江戸時代の椿 その5

江戸時代の椿  その5
 
「ツバキ」の語源
  これまでに、江戸時代に入ってからの百年間に書かれた、ツバキに関する資料を紹介した。紹介するにあたっては、なるべく誤解の生じないよう、また、先入観を持たれないようにと心がけたつもりである。しかし、私がここで紹介した資料も、元を辿ればそれ以前に書かれた資料を基にしたものであるから、当然何らかの方向づけされていると考えるべきである。特に、伝承に基づく資料は、資料としての取り扱いが難しい。それは、伝承はたとえ嘘のような話であっても、根拠なしには容易に否定ができないもので、どうしても肯定的になりがちである。そして時間が経つにつれて、その話があたかも絶対的な真実であるかのように、一人歩きを始めてしまうことがあるからである。
  私も当初、ツバキについて、折口信夫の「椿」に関する記述をそのまま信じてしまった。深い洞察力によって考察された「椿」は、こちらの心に瞬く間に浸透し、瞬時にして真実だと思い込ませるほどの説得力を持っている。しかし、長年にわたって、他の人の資料を見ているうちに、必ずしもそこまで断言しきれるのであろうかという疑念が生じた。折口は、おそらく当初から植物学的な検証をするつもりは、あまりなかったものと思われる。彼の関心事は、主として民族学的な霊についてであり、その視点からツバキを論じているのであろう。
 ちなみに折口の記述を示すと以下のようになる。「日本でいふ椿の花は疑ひもなく、山茶花の事である。海石榴と書いて居るのが、ほんとうである。椿には意味がある。大和にも豊後にも、海石榴市があった。市は、山人が出て来て鎮魂して行く所である。此時、山人が持つて来た杖によつて、市の名が出来たものである。椿の杖を持つて来て、魂ふりをした為に、海石榴市と称せられたのであらうと思ふ。豊後風土記を見ると、海石榴市の説明はよく訣る。
椿の枝は、近世まで民間伝承に深い意味があつて、八百比丘尼の持山り物とせられてゐる。八百比丘尼はよく訣らないものであるが、室町時代には出て来て居り、其形から見ると、山姥が仏教的に説明せられたものに違ひたい。何時までも若く又は、死たぬ長寿老で、熊野の念仏比丘尼が諸国を廻つたものと、山姥の考へとが結合したものである。山姥は、椿の枝を山から持つて来て、春の言触れをするのである。春の報せには、山茶花は早く咲くから、都合のよい木である。即、山姥が、椿でうらを示したのである。
口から吐く唾と花の椿とは、関係があつて、人間の唾も占ひの意味を含んでゐたのは事実だ。つはづばの語根であり、つぱきである。椿がうらを示すもの故、唾にも占ひの意味があるのだらうと考へたのである。どの時代に結合したか訣らぬが、時代は古いもので、に占ひの意味が含まれてゐる。だから、椿と言ふ字が出来て来る。春に使はれる木だから椿の宛て字が出来た。私は、椿の古い信仰は熊野の宗教に伴うて残つたものではないかと思ふ。熊野の男の布教者は、梛をもつて歩き、女の布教者は、椿をもつて歩いたのではあるまいか。此は、私の仮説である。とにかく、山人が椿の桙を持つて来たから、海石榴市である。」と「花の話 五」(『古代研究』民俗学篇1)の中で述べている。
  「ツバキ」の命名については、『花譜』を書いた貝原益軒によれば、「アツバギ(厚葉木)の上略(「あ」を略)したもの」と『日本釈名』(1699年)にある。また、『古今要覧稿』(1821年)には「つやば木(艶がある木)の中略(「や」を略)とある。折口の語源と異なる見解は、他にも複数存在する。折口の語る「椿」は、彼の論理展開の中では矛盾なく成立し、彼の世界観を理解する上でのツバキなのであろう。
  ツバキは、名前一つとっても、様々な観点から様々な説が乱立しているというのが実態のようだ。どの説も、完全に否定はできないし、いくつもの異なった説を前提に次の説を展開するから、後の人々は混乱させられるのである。これまで(その1~4)紹介してきた17世紀に作成された「ツバキ」関する記述は、信頼性という点からは問題が少なくない。そうしたこともあって、「ツバキ」に関する記述をなるべくそのまま羅列して示したのである。
 したがって今後紹介する「ツバキ」に関する記述も、原則的には原文に近い形で示すことにする。ただ、伝承的なものについては、「ツバキ」の理解に必要と思われる場合のみ示したい。なお、「八百比丘尼」に関するようなツバキの話は、現実のツバキとは異次元なものと言わざるをえず、その見極めは付けた上で紹介してゆきたいと、考える。
「椿」「ツバキ」の地名
  また、ツバキに関しては様々な記述や伝承が溢れているため、植物とは直接関係ないのに「椿」の文字が使われることが少なくない。その典型的な例が地名である。日本には、「椿」「つばき」など表記の別はともかく、ツバキに関連する地名が数多くある。地名は、そもそも大昔から言い習わされて続いているもので、いついつに誕生したということは大半はわからない。たとえ命名に関する由来が残っていたとしても、近年のものはともかく、大昔からある地名で、その根拠が正確に成文化されている例は、めったにないと思われる。
  ツバキに関連する地名は、たとえば「椿森」や「椿沢」という名称がどのような経緯でそう呼ばれるようになったか、わからないものがほとんどである。だから、地名に「椿」や「ツバキ」の文字が使われていても、必ずしもその場所にツバキが生育しているとは限らない。とは言っても、以前にはツバキと何らかの関連があったことは確かであろう。そこで、「椿」や「ツバキ」が使われている地名を調べてみた。
 椿の含まれる日本の地名(字以上の)は、インターネットで検索(goo地図を使用)すると、38都府県に存在する。列挙すると、青森県4件・宮城県6件・秋田県14件・山形県4件・福島県12件・群馬県1件・埼玉県2件・千葉県3件・東京都1件・新潟県4件・富山県1件・福井県1件・山梨県3件・長野県1件・岐阜県3件・静岡県1件・愛知県38件・三重県2件・滋賀県4件・京都府10件・奈良県5件・和歌山2件・島根県1件・岡山県1件・山口県8件・徳島県2件・香川県1件・愛媛県1件・高知県1件・福岡県4件・佐賀県1件・長崎県4件・熊本県5件・大分県3件・宮崎県3件となる。
  ちなみに、存在しない県は、北海道・岩手・栃木・神奈川・石川・福井・鳥取・鹿児島・沖縄の1道、8県である。北海道にはツバキが生育しないから、地名にもツバキが出てこないのないことは十分理解できる。同様の理由で沖縄も例外である。さらに、海岸のない栃木県もツバキが自生していなかった可能性はあるだろう。しかし、少なくても他の6県には、ツバキが存在しなかったということはないと思われる。
 次に、「椿」「ツバキ」の付く地名は、検索すると159件も出てくる(2012年6月時点)。なお、秋田県秋田市の雄和椿川・雄和椿川奥椿岱・雄和椿川前椿岱のように明らかに重複していると思われる地名を除くと、150程度となる。その地名を紹介すると、ツバキ・玉椿2件・前椿・椿野・椿下5件・椿39件・並椿・椿山4件・椿川2件・椿岱・上椿2件・椿森2件・椿沢14件(椿ケ沢・椿澤)・椿台2件・椿境・椿出・椿舘3件・椿立目・椿坊・椿田2件・小椿2件・椿平・国崎椿・椿尾2件・椿坂3件・椿新田・椿草里・椿峰・椿原(椿ノ原)13件・椿立2件・椿市・上椿・下椿・椿ケ入2件・大椿・椿クゴ・椿薮・椿北屋敷・椿東・椿南屋敷・椿キ・椿代・椿廻間・椿一宮・椿世・椿野台3件・椿灰谷・中椿・椿谷2件・椿井4件・薗椿・大家椿・椿高下・椿瀬・椿東2件・椿ケ丘(椿が丘)4件・北椿・椿泊・椿堂・椿黒・椿手・姫椿などとなる。
 最も多く付いているのは椿で、全国的に広がっている。次いで多いのは、椿沢、椿原となる。愛知県には椿の付く地名が最もたくさん存在していて、中でも椿沢という地名は10件にものぼる。また、たぶん多いだろうと想像される京都府にも椿の付く地名は10件あり、その6件が椿原である。このようなツバキと関連する名前の付いている場所には、おそらく過去にツバキが生育していたのだろうと思われる。だが、単純にツバキが存在していたという理由だけで、その土地の名前に「椿」を付けたとするなら、もっと全国に均等に広がっていても良いのではないかという疑問が出てくる。なぜかはわからないが、以上、地名の分布には、かなり偏りのあることがわかる。ツバキの木があるから付けたというような、単純な理由だけではないような気もしてくる。         大田区椿神社
イメージ 1 地名に限らず物事に名前を付ける際には、様々な要素が考えられる。たとえば、椿神社愛媛県松山市)、椿大神社三重県鈴鹿市)など椿を冠する名前がいくつもある。近い所では、東京都大田区にも椿神社がある。子供の頃、ここにツバキの大木があったとは思えないのになぜだろう、と不思議に思った記憶がある。もしかしたら、以前はあったが空襲で焼けてしまったのかもしれないとも考えた。ちなみに、当社の由緒には「風邪、百日咳、喘息等にかかると、境内の額堂に奉納されている麻を借り受けて、病人の首に巻くと咳が止まると言い伝えられ、病気が治ると、祈願者は新しい麻を奉納するという現世利益的な習俗が行われている。
  しかも神社であるのに、祈願者は社前に線香を供えるという神仏混交の習俗が、今なお存続している例として興味深いものがある。
 イメージ 2 また足の病気が治るよう祈願して、ワラジを奉納するものもあったという。
  神社の祭神は、猿田彦命とされているが、本来は道祖神(道や旅人を守護する神)をまつったもので、土地の人は『ドウソジンサマ』『ドウロクジンサマ』と読んできた。」(大田区教育委員会)とある。
  大田区椿神社と、椿との関連がどこにあるかといえば、三重県椿大神社(つばきおおかみやしろ)という猿田彦に関連する神社に由来がある。そこで、椿大神社の「創始の由来」を見ると、「・・・天孫瓊々杵尊』降臨の際、猿田彦大神、天の八衢に『道別の神』として出迎え、風貌雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峰に御先導申し上げ、肇国の礎を成したこの大神を、後に倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓に『椿(道別)大神の社』として奉斎することになったのは、まことに神慮によるものと言うべきでしょう。」(椿大神社ホームページ)とある。
  これで、猿田彦が「道別の神」「道しるべの神」「道祖神」と関係があることはわかったが、肝心の「椿」との関係はよくわからない。「道別大神の社」は、垂仁天皇27年(紀元前3年)に社殿が造営されたことに始まるとされる。この話が信頼に足るとすれば、創建時に「椿」という文字は、植物のツバキを意味していない。たとえば、万葉時代以後にでも、「椿大神社」と命名されていなければ、「椿」=ツバキではない。また、「仁徳天皇の夢に「椿」の字が現れたため、社名を改めた」ともあるが、この時点(3世紀)でも「椿」はツバキを意味していないはずだが。なお、「椿神社」は当初「都波岐神社」であったという話もあるが、何時、何故「椿」に変わったかその経緯はわからない。
  もっと調べればさらに異なる見解が出てきそうだが、話を大田区椿神社に戻すと。椿神社は、必ずしもツバキの大木があったとか、植物のツバキに関連性がなくても、「椿大明神」を祭る「椿神社」ということで「椿」が付いていると考えることもできる。文献による研究は、どうしても「椿」「海石榴」という文字に捕らわれやすい。「椿」や「海石榴」という文字を頼りにして推論することは、植物のツバキとの関連性の可能性を追求する上では必要ではあるが、混乱する恐れが高い事も考慮しなければならない。
 そこで、今後も「椿」ついての史料を紹介するが、学術的な検証がなされていないものも混じっていていること、今一度お断りしておきたい。