江戸時代の椿 その13

江戸時代の椿  その13
これまでの記述について
  1600年代(慶長年間)からツバキに関する書を中心に追って、1800年まできた。まだ探せばいらでも出てくるだろう、ただ、手持ちの資料に加えるには、新たな調査をしなければならない。並大抵の仕事ではないと思うので、いささか二の足を踏んでいる。たとえば、『椿図譜  迷宮案内』と題するホームページには、「椿花図譜 品種名相関表 重複数順」という表が掲載されている。そして、その表を見るとまだ他にいくつかの資料があることがわかる。
  これまで示したツバキに関する記述を整理すると、最も多いのがツバキの品種・種類について(図を含む)、次いで名前の由来・性質、栽培や植栽などの技術について、その他として名所や生育地などがある。
・品種・種類
  ツバキの品種名を記したものとしては、『慶長見聞集』『武家神秘録』『百椿図』『隔蓂記』『草木写生』『草花魚貝虫類写生』『花壇綱目』『花壇地錦抄』『増補地錦抄』『廻国奇観』『和漢三才図会』『広益地錦抄』『百花椿名寄色附』『地錦抄附録』『本草花蒔絵』『花彙』『宴遊日記』『聚芳図説』『椿花形附覚帳』などがある。これらの品種について、分類学的に見れば、必ずしも別の品種として認められないツバキ、偶然に生じたと思われるようなツバキなども含めて、実に様々なものが数多く記されている。これだけ多くのツバキが存在したということは、ツバキを愛する人が大勢いたという事実を証明するだけでなく、当時の人々のツバキに対する熱意や情熱まで伝わってきて感心させられる。今後も、『椿図譜  迷宮案内』のような分析が行われると思われるが、江戸時代のツバキについて、すべてを解明することは困難が伴うだろう。しかし、見方を変えれば、後世のツバキを愛する人たちに、謎解きのような楽しみを残してくれたことになるので、この点には感謝したい。
・名前の由来・性質
  ツバキの語源や由来については、『慶長見聞集』『花譜』『校正本草綱目』『大和本草』『和漢三才図会』『地錦抄附録』『庶物類纂』『植物の種』『大和本草批正』『来禽図彙』などにの書物に記されている。「ツバキ」という名の由来、「椿」という字については、いくつもの考察があるものの、決定的なものはない。これらの書は過去の史料に忠実で、明治時代以降のような踏み込みすぎた推測がない。また、「八百比丘尼」のような伝承的な話はなく、背後にツバキを神聖化するような考え方も強くはない気がする。
・栽培や植栽技術
  技術的な記述は、『時慶記』『隔蓂記』『花壇地錦抄』『大和本草』『和漢三才図会』『宴遊日記』『大和本草批正』『譚海』などにある。挿し木や接木、植栽に関する技術は、現代にも通用する内容である。ツバキの栽培技術はかなり高度なレベルにまで達していたが、新しい品種を生み出すことに関する記述はない。そのため、誰がどのようにして、新品種を作りだしたかはわからない。
・その他の記述として、ツバキの流行、ツバキの名所、茶花や油としての利用など、多岐にわたって記されている。
 
花の名前について
  1800年までのツバキに関する記述で最も注目するのは、「椿」「海石榴」という表記である。当時の人は、ツバキの語源に関心があったようで、かなりこだわっている。それに対して、現代の人は、花の名に対しそれほどこだわりがないというか、やや無神経とも感じられる。
花王」といえば、中国ではボタン。日本では、近年、サクラを指す傾向が強くなっているが、それでもボタンであると、主張する人も少なくない。どちらが正しいのかと聞かれても、簡単に答えることができない。何を知る目的で「花王」のことを聞いたのか、前提条件によって回答が異なるためである。ただ言えることは、どちらであるとも、絶対的には決められないということ。それは、その時代の趨勢に左右されることであり、言葉は、時代と共に変わるものだからである。
  植物名も時代によって変わっている。たとえば、明治時代には「天竺牡丹」「天竺葵」と呼ばれていた植物、これが何のことかわかる人は、今ではそう多くはないと思う。現在では、ダリア、ゼラニュウムと言うように、名前の呼び方は変化していく。さらに、「朝顔」は平安時代にはキキョウを指しており、江戸時代でもアサガオは「蕣・牽牛花」と表記されるのが主流であった。だが、時代が経つにつれて、アサガオは「朝顔」と表記されることが多くなって、その書き方や呼び名が広く浸透していった。
  そう言えば現代では、「月見草」といえば、オオマツヨイグサのことだと思っている人が多い。本物のツキミソウを見る機会が少ないことも、理由の一つであろう。たかが花の名前で、目くじら立てるなと言われそうだが、やはりこの点については、どこかできちんと訂正して、認識を改めておく必要があると思う。
  もちろん、「花王」がボタンてあろうとサクラであろうと、また、テンジクボタンと呼ぼうとダリアと呼ぼうが、その時代に生きる人々の意見で決めれば良いことだとは思う。しかし、植物名取り違えや、名前の語源については、通俗的に通っているからと、そのまま放置することはできない。特に、大勢の人に発信する役割を充分もつ雑誌やブログでは、根拠のない、出典不明の情報を流すことは避けるべきである。
イメージ 1  近年、ツバキについて、様々な情報がブログに書かれている。“ブログは学術的な根拠など無用”と考えているのか、どこかで少し聞きかじったことを適当にアレンジして書く人が少なくない。それも、物知り顔で、いい加減な受け売り知識をを広めているのだから、悪気がないとしても迷惑なことだ。たとえば、乙女椿、オトメツバキは新品種として何時ごろ生れたか、その初見や語源についての史料はあるのだろうか。史料に基づいた語源はまだ見たことがない。
  にもかかわらず、その花があまりにも美しいので、ある藩(家)から他藩(家)へ門外不出という「お止め」がかかり、同じ音を持つ「乙女」へと変わったという説がある。もっとも、肥後椿のように「ある藩」の名(肥後)が示されているならともかく、確固たる裏付けもないような話なので、通説との断りをするだけである。他にも、実ができないからという説や、桃色の可憐な花が純な乙女を連想させるからという説まである。このような、通俗的ではあるが、庶民にもわかりやすいエビソードを加えることによって、オトメツバキの普及が後押しされたことはあったかもしれない。
  しかし、話題になりさえすればそれで良いということではない。特に、ツバキの普及を願う人、文章を書くことによって報酬を得ている人は、金額の多寡に関係なく、あやふやな記述はやはり慎むべきだろう。
  そうした背景の元に、オトメツバキの初見を提案したい。オトメツバキがいつ頃登場したのかは、よくわからない。史料にある記述から見ていくと、私がこれまでに目にした中で最も早いのは、『宴遊日記』安永二年(1773)十二月廿九日「海石榴六鉢を買ふ(豊後・青白・眉間尺・丹鳥・釜山海・乙女)」ではないか。筆者の柳澤信鴻は、ツバキの名前を覚える目的もあって記録したのだろう。そこで、日記に出てくる6鉢のツバキを、これまで出された本から調べると、『百花椿名寄色附』に「豊後絞」という記述があり、豊後との関係がありそうな種と思われる。「青白」というツバキはよくわからないものの、「眉間尺」は現存(小石川植物園京都府立植物園等に)する。また、「丹鳥・釜山海」もよくわからない。「乙女」はオトメツバキのことだと思われ、1770年代には売買されるくらい普及していたのだろう。
以後、「乙女」の文字が現れるのは、文政十二年(1829)の『草木錦葉集』であろう。善右衛門白布乙女・無名宮田前立乙女・五三郎乙女・深忠乙女・佐橋出乙女の5種である。ただ『草木錦葉集』は、本のタイトルからもわかるように、注目する対象が花ではなく葉なので、花に関する図はない。オトメツバキについて、江戸時代の情報はこの程度しかないようだ。ツバキ全般についても、語源や由来など不明な部分がまだまだ多く、今後の研究に期待する、としか言えない。
 
ツバキの俗信
  植物に関する根拠のない俗信が一人歩きしている事例は少なくない。たとえば、「武士はツバキを不吉だとして嫌った」というもっともらしい話は、かなり知られている。江戸末期以降明治時代にかけて流布したものらしいと、時期まで断定している。ツバキに関する俗信はいくつもあるのに、その一部しか、それも周知のような見解にしている。『日本俗信辞典』(鈴木堂三)には、ツバキの俗信が14例書かれている。その中に「忌む理由として、首が取れるように花が散るため(千葉・東京・山梨・長野・岐阜・富山・和歌山・岡山・広島・鳥取・愛媛・熊本)とする土地が多いが、群馬県勢多郡北橘村では、ツバキはお寺の木だから家に植えるな、といい、東京の町田市でも同様にいう。また、長野県更級・埴科郡ではツバキは墓に捧げる木だからといって忌む。霊樹としてツバキの古木を神木とする神杜は各地にあり、また、寺院や墓地などにも多く見られることから、屋敷内に植えるのを忌んだものであろう。特に、江戸時代、武家の間では不吉な花として扱われたとするのが通説だが、江戸初期には貴紳の間でツバキの変種のコレクションが流行して図譜の類も種点作られた。徳川秀忠も愛好家の一人であり、首が落ちるなどといって嫌う風潮の生れたのは、後の事と考えられる。」とある。
  ちなみに、この辞典には、「江戸末期以降明治時代」という文言はない。以前、気になって、幕末から明治時代にかけて、そのような俗言が記録されているか調べてみたことがある。拙著『江戸庶民の楽しみ』『明治東京庶民の楽しみ』を書く際にも、再調査してみたが該当する史料は見つからなかった。今も『日本俗信辞典』(1982年)以前に書かれた書物がないかと、探している。そもそも、存在しないことを証明することは、存在することを証明するよりも困難だ。1982年以後に出された本にも同様な記述はあるが、大半がこの辞典を出典にしている。俗信など信じない人が多くなった現代でも、ツバキの俗信を知って、庭に植えたり、鉢植を買うのをためったりする人がいる。せっかく「ツバキの博物誌」と題して、人々の関心をツバキに向けようとしたのに、結果的には、ブレーキをかけてしまった。これは非常に残念なことである。根拠もなく植物を忌み嫌うような俗信は、たとえそれが世間一般に広く流布していることであっても、安易に書くべきではないと思う。