1756『青湾茶話』   
十八世紀後半  速水流        速水宗達                  
  茶の湯の普及は門人の獲得運動を引き起こし、おのずと諸流派は自派ならではの茶の湯を完成させることになる。その正統性の根拠となるのが、利休の茶の湯である。各流派は、利休を自派の茶の湯を保障するものととらえ、そこから利休の絶対化、神格化が形成された。ところが、利休は具体的なことについて何も書き残していない。そのため、各流派は勝手に、これが利休の教えであるとして、茶書に綴ってしまう。各流派の書物にはそれらの茶書を引き写したり孫引きしたりしたことや、さらには伝承・逸話の創作などが加わっていることも少なくない。
  茶書が史的な資料として疑われるのは、もっぱら自派に有利な解釈を中心に書かれているからである。たとえば、『古田織部正殿聞書』には「石燈籠形定メ之レ無シ」とあるのに、『茶譜』では「織部形石燈籠ハ其形一様也」と記載されている。『茶譜』が作為を持って書かれたことは当然であり、何も織部の茶庭について正確に伝えることを意図していない。それ故、茶書には錯綜した解釈や事実とは異なることが記載されている可能性がある。
 また、茶会記にしても、日時が特定されるので、信頼できると考えがちであるが、脚色や挿入なども多く信頼性としては必ずしも高くない。『今井宗久茶湯書抜』は、江戸末期に一部が抜き書きしたもので、神津朝夫は誤りを指摘(『千利休の「わび」とはなにか』)している。挿入されている路地図面についても同様であるため、参考にするか、あるいは可能性がある程度で止めておかなければならないだろう。利休や織部が作庭した路地が現存していない以上、現存する茶器と同じような見解を、そのまま信じて使うには問題がある。