江戸時代の椿 その8

江戸時代の椿  その8
★1730年代(享保~元文年間) 『地錦抄附録』『続江戸砂子』『本草花蒔絵』の椿
・『地錦抄附録』
 享保十八年(1733)、東武江北染井・伊藤伊兵衛は、『地錦抄附録』を刊行した。『花壇地錦抄』や『広益地錦抄』から漏れた花卉と薬草を中心に収載したものである。ツバキは図と共に6品掲載されている。「朝鮮椿(てうせんつばき)・阿蘭蛇白椿(おらんだはくつばき)・鹿児島椿(かごしまつばき)・玉柏椿(たまがしはつばき)・阿蘭蛇紅椿(おらんだこうつばき)・朝霧椿(あさぎりつばき)」の6品のツバキが紹介されている。
 その他のツバキに関する記述とて、「△延宝年中渡ル品々
唐椿(タウツバキ)・朝鮮椿(テウセンツバキ)・柊椿(ヒイラギツバキ)
今植るいろいろの花椿は和朝にて出来たる物が大和本草に天武の御時白花の椿を貢す寛永の初めより紅白ひとへやゑ品々出来す烏丸光広卿の百椿図席に此頃世に品多く出来たりと書りとあり唐椿は延宝に来る」とある。
  また、「椿樹(きゃんちん)  和本草に近年小幡万福寺に中華より来る近年伝へ植て所々に多し其葉枝に付て両対す葉の正中の筋赤しこれを食へば香気あり花なく実なし其木直なり其根より苗多く生ず甚繁長しやすし数年の内大木と成る広地に植て薪材とすべし荘子日有大椿云者以八千歳為春八千歳為秋也又口此木削りて木目よく器材とすべし本邦に古来椿(ちん)をつばきとよみあやまれり順和名抄に椿(ちん)を誤てツバキと訓ずツバキは山茶花(さゞんくわ)なり椿にあらずと又山茶花の条下にても再三論なへども最早本朝にては諸国共に花あつく蕊茶莞のごとくにて春三月花開くを椿(つばき)といひ花ひとへふたへにて葩うすくひらつき黄しべいとのごとくなる八九月花ひらくを山茶花(さゞんくわ)といひならはして椿をさゞんくわといふ人なし今改て何の益あるまじ別して害にもなるべからず和本草の椿の木は近年来るゆへ人の言語を当て書きたる・・・」(編輯  京都園芸倶楽部『地錦抄附録』より)とある。
 
・『本草花蒔絵』                                                                  玉川cibaさん提供
イメージ 1  元文四年(1739)、伊藤樹久(政武か?)はこれまでの自著をまとめて刊行するため、その手書きとして書かれたものが、『本草花蒔絵』である。その中に、椿が100種紹介されている。なお、『本草花蒔絵』の実物はもちろん、写本等も見ていないので、秋山伸一の「豊島区立郷土資料館研究紀要第14号」「伊藤伊兵衛政武著『本草花蒔絵』の基礎的考察[上]」より転載する。「太郎冠者  三室山  横川  御所車  白菊  基石  南蛮星  白獅子  稲葉  花車  礒枕  淡路島  星牡丹  無双  珍花  水車  深山木  東明  六角白  巴  淡雪  渡守  鹿村  菊左良佐  鶏了  音羽山  鳴渡  金杉三階  行幸  豊後絞  鴇白  錦絞  乱拍子  雲井  松風  菊蠋紅  一筋  志也武呂  発煩  松島  柊椿  濃紅  宰府  飛入  阿蘭陀白  白蓮花  通千鳥  八代  阿蘭陀紅  荒獅子  蠋紅  唐糸  侘助  高倉  峰嵐  春日野  細波  翁左良佐  紅葉  加平  限  襖波  珠簾  薄紅葉  卜伴  紅鹿子  乱鹿子  本間絞  杜鵑  頳縮緬  玉川  紋錦  金水引  白鷳  星車  韋駄天  口紅  紅鶏子  四階波  白珍花  平吉  白雁  八重源氏  緋蓮花  唐子  隅田川  雷雲  大縮緬  鹿子島  朝鮮  十輸  唐椿  富士雪  邂逅  金鶏  染小袖  数奇屋  玉手箱  有川  小町」となる。
  なお、『本草花蒔絵』のツバキは、前出『本草本草花蒔絵巻の十五  百花椿色付』と大半が同じである。異なるのは「唐獅子・白巴・美奈茂登・角田川・富士の雪・錦鶏」の替わりに「宰府・飛入・巴・隅田川・富士雪・金鶏」が入っている程度である。    
  また、『花壇地錦抄  二』「椿のるい(木春初中)」に記されたものを示すと、「横川  御所車  白菊  南蛮星  稲葉  淡路島(あわじ嶋)  珍花  深山木  巴(ともえ)  淡雪(あわゆき)  鹿村  音羽山  鳴渡  錦絞  乱拍子  菊蠋紅(菊しょっこう)  一筋  志也武呂  白蓮花  通千鳥  八代  阿蘭陀紅  唐糸  侘助  春日野  紅葉  加平  乱鹿子  本間絞・玉川  紋錦  金水引  星車  韋駄天(いだてん)  口紅(くちべに)  平吉  八重源氏  緋蓮花  雷雲  十輸  富士雪(ふじの雪)  有川(ある川)」のような種類がある。
 
・『江戸砂子』『続江戸砂子』
  『江戸砂子』は、享保十七年(1732)に刊行された、寺社や名所などを紹介する江戸地誌である。これは好評を得て、3年後(享保二十年)に『続江戸砂子』が出版された。『続江戸砂子』には、名木類聚、四時遊觀などが掲載され、椿についても記載がある。「名木類聚」の「雑樹ノ部」に「○椿山の椿  牛込  一本にあらす」とある。次に「[増](『江戸砂子』に加えたとして)三股椿  牛込宗参寺にあり  根より四、五尺過て三方へひらく  五、六丈の大椿也
  [増]沙羅双樹同宗参寺にあり  」。
  「四時遊觀」に「○椿山 椿山  牛込関口の近処  水神の杜あり
  此山の前後、一向に椿なり  此所を向ふ椿山といふ  戸塚の内にも椿山といふあり  蓮花院と云  宝泉寺の持也」とある。
  それまで、ツバキについて記されたもの大半は、園芸品種が中心であった。それが『江戸砂子』『続江戸砂子』になって、自然の中で生育しているツバキが鑑賞対象として取り上げられるようになった。もちろん、それ以前にも自然界で生育したツバキの花を観賞することはあっただろうし、それを庭に植えた事例もあったに違いない。ツバキの園芸品種の中には、自然界で偶然生じたものが少なくない。ただ、それらを求めていたのは一握りの好事家たちで、一般の人々ではない。にもかかわらず、江戸の市井の人々にまでツバキに対する関心が広がったり、鑑賞スタイルも「椿山」というツバキが群生した場所を遊覧するようになった。これは、当時においては、非常に画期的なことである。
  また、三股椿似ついては、五、六丈(一丈は約3m)という大木、多分そんなに大きなツバキが本当にあったとは思えないが、かなりの古木であろう。このツバキは、自然に生育したというより、誰かが寺の境内に植えたものに違いないだろう。それも、一本ではなく三本が合体したものと思われることからも、植栽したものだろう。それにしても、かなりの年月が経過しているに違いない。
 
イメージ 2・『250年前の植物群像』
 『250年前の植物群像』(筑波書林)は、享保二十年(1735)現在の土浦市東崎町に産する植物を記した日記から、59科157種の植物を紹介したものである。なお、日記は、「諸国物産調査報告書」の控えであるらしい。その中に、右図のようなツバキの記述がある。ツバキを「椿」ではなく、「つ者゛き」と表記してある。
 
・1737年、イギリス・サセックス州のロード・ピーター邸で、ヨーロッパで初めて生きたツバキの花が見られた、との話がある。(出典『ガーデンライフ』「ヨーロッパとアメリカのツバキ展望」加藤要)どのようにしてツバキを入手したかは不明。