茶庭 14 古田織部その5

茶庭 14 古田織部その5
織部の植栽について
 織部が利休以後の茶の湯で、一世を風靡したことは確かである。そのことを含めて、織部の路地については、田中正大が『日本の庭園』で詳しく述べている。田中は、織部らしい特徴、すなわち、敷松葉、切石、織部燈籠などをわかりやすく説明しているが、いずれについても織部が創作したとは断言していない。むしろ歯切れの悪い、「ただ何回も指摘したが、織部流と織部とは別に考えねばならぬ」という表現で、含みを持たせている。
  特に織部燈籠については、「織部聞書には竿の上部の丸いふくらみについて書かれていない。織部燈籠として大切な特徴とされているが、この点に触れていないのは残念である」と述べている。さらに、「織部が創案し、織部はこの燈籠ばかり使っていたと考えるのは早計であるように思う」とまで書いている。
  田中は、『古田織部正殿聞書』(以下、「聞書」とする)の路地の記述に、「内外ノ路地ニ常盤木ニテモ、実ノ付ケタル木ハ惣テ植エズ。楊梅、枇杷、柑橘、柚、蜜柑、久年母杯一ツ植ウ可キ也。この文は判りにくい内容であるが、これは聞書に共通したものかもしれない」と述べている。確かに、「聞書」には、錯綜した記述がいくつかる。そのような記述を田中は、理解しようと努力しているように感じる。しかもある方向(利休に続く織部という)で、先入観に近いもの(路地にも織部の一貫した思想があるという)を持って「聞書」を読もうとしたようである。
  「聞書」に織部の意を汲もうとすることが、必ずしも織部の路地への正確な理解に結びつかないような気がする。田中には、「聞書」の不明な点をもっと端的に指摘し、「聞書」の信頼性や限界を示して欲しかった気がする。たとえば、「聞書一」の十三(東京国立博物館所蔵本にはないとされる)に、「一  内外路次之心得  結構成家造ナト見ユル所、高木ヲ植カクシ不見様ニスル、第一之心得也。茅屋ナト夕顔ハヘ懸躰侘タル所ハ、路次之一景ニ用テ見立候様ニ木ナトニテモ植ル事第一之心得也。」とある。続く「聞書二」の二には、「一  内外之路次造心得之事。結構成家造ナト見ユル所ハ、木ニテ植隠シ不見様ニ仕ル事専一之儀也。茅屋杯ニ夕顔這掛リ候躰侘タル所ハ、路次之一景ニ用テ見ヘ候様ニ用ル見へ候様ニ構候事専用之心得也」と、よく似た文章がある。なぜ同じような内容が繰りかえされているかわからない。
              本圀寺の路地(原図は東京国立博物館蔵『日本の庭園』より転載)
イメージ 2  「聞書二」五に、「一  袖摺之松之事。内路次ニ無之テハ不叶也。」と、内路次に袖摺の松は不可欠との記述がある。続いて「植所ハ道通松葉ヲ蒔留ト石旦トノ間、シヤシヲ打土旦之中程也。左右ハ何方ニモ可植路次中程・・・」と植える場所の位置にまでふれている。そして、「袖摺之松トハイヘトモ袖ノ当通ニ枝之有之ハ悪シ」とある。袖摺之松の枝は「人之頭ノ上ニ枝付タルハ不能也」と、袖摺とは言っても、本当に袖にあたってはならないということらしい。ではなぜ「袖摺」と呼んだのか、理由がよくわからない。この件について、田中は「聞書」を捕捉するように、「茶譜によれば、織部は見付ノ松というのも植えたといっている」と『日本の庭園』に書いている。また、「秀吉が島津を攻めたとき、筑前に陣した。このとき箱崎陣所で茶会が催されているが、この路地の中に『外ニクグリヲハイ入ッテ、トビ石アリ、箱松ノ下ニ手水鉢有り』(宗湛、天章15・6・19)とある。箱松と称されているのは、この袖摺松に当たると考えられる。したがって織部より以前からなくはなかったが、織部が袖摺松を推進したという伝えは信じても差支えるまい。」とまで捕捉している。では、織部は内路次に本当に「袖摺之松」を植えたのであろうか。織部が作庭した路地も図面も現存していないので、代わりに織部好みとされる本圀寺の路地(原図は東京国立博物館蔵『日本の庭園』より転載)を見てみよう。図には、外路地に「見付ノ松」とも思われるマツは描かれているものの、「内路次二無之テハ不叶也」と書かれた、なくてはならぬ「袖摺之松」は見当たらない。                                                                                  イメージ 1 柑橘類の実は非常に目立つ
  根拠のよくわからない記述は、その後も「松ニ五葉ヲ植事」「木ヲ多植込事」「内外路次之植心得之事」「内外路次ニ作木植事」と続く。中でも理解しがたいのは、前記した「内外ノ路地ニ常盤木ニテモ、実ノ付ケタル木ハ惣テ植エズ。・・・」の文である。「実之付ル木ハ惣テ不植」として「楊梅・枇杷・柑橘・柚・蜜柑・久年母杯可可植也」と例外を示すが、どのような基準で例外を選んだのかわからない。さらに、「内路次ニ茶之木、深山櫁植候也。花咲木ハ内外ノ共ニ不植也候得共、茶之木可植所ハ何方ト成トモ下木ニ植ル。深山櫁ハ花ハ無之赤キ実生ル也。・・・」についてだが、「茶之木、深山櫁」にも花はある。目立たない木を選んだと考えるには、花に加えて芳香が高い「柑橘・柚・蜜柑・久年母」の柑橘類を選んだ理由もわからない。
  織部らしい植栽として「唐木」がある。「一  内外路次ニ唐木ハ何モ植ル也。葉のヲツル木成トモ可植、唐木ニハ実生侯モ植也。花咲テ此花数寄ニ出シテ其後実之生候木ナラハ唐木成共不可植也。
一  花之咲唐木之事。チイサキ不掛目花ナラハ可植、大成花咲木ナラハ唐木成トモ不可植也。
一  内外之路地相生之木、又何本モ生出タル木可植也。又真ヲ切留ル事何之木ニテモ不苦。但何本モ植事ハ悪ツ。大方真不切留ノ能キ也。」
  「一  内外之路次枯木立置事。一重路次ナラハ勿論内路次ニ立ル、外路次有ハ是ニモ立置テ吉。」  「一  内外之路地ニ棕櫚・蘇鉄可植也。」と続く。
  要は、花の目立たず、趣の変わった木であれば、植えても良いということのようだ。なお、「唐木」の説明を、『古田織部茶書』(市野千鶴子)の中で「南アジア産の硬木のこと。紫檀、黒檀、鉄刀木などをいう。」としている。しかし、気になるは、例としてあげられた樹木は、雪の降る日本では生育できないことだ。だとしたら「棕櫚・蘇鉄」以外にどのような樹木を「唐木」ととらえたのであろうか。もしあったとすれば、実際に植えた実例はどこにあるのだろうか。さらに、「唐木」は植えて良いと言っているのに、唐木である「棕櫚・蘇鉄可植也」は、別項を立てて言及しているのはどういうことなのだろうか。それなら当初から、棕櫚や蘇鉄と書けば済むはずである。
  『古田織部伝書』には、「植木の取り合わせ、其の時どき相替り侯。長旦(短)の木の様子之事は、時の公(巧)者(この方面での当世の熟逮老)にもたずね、人のめ(目)によく候えば、上手にて候。少習にかかわらず候(学習の不足は関係がない)。」とある。この書によれば、植栽は定まったものがあるわけでないと言う。状況に応じて、専門家の意見を聞いて、植栽することを薦めている。『古田織部伝書』と『古田織部正殿聞書』のどちらを信じるに足るか、判断できかねるというのが正直なところである。