茶庭 12 古田織部その3

茶庭 12 古田織部その3
古田織部の作庭
イメージ 1  織部がつくったと伝えられる庭が南宗寺にある。この庭は、森蘊が「戦災で荒れはてていた南宗寺本坊の方丈建築の復興に伴い、庭園の修理を依頼されたので、詳細に実測し、土砂が堆積し石組がかくれたところがあるので、地表を少し掘り下げたところ、桔山水の流れの末の方で、その両岸の石と、川底の玉石とが突如現われ出たのである。一見新しく設計し直したように見えるけれども、倒れかけた石を起したり、植栽をし直したりしただけのことである。」と、『日本の庭園』(森蘊)に書いたものである。修理前の庭園写真は、『日本の庭園』(森蘊)より転載したもの。修理後のものは、平成十一年(2011.11)に撮影したもの。
イメージ 2  南宗寺の庭について、田中正大は、「古田織部の作庭と伝えられているが、確かなことはわからない。江戸初期らしい色彩ゆたかな庭である。」と『日本の庭園』(田中正大)で述べている。ここで、「作者」について少し考えてみよう。「法隆寺は誰が作ったか」という問に、「大工さん」との答えが返ってきた、という有名な笑い話がある。真の作者を誰とするかは、考え方によって違ってくる。そもそも、庭ができる経過を示すと、まず庭をつくらせた人(施主)がいる。その依頼を受けて、庭のイメージをつくる人(企画・設計)がいる。真の「作者」とは、このイメージをつくる人のことであろう。もちろん、施主自身、ある程度のイメージを持っていることはあるが、それを具体的なものとして表さなければ、作者とは言えない。また、同じ観点から、イメージを具現化する、工事(施工)をした人も、作者とは言わない。
  ところがどうも、世間の人々は、施主=作者としてしまう傾向がある。施主であろうと、設計者であろうと、普通の人にとっては、どうでも良いことなのだろう。また、昔のことであれば、証拠となる文献や物証は残っていないため、言い伝えに頼らずを得ない。そしてやがて、言い伝えや推測が史実のようになり、あたかも施主が設計したような話が独り歩きし始めるというのが一般的である。
  建築や庭園が完成するためには、施主、設計者、施工者がいなければならない。しかし、それらの人々の名前が後世に伝わっているかといえば、大半はわからなくなっている。施主が設計したことがあったとしても、それを証明できる資料が存在する例は非常に少ない。醍醐寺三宝院の庭は、施主が設計したことを示す例外的な事例である。それは、醍醐寺第八十代座主・義演准后が、三宝院庭園の築庭の経緯を日記に記していたからである。
 准后は、慶長三年(1598)二月二十日、「庭園を築造すべく、自ら縄張りを行う、池を堀り、中島を設け、島に檜皮葺の護摩堂を一宇を作り、橋をかけ、滝二筋を落す計画を示す」と、「醍醐の花見」に際して訪れた豊臣秀吉三宝院庭園について指示した様子を記している。その後、四月十二日、「三宝院庭園普請中、秀吉、指導のための来臨する」と、再度の指示をしている。この日記によって、施主と設計者が秀吉であったことがわかる。
  誰が庭の作者であると判断するためには、設計内容(秀吉は具体的な形を指示)が記録されていて、設計どおりに施工した庭(三宝院庭園)が完成した、という事実がなければならない。過去の庭園も、作者がいたことは確かであろう。だが、この要件を満たした江戸時代以前の庭園は少ないと思われる。三宝院庭園の当初の設計者が秀吉とわかったのは、例外的なことである。小堀遠州ですら、慶長十三年(1608)に駿府城普請奉行に任じられた頃から、ようやく彼の作事が証明されるようになったのである。
  一方、建築に比べて庭園は、無理に作者を求めようとする傾向がある。西芳寺庭園は夢窓国師(無窓疎石1275~1351年)の作と、多くの庭園書に記されている。夢窓国師は、臨済宗の禅僧で作庭の名手で、恵林寺庭園(山梨県)、永保寺庭園(岐阜県)、西芳寺庭園(京都府)、天龍寺庭園(京都府)などを作庭したとされている。夢窓国師が、庭に大いに関心を持っていたことは確かであろう。
 だが、夢窓国師が庭に関して残っていることは、『夢中問答集』に、「古より今に至るまで山水とは山を築き石を立て樹を植え水を流して嗜愛する人多し、其風情は同じと云えども其意趣は各々異なり、或いは我心にさして面白しとは思はずども家々の飾りにしていやしげなる住居哉と思わざるかたちに構ふる人もあり、又万の事に貧者の心ある故に世間の珍宝を集めて愛する中に山水を愛してよき石、吉木を選び求めて置く人あり、かやうの人は山水のやさしき事をば愛さず。唯此れ俗塵を愛する人なり、白楽天は小池を堀り、其辺に竹を植えて愛せられき、其語に云う、竹は其心虚しければ我が友とす、水は能清浄ければ吾師とすと云云、世間に山水を好む人同じくば楽天の意の如くならば実に是俗塵に混ぜざる人なるべし、或は天性淡白にして俗塵の事をば愛さず、唯詩歌を以てし泉水にうそむき心を養う人あり、烟霞痼疾泉石の膏盲と云はるるはかやうの人の語なり、是をば世間のやさしき人と云うべし」という程度である。
 夢窓国師が作者でないとの否定することは、非常に難しい。『西芳寺庭園における庭園様式に関する研究』(ハマハ・アンドレアス, 白井彦衛)でも「夢窓国師により造られたと一般的にされているが、古文献によりその説を裏づけるに足る明確な論拠がないかぎり、やはり、夢窓国師がその庭園に手を加えていないという可能性の方が高い」「禅宗庭園という様式より、旧浄土庭園という様式名をつけた方が確実、適切なのである」と、含みを残した言い方で、断言を避けている。
  庭園の作者を探すにあたり、的確な資料がない時はやむを得ず、その作風で推測しようとする傾向がある。だが、もともと作者不明の庭を、その作風から設計者を導きだそうとするのは本末転倒である。作風は、いくつかの庭園が同一人によって設計されたという事実にもとづいて決めるものである。もし、秀吉が他にも設計した庭があれば、秀吉の作風は理解されただろう。しかし、秀吉が作庭されたと伝えられるもののうち(伏見城や聚落第、大阪城内に庭があり、何らかの関与があるだろうが)確実に証明できるは、三宝院庭園だけである。そのため、三宝院庭園は、安土桃山時代の作風を伝える庭園として位置づけられている。
  遠州は、庭を設計し、施工して完成したという一貫した流れが証明された庭がいくつかあって、遠州好という作風が認められた。ところが、織部の作庭については、現在のところ彼の設計だと示すような資料は見つかっていない。織部の意図する作風を探るための庭園がない以上、田中正大が示したように、南宗寺の庭は、「江戸初期らしい色彩ゆたかな庭」とすべきだろう。織部の作風を創出して、作者不明の庭を、その作風から設計者にしてしまうことは、庭園の研究方法として問題がある。
 
古田織部正殿聞書』は心得を示すものか
イメージ 3  南禅寺金地院の方丈庭園は、小堀遠州が作庭したと確証できる唯一の蓬莱式枯山水とされている。それは、根拠となる確かな資料、『本光国師日記』(南禅寺二百七十世住職・以心崇伝)にその作庭の経緯が記録として残されているからである。では、作庭にあたって遠州は、どのような指示を出したのだろうか。彼は「『惣指図』を作り、また泉水の部分だけの指図も別に」(『小堀遠州』森蘊)と、基本的な設計案を示している。実際の施工は、それにもとづいて家臣の村瀬左介や庭師賢庭らが行った。
  ここで着目したいのは、遠州がどこまで指示したかということである。『古田織部正殿聞書』に書かれているような、石の高さや間隔などという細かい点についての指示はない。三宝院庭園の秀吉の縄張り(設計)にしても、詳細(実施設計)は職人(施工者)に任せている。遠州が設計した金地院の方丈庭園では、村瀬左介が植物、賢庭が石組を担当し、賢庭が不在の時は、工事自体が中断したほどであったから、実際に細かな指示を出したのは遠州ではないということになる。
  庭師の施工能力が優れていることは、設計者にとっては非常に楽で喜ばしい。基本的なイメージを伝えればそれでOK、それを具現化するための細かい指示は出さずに済むからである。ラフな図面やスケッチ程度で庭は立派に完成する。現に、小堀遠州の作事の中には、このような簡単な指示だけで完成しているものが存在する。
  遠州の師に当たる古田織部は、作庭家である以前に大勢の武士を率いる武将である。戦場では、部下を信じて一々細かな指示はしない。織部は路地についても、己の役割は心得ていて、路地設計で言及すべきことと、するべきではないことは、しっかりとわきまえているはずである。庭師の力量を理解していれば、職人の領域に口を出すことはしないだろう。にもかかわらず、『古田織部正殿聞書』を見ると、織部その人が路地のディテールにまで言及しているようになっている。これはおかしい、おそらく『古田織部正殿聞書』の書き手であり、編集者であった人物が庭づくりの素人であったためだろう。
 『古田織部正殿聞書』以前の書とされる『草人木』では、路地について「一  猿戸ニツある路地ならハ、外ヘハ共まゝ入、衣服きかへ、ざうり取もそれ迄つれ候、衣服しかへてよりハ、其衣の猿戸の口の石から、せきたハきかへ、戸口をひらき内へ入、せつちん萬に氣を付、腰掛にて享主の出るを待へし・・・」と記述している。この書は、路地を設計するという視点からというよりは、茶の湯の作法、心得を列挙したものと思われる。それが証拠に、『草人木』には、石の寸法や高さの数値などは記されていない。