自然破壊を黙認した学者たち

自然保護のガーデニング10
  自然保護に関心のある方には、ぜひ『天神崎』を読んでいただきたい。その『天神崎』の著者、中村豊秀氏との話で、意気投合したのは自然保護団体と学者についてである。『自然保護のガーデニング』は「自然保護団体の限界」の中で、以下のように『汚染された自然保護』を紹介している。
 関心のある方には、ぜひ一読をお勧めしたい。自然保護団体としての水準をうらなうものとして、ジャ-ナリストの平澤正夫氏は著書『汚染された自然保護』(三一書房)で次の四つの原則を設定している。
 ⑴人間よりも自然が優先する。
 ⑵シンク・グロ-バリ・アクト・ロ-カリ「地域で活動を行い、全地球的な規模で考える」
 ⑶企業と行政に近づかない。
 ⑷自然保護を生活の手段にしない。
 一般の人から見れば、ごく常識的なことであり、大半の自然保護団体では大前提として遵守している。ところが逆に、環境省から認可を得た大規模な自然保護団体の中に、こうした大原則から著しく乖離してしまった団体があるようだ。
 自然保護を旗印に活動していれば、誰もが、世の中のためになる清い団体だと思い込んでしまいがちである。が、日本には、理想どおりの活動をしにくい状況が横たわっている。自然保護運動を展開するには、資金と組織が不可欠ある。特に資金は、組織を維持するためにも必要で、いかに資金を集められるかによって自然保護運動の成否が左右される。そこで、企業から多額の募金を受け、さらには企業の有力者を自然保護団体の最高顧問にしてしまうようなことが起きる。そうなると、献金してくれた企業を批判するような運動は、むずかしくなってしまう。また、組織は、当初は善意の人々で結集されていても、時間がたつにつれて、主導権争いや内部分裂等、一般社会と同じことが起きる。それがまた、自然保護団体を巧みに利用しようとする大企業や行政等に、つけ込まれるすきを与えることになる。・・・以下略。

自然破壊を黙認した学者たち
 第二次世界大戦下の日本は、戦争遂行のため、1941年(昭和16年)材木統制法によって木材生産から配給まで国策会社等によってコントロールすることになった。戦争が激しくなると、軍需用の木材は増大する一方である。国は森林の持続的な生産を保つための植伐均衡(伐採する量と植林する量を等しくする)から、林力の許す(林が維持される)かぎりにおいて一定量の林産物を産出する方向へと進んだ。わかりやすく言えば、伐採可能な森林は、すべて切ってしまおうという考えであった。
 具体的には、1941年の伐採面積は68万ha(伐採材積が9396万㎡)で、前年より10万haも増加した。翌年(1942年)の伐採面積も増加し、76万haと国土(37万㎢)の2%に達している。にもかかわらず、伐採面積当たりの伐採材積は、前年よりも少なくなっていて、森林内の資源が枯渇していることがわかる。さらに、終戦の1945年には、それまでの最大値である85万haをも伐採したにもかかわらず、材積は前年の53%の5119万?と激減している。
  この戦時下の軍需用材の供出は、原木所有者の愛国心に訴え、自発的意思によるもので、強制、強要はしてはならない、また、社寺境内林、史跡名勝天然記念物は関係官庁の指示に従うとされていた。しかし、再三にわたる呼びかけによって、地域にある大木は供出せざるを得ないようなムードができ上がり、大木は次々に伐採されていった。象徴的なのは、恩賜公園である東京の井之頭公園のスギ林が2万本近くも伐採されたことである。ここに至って、例外も認められないせっぱ詰まった状況になったいた。が、それでも供出目標量には達しなかったとみえて、たびたび供出促進が発せられた。こうしたことから、当時すでに人里近くには軍需用材になる木は、ほとんど見られなくなっていたと想像される。
  さらに、森林からは、木材や松根油など軍需用物資にかぎらず、食用可能な多くの動植物が収奪された。北海道の新十津川村村誌には、犬や猫の毛皮まで供出したことが書かれている。当然、森林内の動物も数多く犠牲になったものと推測される。また、長野県の木島平村誌には、子どもたちがイナゴ取り、山菜採集、タニシ拾い、アソカ・カラムシ・ラミー採集と学業を割いて山に入る日が多くなったとある。このような供出は、森林を荒廃させ、災害発生や自然破壊につながることを、当時の人々は十分認識していたはずである。また、採るには取ったが、人手や施設も十分でないため無駄にしたものも多かった。たとえば、宮崎県の諸塚村史には、伐採された材木が放置されため、腐ったり、使えなくなったたりしたこと、松根油にいたってはドラム缶に入れたまま敗戦をむかえたことなどが記録されている。
 さて、戦争が終わったからといって、自然破壊が止まったわけではなかった。今度は、復興に必要な木材需要に応えるための伐採が行われた。まず、燃料不足を補う薪や炭のため身近な林が使われ、森林に残っている若い樹木も制限なく伐採された。また、一方では、戦後の社会混乱、たとえば農地改革の影響を受けて林野開放の可能性もあるという不安が、林家・林業者の造林意欲を著しく低下させた。そして、食料生産のため林地開拓が進められ、奥地の森林まで集団入植が行われ、森林の荒廃を押し進めた。
 木材需要は、薪・炭から、石炭・石油へと変わる燃料革命がはじまった1950年代に入っても、依然として旺盛であった。そのため、天然林を伐採したあとにスギ・ヒノキ・カラマツなどの造林木を植えるという拡大造林は、1959年から木材資源の増大を目指して進められた。木材価格が高かったのは1970年頃までであったが、木材価格が低下しているにもかかわらず続けられた。天然林を人工林に換える、この拡大造林は、日本の自然を著しく改変させた。特に、貴重な自然といわれるような植生が多数存在していた標高の高い地域では、カラマツが植えられために、動植物が絶滅したり、減少したりするなど、大きな影響を受けた。
 度々弊害が指摘されていたにもかかわらず事態がかわらなかったのは、国有林の独立採算制が原因であった。戦後、一時的な木材価格の高騰による利益を自分のものとしたいがために、国有林の利益を一般財源に入れないようにしたのが独立採算制である。国有林は日本の森林面積の約3割を占めている。国有林のある場所は、標高が高い地域に多く、一度伐採すると再生困難なところが多い。にもかかわらず、目先の利益に目がくらんでしまった。また、独立採算制にしたのは、荒れた山を再建するのに一般会計を使いたくないという国の思惑と、広大な国有林野に自分たちの利益拡大を確保しようという林野官僚のねらいが重なったためである。
  この無謀な独立採算制を維持するには、帳簿上の辻褄を合わせることが必要で、また、そのために、技術的な方策を提言し、具体化させていた学者たちが存在した。拡大造林についていえば、これはもう森林を木材としてしか評価しない研究の結果である、としか言いようがない。特にカラマツ植林については成長が早く、材積量が確保できるから植林するという短絡的な発想であった。カラマツに限らず、一樹種の植林を大面積に行えば、計算上の作業効率は良くなるかもしれない。が、日本の複雑な地形や土壌などに適応できないところも多く、必ずしも期待通りの成果があがるとは限らない、むしろ諸害に対する抵抗力が弱くなることの方が問題である。
 林学者たちは、なぜこのような日本の森林形態を無視した林業施策を支持し、もっともらしい研究を続けるのだろう。これも元はといえば、日本の森林環境と相入れない西欧の林学をそのまま取り入れてしまったからである。日本の林学は、ドイツの造林学を手本としたが、理論通りに森林は成育せず、現実にはあまり役に立たなかった。日本は、戦前にも天然更新という方法で、造林に失敗している。それにこりることもなく、戦後はまたカラマツ造林という誤ちを繰り返した。
 この林学における問題は、人間と自然が共存していた江戸時代からの森林を材木以外に見ようとしないことに起因している。近年、林学は、林産物より公益的な機能に対応すべく、学問形態を整える必要性が生じ、森林に関連する総合的な学問として再生することが求められるようになった。それによって、大学では、林学を自然科学的な分野に変更し、造林学は森林生態学というような名前に変更するところが相次いでいる。つまり、林学は生物学と似たりよったりの学問になりつつある。林学のもう一つの側面を完全に見落としてしまっている。それは、誰のために林学の研究を行うかということである。
 従来、国民の方向に向いていなかったことに、まだ気づいていない。林学が官学として成立し、その後も御用学問の域をでなかったことが今日の状況を招いたのだ。もし、林学の研究が、江戸時代からの森林施業を学び、零細な農林家や林業労働者からの視点を持っていたら、行政はもう少し違う展開を試みたかもしれない。また、森林地域の自然と人間の共存をめざしていれば、林業、林学も幅広い学問を望めたかもしれない。林学は、森林を木材としてではなく、自然として取り扱う新しい学問に生まれ変わりつつある。しかし、それでは、以前にも増して森林地域の社会や文化などを軽視し、林業問題の解決の糸口である人との関係さえも絶ってしまうことは明らかだ。