茶庭 17 小堀遠州その2

茶庭 17 小堀遠州その2
遠州の人物像                                                            南禅寺方丈庭園  
イメージ 1  遠州は、彼の父と同様、武芸では出世できないと考え、作事奉行として頭角を現そうとしたのだろう。茶の湯にも関心は高かったものの、30代からは、公務・作事に主眼をおいていたと考えられ、その力量は幕府の認めるところであった。そして、この頃から遠州に関する資料が数多く残されることになる。だが、遠州に関する資料は、千利休古田織部に比べはるかに多いにもかかわらず、不明な部分が少なくない。それも、建築より庭園に関する事柄の方がよくわかっていないのでは。そのため、桂離宮南禅寺方丈庭園などのように、様々な推理推測が生まれたのだろう。
  そして、そのためか、遠州の人物像についても、作庭家より茶人として書かれたものが多い。それも、利休、織部に続く第三の人物として不動の位置に据えられ、異論を挿む余地がないほどに神聖化されている。確かに遠州は、茶道・華道の流祖であり、その業績に関しては疑う余地もない。そのため、人物像についても、大成した茶人という結論を前提に組み立てられているようだ。
  偉人の経歴は、絶頂期からその後の余生についての資料はたくさんあっても、初期の頃については、ほとんど残っていないのが普通である。それで、生い立ちを書く時には、後の輝かしい業績と辻褄が合うように、少ない資料から深読みしたり、こじつけたりすることも少なくない。遠州の経歴でまず出てくるのは、十才の時に利休に出会い、秀吉への給仕を務めたという話である。十五・六才頃には大徳寺で参禅を始め、十八才の時に洞水門をつくり、織部を驚かせたという。このように、十代の時でさえかなり具体的な様子を伝えている。これらはみな、後の茶人・遠州にふさわしい話ではある。ではその他に、遠州の人物を彷彿とさせるエピソードはなかったのだろうか。この種のエピソードだけが残っているというのは、彼の業績にふさわしくない話は、意図的に削除したのかもしれない。何かそんな不自然さを感じる。
  遠州の人物像の中で、茶人ということに深く捕らわれずに書かれていて、さほど不自然さを感じずに読める本としては、小説『小堀遠州』(中尾實信)がある。もちろん、小説だから作られた話もあろうが、遠州の人物像を知る上で、なかなか興味深い。たとえば、妻を娶る十九才以前から深い関係の女性がいたとか。面白いのは、各章に「つぶやき」という項を入れ、女性に遠州の内面を語らせていることである。その女性とは、正室・志乃や側室らで、『小堀遠州』(森蘊)に「妻女と側室」として記されている人物のようである。ちなみに、遠州には12人の子供がいて、正室の外に3~4人の側室、その他にも遠州の子供を産んだ女性がいたらしい。六十代に入って五男、六男を授かるなど、女性関係もなかなか盛んである。
  ところが、遠州を偉大な茶人・作庭家として見るとき、女性遍歴は遠州の人物像を示すのに無用なもの、むしろ差し障りがあると捕らえられている節がある。また、若いころには書や和歌にも関心が高く、定家に心酔し、熱心に和歌を学んだりしているが、それよりも参禅の方がずっと強調されているように感じる。それによって茶禅一味にという、伏線を形成して、ことさら茶人遠州の偉大さを強調しようとする意図が見え隠れする。したがって、森蘊の『小堀遠州』を見ても、その辺のことについては、遠州の品格を汚さないように、妻と側室がいたという程度で多くを語っていない。「茶道をもって、自身の修養の具とし、処世のための訓練の場と見て、その中に倫理・道徳の思想を折り込んでいる」と評しているが、実際の遠州は、厳格な禅より感情表現豊かな和歌を好むような人物ではなかったかと思う。
  遠州は、役人として公正無私であるとともに、私的な面では人当たりが良く、如才のない人物でもあったようだ。織部切腹した利休の後を追ったのに対し、遠州織部の晩年には交流を絶っていたようである。機を見るに敏で、要領がよく行動的で、部下への心遣いも怠ることのない、そんな人物であったのだろう。それゆえ、作事の現場に彼が始終いなくても、完璧といえる仕事ができたのではないか。また、一時、公金一万両の流用が取りただされたようなこともあったが、酒井忠勝らの取りなしによって事なきを得ている。これなども、遠州の人徳のなせる所である。
 
追、洞水門については、「水琴窟」http://blogs.yahoo.co.jp/koichiro1945/20748653.htmlを参照されたい。また、遠州が洞水門を作ったという話、否定はできないものの、とても無条件に信じることはできない。と言うのは、以後、遠州が洞水門を作ったという話を聞かないからである。