★天明一年秋・七月~九月

江戸庶民の楽しみ 59
天明一年秋・七月~九月
★七月
朔日○七時より(略)湯島へ(略)土物店通り湯島開帳にて賑し、鳥居前よりお清鄽へ行(略)暫休み帰る、心にいむ事有故聖廟ヘハ参らす、開帳場基熱閙、上へのほりしか開帳の容子ゆへ前路を帰る(略)肴店(略)六時奥口より帰る
十六日○暮前より珠成同道大観音へ(略)円通寺へ立寄額を見る(略)大観音拝し門脇水茶屋に休む、参詣賑なり、蒸気甚しき故裏門より出帰る、土物店より挑燈付、奥口より帰る
十九日○七時より浅草参詣(略)谷中通上野うち日長原凌雲院の北堤からたち垣植(略)車坂(略)孔雀屋へ米魚よせ、看板見せ(略)寺町北の道ハ水川の如く湛へ見ゆ、浅草賑也、直に参詣、御手洗へ鰻放し、伊勢屋に休む(略)山下にて花火かふ(略)車坂手前にて挑燈つける、車坂(略)首振坂下(略)六半過奥口より帰る
 七月には、『武江年表』によれば「七月朔日より、回向院にて、奥州外濱百澤寺岩本山三社本地彌陀如来観世音菩薩薬師如来開帳、○同日より、浅草玉泉寺にて、武州八王子本立寺祖師開帳、○四ッ谷南寺町眞成院鹽踏観世音開帳、○東叡山護國院、常念佛堂五萬日回向、○下谷徳大寺にて、中山法花經寺祖開帳、○七月朔日より、湯島社地にて、北野社司内安置天満宮開帳」などがある。信鴻も出かけた湯島の開帳は盛況であり、他の5開帳も賑わっていたのではなかろうか。
★八月
十三日○七ツ時よりお隆同道西原辺閑歩(略)表門より出、妙喜坂妙喜堂建立の容子、笠志鄽に休む(略)兼而平塚坂下の酒屋へ(略)飛鳥山へ(略)槌屋へ(略)彼処にて弁当つかふ、真初山へ遊に行(略)西原坂の上にて・お隆・甚三郎と駕に乗る(略)妙喜坂前(略)六半頃裏門より帰る
十九日○八過(略)浅草参詣(略)角伊勢屋脇より通筋水道通樋かかる故、町中を堀、塗悪き故、富土前迄漸々軒下をつたひ、谷中通り、山内屏風坂より下り、光厳寺参詣(略)御徒士町より弘徳寺前へ出、新寺町玉泉寺にて八王寺本立寺祖師開帳へ(略)縁起求め浅草御堂東辺の寮にて上州前橋妙安寺親鷲上人画像開帳拝す(略)御堂裏より裏門へ出(略)田原町角(略)戸繋伊勢屋に休み、薩埵参詣、御手洗へ鰻放し堂左三途の姥を見、三社わき聖天にて荒沢不動開帳拝す、神楽堂出来、太鼓の音かまひすし、仁王門内柳屋伝兵衛鄽(略)寺町(略)車坂門より入、首振坂下(略)千駄樹(略)暮過奥口より帰る
廿一日○九過(略)お隆全快願解鰻百放しに浅草参詣(略)角伊勢屋より土物店手前迄五所水道樋伏左右通行無障(略)湯島開帳へ行、霊宝数種・北野杜宇の絵馬見する、本杜廻り女坂より中町へ(略)春木町にて鰻買ハせ(略)山下鰻屋へ船津をよせ(略)三河屋に休む(略)誓願寺へ祈禱に(略)今日ハ寺内賑なり(略)薩埵拝す(略)御手洗へ鰻百はなし(略)芥子之助鉄輪切を立なから見る、伊勢屋に休む、鄽前江又猿屋母下(略)前路を帰る、光厳寺地蔵へ詣、屏風坂より入る(略)谷中通七ツ半前帰る
廿七日○九半頃よりお隆同道雑司谷へ願解に行、お隆ハ駕にて(略)和泉境駕ハ原町御家人町を行、予ハ横原町より行、猫また坂上にてお隆駕より下り同道(略)橋又二枚に成、坂上やきもちの姥か床机に休み(略)護国寺観音参詣(略)お隆と二十人にて百度、和泉屋へ行(略)お隆土産を買ひ(略)七半過同道起行、塗にて風車・茸にて作りし木兎買、護国寺本堂階に腰掛休む大学屋敷裏にて挑燈つけ、田畝風勁々尾花動揺、沙利場橋にかかり、坂上にて休み烟を弄し(略)真澄寺辺塗甚悪し、和泉境より六半頃帰家
 お隆の体調が良くなったと見えて、籠を使ってはいるが、十三日に西原辺へ出かけている。廿一日には、「お隆全快願解鰻百放しに」浅草へ出かけている。廿七日も、願掛けに雑司谷へ出かけている。信鴻の外出は、お隆のために行われているが、開帳などについても関心を向けて、七月から催されている開帳を覗いている。
 信鴻は、十九日に角伊勢屋の脇で「通筋水道通樋」の工事を見ている。「塗悪き」と掘り起こしをしているため泥濘が著しかった。この工事は、玉川上水から分水する千川上水である。千川上水は、玉川上水開設から40年も後に開かれたもので、小石川御殿(白山御殿)・湯島聖堂・東叡山・浅草御殿の四ヶ所の上水であった。ただ、この上水は、元禄九年(1696)に開設されてから、享保七年(1722)に一端廃止され、天明元年(1782)に再開されたものである。そして、再開にあたり、これまで神田上水が及ばなかった神田川以北の本郷・湯島・外神田・下谷・浅草々どの町々へも配水された。工事は、天明六年に再び閉鎖されるまで続くことなり、信鴻は以後も、九月三日「本郷通り通樋土物店辺より左右普請」、九月十二日「肴場より追分辻迄七所通樋を埋る所塗悪く」、九月廿五日「追分より木郷五丁メ迄通樋掘る所五六箇所」と記している。その後も、十月七日、廿二日、廿八日、不動前通樋掘直し塗悪し」など記している。
★九月
三日○九比(略)太師・浅草参詣(略)谷中通上野四軒寺町見明院太師参詣、往来の人下寺町の由云故屏風坂上迄行見れハ見明院賑ゆへ参詣、人叢難分大乱擾、裏門より入表門へ出、車坂より(略)太師茶屋(略)玉泉寺開帳へ立寄霊宝を見、立なから談義を聞(略)広小路に人立在(略)浅草甚賑し、伊勢屋へ休む(略)依而芳屋に休み(略)参詣(略)堂中群集、御手洗へ鰻放し榧八幡参詣(略)回向院にて開帳の津軽海より出現の玉中の仏像拝せんと並木を下る(略)萱町蕎麦屋へ(略)両国へ(略)開帳済たる由云ゆへ、引かへし薬研溝へ出、伊奈前より橋本町へ(略)新橋より北行、三絃溝加藤前(略)今日太師にて客多く乱擾ゆへ、蘭麺へ行に是又客多し、女坂よりお清鄽へ(略)聖廟立乍ら拝し西門より出(略)森田屋(略)本郷通り通樋土物店辺より左右普請(略)六過奥口より帰る
十二日○八半頃より湯島参詣(略)目赤前(略)土物店(略)肴場より追分辻迄七所通樋を埋る所塗悪く垣内を行、春木町森田や(略)霊雲寺大日堂・地蔵堂参詣、湯島辻へ出、聖廟へ詣、お清鄽に休む(略)女坂より下り(略)池端通りを帰る、茶屋に挿花大菊等会の札出る、瑞林寺表門へかかり領玄寺・末広稲荷参詣、祖君の交り玉ふ日亨上人の墓を見、瑞林寺内より谷中通、富士前にて(略)小菊かハせ、暮少前帰廬
十三日○四頃(略)六本木へ(略)土物店よりさすかい町(略)伝通院内寮の前より表門坂上より土峰(略)諏訪町よりとんと橋、牛込門外人を払ひ紀侯息女葬礼通る、番町通平河聖廟参詣(略)末の茶屋に休む(略)溜池端田町五丁目より檜館、六本木表門より入る(略)表門より出、飯倉より長井町光宝寺へ参詣、切通増上寺三島町神明北辻に中村の櫓上け(略)人群集ゆへ宇田川裏丁へぬけ神明参詣、人叢分難し、神宮壮麗甚厳然、拝殿の向ふ落間左右高欄・合天井美麗也、御杜を廻り落間へ入、甚群集(略)芝居覗等所々に在、悉巡見華(略)宇田河裏町より芝居町へ出、又新銭坐へかかり塩留より猿屋へ(略)五丁目橋(略)京橋(略)日本橋(略)今川橋に祭の屋台出し等在、爰より甚群集、祭の繰子若き者子共等装束にて行かふ、鍛冶町二丁メより北不残桟敷掛、祭の万燈出し等所々に在、神田井筒屋に(略)寄て休み(略)本多下館前(略)竹町通り(略)六半前帰廬
十七日○九半(略)浅草参詣(略)谷中通り山内平坂より下る、塗中神田祭の子ともけいこ等数多通る三河屋に休む(略)明大日世子御参詣の由にて道を作る、寺内群集、直に薩埵拝し、御手洗へ鰻放し、山内巡歩、伊勢屋に休む(略)前路を帰る(略)光厳地蔵尊へ詣、葬礼の様子故外にて拝す、屏風坂より入る、七半過帰廬
十九日○九半過よりお隆同道願解に(略)動坂植樹や治左衛門方へ行、待合する(略)植樹屋宇平次菊を見る、侍婦二三人菊を見る様子(略)上野中へ入り、屏風坂を下る、村尾ハ穴稲荷江舟津同道にて行、光厳寺参詣、本堂にて休息、位牌所迄見る(略)又屏風坂の門に入、車坂より見明院太師参詣(略)賓銭を盗たる者を樹に縛し由語る、清水参詣、山王へ行(略)太世子浅草御参詣ゆへ人行少し、常行堂前(略)感応寺内より行、日暮手前にて長髪の乞食坊主来、皆怖かる、佐くら屋へ休み、菜飯・田楽等云付、弁当(略)六過寺内門より帰る、甚三郎駕に乗る、奥口より六半比帰る
廿三日○四半時よりお隆同道浅草へ願解に(略)富士裏より(略)動坂植樹屋(略)屏風坂より下り光岩寺へ詣(略)位牌堂回向、暫休み(略)孔雀屋へ(略)塗にて白鼠うるを見る(略)御堂へ入石居を見廻り、本堂にて法談、聴衆五六十人群居(略)裏門へ出、浅草参詣多し、伊勢屋に休む(略)参詣(略)御堂橡を百度参、御手洗へ饅放し、三途川の姥を見る(略)芥子之助木綿にて浪を打せ紙を掌にて切る芸を見る、御堂うら廻り因果地蔵参詣(略)伊せ屋より(略)並木河内屋へ(略)池端へ出(略)清水門(略)首ふり茶屋にて立ながら茶を飲、六半比奥口より帰る
廿四日○七つよりお隆同道西郊閑歩(略)暫屋の菊を見、銀八路次より入菊を見、下女腰掛へこさなと敷、笠志茶屋に休む、客二三人在帰る、王子奉納の額たと有、雑菓子なと皆々喫、平塚参詣、観音拝し、坂下中里村植樹屠へ入休み、弁当開き雑菓子買ハせ、蕪菁・蘿葡貰ひ、幕時挑燈にて前路を帰る
廿五日○九過より湯島参詣(略)追分より木郷五丁メ迄通樋掘る所五六箇所、植樹を見、聖廟参詣、お清鄽にやすむ(略)植樹を見廻り小菊少求め、女坂より下り、池端町にて烟盆を見、池端へ出、護国院門に(略)直に参詣、清水門へ出、谷中開運大黒参詣(略)中町にて八の鐘聞へ、八半頃帰廬
 九月はお隆の健康が戻ったようで、8回も外出している。信鴻の関心は、開帳も然ることながら神田祭については、十三日と十七日に再度触れている。十三日は「祭の繰子若き者子共等装束にて行かふ、鍛冶町二丁メより北不残桟敷掛、祭の万燈出し等」、十七日は「神田祭の子ともけいこ等数多通る」など、江戸庶民が祭に熱を上げていることがわかる。『天明紀聞』によると「神田祭当日各所で喧嘩。湯島一丁目で同心が若い者に頭を打ち割られ、三河町では同心が群衆に大小を奪われる」と、記されている。神田明神祭は、それまでにないくらい賑やかであったと推測される。
 『武江年表』には「○九月晦日子刻、吉原伏見町一本江戸丁二丁目と有、より出火、一町の餘焼る、此度は假宅なし」とある。かなり大きな火事と思われるが、信鴻の日記には記載がない。特に、十月三日には浅草参詣に出かけているのに、火事に関することは何ら触れていない。