茶庭 24 小堀遠州その9

茶庭 24  小堀遠州その9
遠州好みのディテール
  遠州らしさを形容する言葉に「きれいさび(綺麗寂)」がある。織部の作風を示す言葉に「ヘウゲモノ」がある。織部の場合は、まだ生存中の慶長四年(1599)、二月二十八日の『宗湛日記』に記されている。それに対して、遠州の「きれいさび」は、没後に生まれた言葉である。ちなみに「きれいさび」は、『大辞林』には「さびの中に優しさ・華やかさのある、明るく静かな風情。小堀遠州の茶風を示す言葉」とある。また、『骨董の知識百科』では「小堀遠州茶の湯に対しての好みを表す言葉とされている。それを現代の感覚で言い表せば、寸法に無駄がなくて、張りのある構成で、かつ清潔感にあふれた華麗さということになる。センスのよさともいえる。」とある。これは、茶道には通じるのだろうが、造園という視点からはあまりにも漠然としていて、遠州作の庭と判断する要件には適していないと思う。
  また、小堀遠州の庭園について美辞麗句で解説している本はあるものの、具体的な形を示すには至っていない。その点、森蘊の『小堀遠州の作事』は、「遠州好み」の要件を適切かつわかりやすく納得できるものだ。そのため、森蘊の指摘を正しいものだと信じて、流用しがちである。だが、現在、遠州作と伝えられている庭園は、『小堀遠州の作事』に示す「遠州好み」の要件を本当に満たしているのだろうか。
  要件とは、これまでにも述べた「角度の知覚」「加工石の挿入」などである。が、そもそも遠州の関与した庭園がそのすべてを満たしているわけではない。たとえば、現存する金地院方丈庭園を見ると、礼拝石は確かに「加工石の挿入」であるが、「角度の知覚」については該当しないようである。もっとも「金地院の庭園」は、「遠州好み」の要件を満たしているから遠州作と認められたのではなく、『本光国師日記』で証明されているからである。強いて言えば鶴亀のような形態が、遠州の好みと言えるだろう。
  とはいえ、「遠州好み」の要件を満たしていれば、即、遠州作と断定できるのかといえば、必ずしもそうでないから厄介である。江戸の蓬莱園(平戸藩の江戸別邸)などは、「本物よりこせついて」と、あまりにも遠州らしいので、これについては逆に「模倣」と森蘊は断じている。遠州が生きた十七世紀前半の庭園には、桂離宮をはじめ似たような構成やディテールがあったことは確かである。実際、鶴亀の庭が流行ると、あちこちで似たような庭が作られるなど、どれが遠州の作かと迷ってしまう。
  遠州が作庭したと伝えられる庭園の多くは、その理由として作風やディテールの類似性をあげてはいるものの、判断の第一の決め手はデザインよりは、むしろ由来や言い伝えに頼るものがほとんどである。近年、森蘊などによって、遠州の庭園に関する研究が進むにつれて、遠州作の真偽が明らかになってきた。しかし、遠州作と伝えられた庭園の多くは、真偽を暴かれたくないと思っているのが本音だろう。
 
遠州の作風と名声
  作風やディテールからの判断は、たとえば、南禅寺方丈庭園を遠州作とすれば、その作風・様式も遠州のものになる。そのようにして庭園を見れば、遠州作と思われる庭の数は多くなり、遠州像は拡大していく。ところが、南禅寺方丈庭園について、重森三玲は様式の違いから遠州の作ではない、と昭和の初めから主張していた。さらに、尼崎博正も『庭石と水の由来』において、遠州の没後にできた庭だと指摘している。
 遠州の作風については、他にも混乱を招くような根拠をもって推測する例がある。それは、西洋的な造園手法を遠州の作風とする見解である。織部についてもそうだが、キリスト教信者との接点から西洋の影響を受けたと言われている。遠州織部西洋文化に関心を持っていたかについては、断言できるような史料はないと思われる。完全否定はできないものの、当時の庭園については、西洋文化より中国の影響をより強く受けていたと考えるのが順当だろう。
  たとえば、博物学の書、『本草綱目』は1578年(万暦六年)に完成、1596年(万暦二十三年)に南京で上梓された後、すぐに日本に輸入されている。中国の文化は、奈良、平安の時代から入ってきており、江戸時代になってもそれは続いていた。園芸植物も中国から数多く輸入され、植物名の大半は漢名のまま使用されていた。当時の園芸書等(例えば、鉢植の値段に示される植物名)を見ればわかるが、和名より漢名で記される方が圧倒的に多いように感じる。中国文化が深く、広く浸透していたことは、書道・作陶にすぐれた陳元贇(1627年渡来)を初め、中国の文人が幾人も日本に来ていることからもわかる。特に庭園と深い関係がある絵画は、南画などの影響を受けていたものと思われる。
  作庭に関する手法や技術も、中国からかなり浸透していたのではないか。たとえば、明代の庭園、豫園(よえん)は1559年(嘉靖三十八年)から1577年(万暦五年)、18年の歳月をかけて造営された。この庭園は、中国様式の回遊式庭園(回遊式庭園は日本のオリジナルではない?)である。その後荒廃が進んで、1760年(乾隆二十五年)に上海の有力者たちによって再建されたため、当初の形態は多少変えられているかもしれないが、それほど大きな変化はなかったものと思う。豫園には、くりぬき門、潜り壁、漏窓(透かし窓)、切石橋など、日本の茶庭に見られる手法がいくつも展開されている。空間を仕切ること、壁に穴をあけるという手法(桂離宮の月波楼への路地口)は、なにも茶庭のオリジナルではない。中国の作庭技術の優れていたことは、1634年(崇禎七年)頃、明の計成によって『園冶』という造園技術書が書かれたことからもわかる。江戸時代には『奪天工』という名で親しまれ、借景の理論など影響を与えたことは確かだろう。
イメージ 1  中国ではその頃(明・清代)、古猗園、寄暢園、拙政園、留園など、続々と庭園がつくられた。その情報や技術は、当然のことながら伝わっているはずだ。そのため庭園のディテールについても、中国からの影響を受けてたはずなのに、何故かその事実は無視されているようだ。茶の湯では唐物や高麗物が幅をきかせている中、路地だけは、中国の庭園関連の技術が反映されないというのも不自然な気がする。たとえば、孤篷庵表門前石橋(櫛形勾欄)、このデザインに西洋の影響を感じることができるだろうか、それよりはるかに中国風に近いではないか。
  中国の影響を受けていると思われる当時の庭園に、小石川後楽園の小廬山がある。後に明の遺臣朱舜水によって中国風に改修、また、茶人・上田宗箇が手がけたとされる縮景園(泉水屋敷)にも濯纓池がある。これらの庭を実際につくったのは職人で、具体的な情報が中国から入っていなければ完成できない。したがって、作庭の職人には、逐次新しい技術や流行などを取り入れ、共有する共同体・社会が存在したものと思われる。職人が中国からの情報を持っていたことは、『小堀遠州の作事』に掲載されている「妙蓮寺玉竜院十六羅漢庭」の中国風石組みの写真を見ればわかる。この庭園は、桂離宮の造園・石組みを担当した職人である玉淵坊が作庭したものだ。玉淵坊が率いる職人集団には、中国から様々な技術や情報が入っていたのではなかろうか。
  そこで、当時の庭づくりがどのように進められていたか、再度検証してみたい。堀口は、『建築論叢』で、「作らせる人と、その回りにその話を聞き、その問に答えたり、言葉を進めたりする多くの人々が取りまき、その下に工を行う人と手とがあって、進められて行くのが習であった」述べている。当時の庭づくりは、現代のような図面化された完成像が当初からはなかった。施主、作らせる人とその取り巻きによって、大まかな庭のイメージがつくられ、それを職人たちに指示して施工に移る。重要なのは、この時点ではまだイメージが完全には煮詰まっていないことである。大まかな構想を職人たちに話し、彼らからも様々な提案を求める。職人たちは、逆に庭の完成像を上役に示し、自分たちのイメージで作ることへの了解を得る。このようにして、庭園工事は進められたと思われる。
  立場上は上でも、実際の庭づくりについては、技術はもちろん、庭の善し悪しを見る目も職人に劣ることが少なくなかった。遠州が優れていたのは、職人たちの提案を本当に理解して取り入れたこと。加えて遠州は、職人が賛同し、制作に力を貸してくれるような卓越したアイディアをいくつも示した。それでも、職人たちの技術力が勝っていたのだろう。遠州は建築のような理詰めの空間については、自分でこなしたが、庭園の細部は職人に任せっきりであったのだろう。
  職人たちに作庭能力のあったことは、玉淵坊などによっていくつもの庭園が作られていることから証明されている。だから、金地院方丈庭園の石組は、賢庭なのか遠州なのか、どちらの作風を示しているのか、見方によって異なる。金地院のように、関わった人がわかっている場合は、検討の余地がある。しかし、素晴らしいデザインで作者不明なものについては、当時の実力者である小堀遠州作ということにすれば、異議が出されることは少ない。そんなこともあって、遠州の評価は上り、名声はさらに高まっていったというのが真相ではなかろうか。