十七世紀前半の茶花・古田織部正殿聞書の検討

茶花    9 茶花の種類その6
十七世紀前半の茶花・古田織部正殿聞書の検討
  十七世紀(慶長年間)に入ると、茶花の種類は少しずつ豊かになり60種を超えた。最も使用された植物が、ツバキとウメという事実に変わりはないが、その次の植物としてスイセンが多用されるようになり、逆に減ったのがキクである。この傾向についてはデータ数が少ないので、さらにデータを増やして検討する必要があるだろう。それでも、茶花の種類が変化していったことは確かで、フクジュソウオモダカサワギキョウタンポポエビネなど以前使用されなかった植物が増えている。
  この頃から茶花の種類が急激に増加したと考えられるのは、古田織部の影響によるところが大きいと思われがちである。確かに、『古田織部正殿聞書  古織公聞書巻之二  聞書五』には、「辛夷・茶山花(山茶花)・椿・五月躑(つつじ)・木瓜・木犀・梅・桃・梔子・小米外之花・海棠・三旦花・○桲(マルメロ)・小毬(コデマリ)・木蓮花・下野・芽張柳・独垂・ひやうの柳・沙羅双樹・桜・庭桜・菊・百合・萩・蓮・杜若・蜀葵・岩藤・石竹・撫子・山吹・月季花(テウシュン)・小蓮花・春菊・高麗菊・高麗百合・蕙蘭・桔梗・水仙・萱草・姫萱草・苠・芍薬・牡丹・草牡丹・浜菊・罌子・高麗芥子・竜胆・釣鐘・○薇・華鬘・連書・花菖蒲・るかう・紫陽花・小車・鉄線花・野菊・風車・朝顔・筑紫撫子・蒲公英・旋華(ヒルカホ)・菖蒲・鳳仙花・馬藺・小鳶尾・黄梅・丁子・鹿梨子・木槿・合歓木・樒・沈丁花・石榴・山桜・雁緋・金盞花・肥後薊・薊菜・芙蓉・藻塩草・深山樒・河骨・鶏頭花・女郎花・仙連花・仙翁花・葵・凌霄華・鬼百合・姫百合・瓜・前尾草(ミソハキ)・七重花・茄子・菜大根花・皆百豆・忍冬・荊棘花・苗香・人参・尾花・菫・白扁豆・覆盆子・天南星・葱・雪ノ下・石韋・紫苑・紅花・鳶尾・不角花・玉簪・馬酔木・蘇枋・毬・李・杏子・林檎・接骨木・朴花・桐・常山・沢潟・茶ノ花・根篠・蜜柑・柑子・楊梅・萩・芭蕉・蔦・松・竹・薄」(注・○はネットで表せない漢字)と139種が記載されている。
  これを見れば、利休の後を担った古田織部のこと、茶花においても織部らしく斬新な花をたくさん使用したに違いないと、後世の茶人は想像するだろう。確かに、『聞書五』には、花入についてはもちろん、花の活け方も詳細に解説している。したがって、記載されている茶花は、織部が茶会で関わった花だと考て当然だろう。ところが、『古田織部茶書二』の「織部茶会記」を調べると、茶花はわずかに18種しか登場しない。さらに、織部以前の茶会記に登場した花を数えてみても、50種程度しか出てこない。『聞書五』に記された茶花は、6割以上が新しい花である。織部以前の茶会の茶花を全て確認したわけではないから、多少の漏れはあるかもしれないが、それにしても半分以上もそれまでの茶会で使用されていない茶花が記されているという事は極めて不自然である。
そこで、織部以前の茶会記に登場しない花について検討してみることにした。たとえば、その中に「るかう(留紅)」がある。この植物がルコウであれば、ルコウの名が文献に最初に見つけられるのは、『資料別・草木名初見リスト』(磯野直秀)の初見リストによると、1645年に刊行された『毛吹草』である。さらに、渡来植物である「小毬(コデマリ)」は、『明治前園芸植物渡来年表』(磯野直秀)によれば織部(1544~1615年)の没後、1645年頃日本に渡来したとされる植物である。『聞書五』が本当に織部から聞いたことを書き留めたとしたら、これはあり得ないことである。
  「『聞書』という姿をとる書は、時に応じて師に尋ねたことを書き留め、整理したものである筈だった。」(『古田織部茶書一』解題より)と指摘されているように、『聞書五』は改変、さらには捏造された可能性もある。また、「小蓮花」はヒツジグサトチカガミかと思われる。ヒツジグサであれば、初見は『大和本草』(1709年)となる。さらに、「玉簪」が唐ギボウシではなくタマノカンザシであれば、初見は『地錦抄付録』(1733年)となる。『古田織部正殿聞書』の成立は、寛文六年(1666)とされているが、『聞書五』の部分だけが後で加えられたのだろうか。『聞書五』の内容もさることながら、織部から聞いたということ事態が疑わしくなる。
  織部の時代以後、茶花の種類が再び増加するのは1620年代である。『小堀遠州茶会記集成』(1625~1646年)や『松屋会記・久重茶会記』(1604~1650年)には新たな茶花が記されている。クチナシフクジュソウキスゲコウホネ・アヤメ・オモダカ・ラン・キンポウゲ・エビネと、9種の初見が認められる。1630年代にはテッセン・アオイ・アジサイサワギキョウと、4種増えている。なお、1640年代はタンポポとシャガの2種であり、以後も徐々にではあるが増加している。
十七世紀前半には、樹木が4種、草本17種合わせて21種の新しい茶花が登場した。この数は、50年間に新しく登場した茶花の数として、決して多いものとは感じられない。もっと多くの茶花が活けられていたと、想像したとしても不思議ではなく、そのような思い込みが『聞書五』を作成させたのではなかろうか。