江戸時代の椿 その2

江戸時代の椿  その2
★1630年代(寛永年間)  寛永のツバキ
  ツバキの種類が増えたのは、寛永年間(1624~1643年)ではなかろうか。それを証明するかのように、ツバキの図集がいくつも描かれている。寛永七年(1630)、誓願寺安楽庵策伝は、収集した椿を『百椿集』として著した。その後、京都と江戸で相次いで『百椿図』が出されたらしいが、残念なことに、『百椿集』の図は現存しない。また、『百椿図』について、つぎのような諸説がある。
 京都の『百椿図』は、烏丸光広(公卿・歌人・能書家)が序文を記した『百椿図(逸書)』が、寛永十一年(1634)に出されたとされている。その烏丸光広の序文を『樹木図説』(上原敬二)から転載すると、「此頃花の中に椿をもてはやす、思ひをたてて諾共に競ひ弄びものとなれり、ここに事を好む人、春秋夏冬とも絶あらせじが為、図に作り鴫の羽がき百まで書き集めしきたへの枕事となせり、誠によしある仕事、人よりは優りけり、凡そ日本に花と云ふ椿になん、夫れすら中頃の事にて音は梅をこそ申したんなる、共時世にもはで珍るを押立、此花と云へぼ今は椿の事にぞあるべき」とある。ところが、烏丸光広には、同年『椿花図譜』を著し、619種のツバキを紹介したという説もある。
  そして、その翌年(1635年)、江戸でも、松平伊賀守忠晴の手による『百椿図』が出されたとあるが、その図は残っていない。『百椿図』が存在したという根拠は、林羅山が書いた序文が残っているからである。忠晴は、ツバキを愛好していたものの、公務に追われてなかなか思うように栽培できない。それならせめて写生でもと、有名なツバキ百種を彩色で描いたようだ。序文を『樹木図説』から転載すると、「夫れ椿の名あるや荘子に称せられ、本草に載る、倭名之を津婆岐と謂ひ或は海石榴と号す。本朝先輩白椿を賦して曰く霊根保寿託南華、花発金仙王府家、素質宛粧氷雪面、不随紅作山茶花と、或は数種あり、或花簇は珠の如く、或は青蒂、或は粉紅、或は淡白、謂宝珠茶花、海石榴花、躑躅茶花、一念紅、千葉紅、千葉白の類数ふるにたふべからず,椿花亦然り、倭歌家に玉椿あり、白玉椿あり、紅椿あり、春椿あり、浜椿あり、山椿あり、云々(原文漢文)」と記されている。なお、その他の『百椿図』として、丹波篠山藩主松平忠国(忠晴の兄にあたるのでは)が寛永十年(1633)頃までに作らせた『百椿図』がある。これは、根津美術館に現存するもので、狩野山楽の筆と伝えられている。      
  ツバキの図集には他にも説がありそうである。寛永期にツバキに関する著作が増えたことは確かで、この時期にツバキの愛好者が多くなったことを反映したものだろう。流行を記したものとして、寛永十五年(1638)、朝山意林庵の作とされる『清水物語』が出ている。その上巻二十七~八頁に「此比  椿の花のはやるやうに付ても。聞もをよばぬ見事なる花あまたあなたこなたよりでたり。このむ人ありてはやり候はゞ。おもしろき物もりなんかし」とある。またこの頃、ツバキの流行が相当な規模で広がっていたことは、『武江年表』の寛永年間に「椿花を弄ふ事行る」とあることからも推測できる。
・日記
  当時の日記にもツバキに関する記述が認められる。たとえば、寛永五年(1628)二月二十一日、西洞院時慶は、日記『時慶記』に観音寺椿が初めて咲いたと記している。実生から生育したツバキ・白玉という名の花が咲いたとある。
  また、寛永九年(1632)一月四日の日記にも、「薄色のツバキが開花、白椿は余寒きびしく開かぬ」と、日記に記している。
・茶会
  1630年代にも、小堀遠州の茶会には、ツバキが茶花として度々使われていた。『小堀遠州茶会記集成』から茶会の日付を示すと、次のようになる。
寛永十四年(1637)  正月  八日朝  梅  椿
寛永十四年(1637)  二月  二日朝  椿  きんせん
寛永十四年(1637)  二月十二日朝  こふし  椿
寛永十四年(1637)  二月十三日朝  柳  桃  つはき
寛永十六年(1639)  二月  八日朝  ほけ  椿
寛永十六年(1639)  二月十二日朝  ほけ  椿
寛永十六年(1639)  二月十五日朝  椿
寛永十六年(1639)  二月廿五日朝  紅梅  椿
寛永十六年(1639)  三月  五日朝  椿  こふし
  また1640代にも、ツバキは小堀遠州の茶会に登場している。
寛永十八年(1641)  三月  朔日朝  黄梅  椿
寛永十八年(1641)  三月  二日朝  梅  椿
寛永十八年(1641)  三月  四日朝  椿  ほけ
寛永十九年(1642)  卯月十三日晩  牡丹  椿
寛永十九年(1642)  卯月十八日朝  牡丹  山吹
寛永十九年(1642)  卯月廿六日朝  藤  椿
正保  二年(1645)  十月十九日朝  水仙  椿
正保  二年(1645)  霜月廿五日晩  梅  椿
正保  三年(1646)  二月十一日朝  梅椿
 
★1640年代(寛永~正保年間)  『隔蓂記』の椿
・日記
 ツバキの愛好者は、寛永年間から正保年間にかけても大勢存在したと思われる。鹿苑寺金閣寺)の住持鳳林承章の日記『隔蓂記』にも、ツバキに関する記述がいくつも見ることができる。『隔蓂記』は、寛永十二年(1635)から寛文八年(1668)までの34年間分が現存し、鹿苑寺はもちろんのこと、後水尾天皇や公卿などの宮廷の人々、林羅山金森宗和、千宗旦との交流などが綴られている。承章は園芸を趣味としていて、鹿苑寺内で目についた樹木や草花について日記に頻繁に記録している。なかでもツバキは、当時大流行していたこともあって、数多く記録されている。その内のいくつかを示すと以下のようになる。
寛永十三年六月廿五日、椿弐本致寄接
寛永十三年八月十六日、諫早椿寄木拝領
寛永十六年三月七日、仙洞写生ノ料ニ椿ヲ所望セラレル
寛永十六年三月八日、買椿三本(大村・白腰蓑・吉田)
寛永十六年三月十一日、久圓来  椿花両色持参(大スカ椿・木村)
寛永十六年三月十七日、尾張散椿投明王院  予亦到不動  栽椿
寛永十六年六月廿八日、而花坊頼之椿接直也
寛永十六年九月二日、椿ヲ花壇ニ栽培ス
寛永十六年九月九日、鉄線花取、栽也
寛永十六年九月十一日、町椿恵也。即栽花壇也
寛永十七年二月十一日、諫早椿又寄接也
寛永十七年二月十一日、諫早椿又寄接也
寛永十七年三月五日、衣笠山之カブ松十二・三本、而栽、四本歟遣于明王院
寛永十七年五月廿三日、呼久栄、椿五六本接也
寛永十八年三月廿三日、鎮守社之南方岸指椿花於洞裏
寛永十八年五月五日、椿残花一両枝有之、端午見椿花事、希事
寛永十八年六月十日、接椿也、諫早之小椿之由也   
寛永十九年三月十九日、伊藤九左衛門所有之小椿之飛入三好、令進覧于、仙洞也 
寛永十九年七月九日、椿之接穂所望也、七色遣之(白雲・諫早・腰蓑・五郎左衛門・等安・炭屋・大白玉)
  植物好きの承章は、ツバキを積極的に集めており、盛んにツバキの接ぎ木を行っている。寛永十九年に鹿苑寺に生育するツバキ(たとえば諫早)は、寛永十七年二月に接いだものと思われる。また、同年五月に5~6本接いだのは、白雲・腰蓑・五郎左衛門・等安・炭屋・大白玉という名のツバキである可能性がある。承章は、庭づくりより植物の栽培に熱を入れていた、それだけに植栽技術は植木屋に劣らぬ技量をもっていたと思われる。気に入った椿があれば、枝を入手して意欲的に接ぎ木を行い、その大半は成功したようである。
寛永二十年三月四日、仙洞、椿花一輪被許管見・・・腰蓑椿之色、而千重、其内白飛入有之、珍花也
寛永二十年三月十一日、椿離接一本申付也。北野興善院所持之豊田椿也
寛永二十年六月四日 、呼小谷宗春、而接椿之寄木也。以上七本・・・
寛永二十年十月廿二日、茶之時・・・紅白椿花、珍花共也
寛永二十一年七月三日、呼小谷宗春、今朝椿接木四本接之
寛永二十一年十一月十三日、自武田信勝法眼、花数朶被恵也。白梅・紅梅・赤木瓜・白玉椿・山茶花来也
寛永二十一年十一月十四日、口切之茶・・・今日花者・・・白玉椿也
正保二年正月廿三日、諫早椿之寄木并桔梗椿之穂六本、指桶之土、而遣于森八郎兵也
正保二年三月十日、自  仙洞、椿花十輪被許管窺也・・・獅子椿・宗圓腰蓑・大白玉・一重星・八重獅子・粟盛椿・実盛・大村・一重獅子・此十種也
正保二年三月十四日、昨日来椿、離接、予接之也。秋菊分栽也
正保三年二月十三日、大輪咲椿花ヲ仙洞ニ献上ス
正保三年十一月廿三日、花入銅之花入、元和椿・水仙
正保四年六月廿八日、呼宗春、而椿接也
正保四年八月十日  敦賀椿開一輪・・・八月之中、見椿花事、一生之初也
正保四年十一月八日、白玉椿一輪是又被恵之也
正保四年十一月九日、椿未開白玉一輪被恵之也
慶安元年三月朔日、永井尚政仙洞ニ椿ヲ献上ス  椿三色・・・八重獅子・唐星・天下也
慶安元年三月十日、椿木二本・柏葉・木檞遣吉権所、而栽也
慶安元年九月十三日、而口切也。於高林庵也。椿紅白二輪初見之也
慶安元年九月十四日、自玉舟翁、紅白椿二朶被恵之也
慶安元年十月十五日、壽慶実植之飛入椿寄木所望
慶安二年二月十六日、椿二本堀、遣西瀬也。小海棠椿・佛光寺椿也
慶安二年二月廿日、仙洞、椿花二十四輪色々、可遂愚覧之旨、拝領也
慶安二年二月廿五日、寺町之方新御殿見物仕、御花壇椿見物
慶安二年一月二十五日、仙洞振舞也・・・各御庭見物・・・御花入古銅、白玉椿・水仙入也
慶安二年十二月十二日、花入宗和之筒、白玉椿・寒菊也
慶安三年三月十四日、吉権三郎椿持参仕、飛入見事成花驚目也
慶安三年三月廿四日、宇佐椿・諫早椿両本投以錐公也
  椿に関する記述は、以後も続く。
  鳳林承章が住持である鹿苑寺の方丈は、後水尾天皇によって再建されたもの。方丈庭園には、後水尾天皇お手植えと伝えられる侘助椿があるが、何故か承章の日記には見当たらない。
 
★1650年代(慶安~承応~明暦~万治年間) 椿の贈答・お手植え
・『隔蓂記』

  慶安三年(1650)三月十四日  吉權三郎椿持参仕。飛入見事花驚目也
                  三月二十四日  宇佐椿・諫早椿両本投以錐公也
  慶安四年(1651)十月二十八日  町椿を遣わす
 明暦二年(1651)三月七日 仙洞、椿花十輪致拝領也
                        三月廿二日  仙洞、椿花十一輪拝領
  鹿苑寺内でツバキが増えたからだろう、鳳林承章は贈答に使っている。万治二年(1651)二月十四日、後水尾上皇修学院離宮を建てはじめ、庭園に植える樹木を物色していることを聞き及び、寺内の常緑樹を贈ったとある。たぶん、その中にツバキも含まれていただろう。承章はツバキを接木するだけでなく、移植などの力仕事もしていたのではないかと推測する。というのは、承応二年(1653)四月四日、鹿苑寺書院の手水鉢を自ら据え直しているからである。なおその時、承章の年齢は60才、当時で言えば高齢なので、力仕事ができるほどの頑強な体をしていたのだろう。以後もガーデニングを続けていたことは、彼の亡くなった年寛文八年(1668)、二月九日の日記に、ツバキを接いだ記述があることから確かである。
  承応三年(1654)後水尾上皇は、皇女・浄法身院宮宗澄を開基として霊鑑寺を創建した。境内には、創建された頃に植栽されたものと伝えられている、上皇遺愛の「日光椿、散椿」がある。