★天明一年冬・十月~十二月

江戸庶民の楽しみ 60
天明一年冬・十月~十二月
★十月
三日○九半より浅草参詣(略)動坂樹屋へ立寄、主婆こさを敷、橡にて烟を弄す(略)御本坊太師参詣、甚賑也、御殿見する(略)屏風坂上休所(略)光岩寺参詣、烟を弄し(略)直に参詣、御手洗へ鰻を放し、源水を立なから見、大宝殿極八幡拝し、仁王門下(略)因果地蔵拝し、伊勢屋に休み(略)広徳寺前(略)山下堤亭手前(略)山王下(略)三枚橋にて樹木をみ(略)小菊かハせ、蓬莱屋に挿花会在、今日太師にて甚熟閙、池端通り(略)瑞林寺(略)谷中辻(略)御鷹部屋(略)六比奥口より帰る
五日○九半よりお隆同道雑司谷参詣(略)沙利場の橋にかかり、大学脇姥か床机に休む(略)波切不動(略)護国寺女坂より上り、左脇観音堂拝し、本堂へ参詣、今日開帳、裏門より出、御嶽堂飾物を見(略)雑司谷大かい賑也、直に拝し、坂下にて鼡つかひ角抵取らせ、猫行司するを立なから見、寮の飾物見る、例の如し、本堂に羅漢角低のからくり有、皆見るに足らす、別当寮に鵜飼舟水を溢へ甚佳也、野道を和泉屋江行(略)前路を帰る(略)護国寺内(略)沙利場橋より西門へ入、六半前帰廬
七日○九前より上邸へ(略)白山前より礫川通、田附館(略)水道橋より猿楽町、鎌育河岸すきや町より八官町へ出、幸橋前(略)新道より(略)表庭を見、仮山水・菊壇等出来、持仏堂拝し、七過起行、新道帑蔵角(略)雄庵方へ立奇、山下門(略)中橋(略)聖堂前井筒やに休む(略)本郷(略)四丁メより六丁メ迄水道普請、本多館(略)六半頃奥口より帰廬
十四日○九時より雑司谷参詣(略)稲荷小路火番町より沙利場の橋坂下(略)姥か床机に休む、護国寺観音参詣、直に鬼子母神祠外にて拝す、参詣込合ハす浅草縁日程也、寮より本堂へ(略)鬼子母神堂右茶屋に少休む(略)御嶽角の寺の立花を見、門外の道より村外へ廻り、護国寺内より帰る、又大学館裏の姥か床机に休む(略)猫またの方へ行故道を替へ、幽霊橋へ出(略)簸川内より原町西門(略)和泉境を廻り表門より帰る
十七日○九時より浅草(略)首振坂(略)屏風坂に掛り、光岩寺参詣(略)施餓鬼の飾物有、与力町より広徳寺前へ出、孔雀屋へ(略)御堂賑ゆへ参詣、今日御取越の由にて寮皆人多し(略)戸繋いせ屋に休む(略)今日群集、直に参詣、西川儀左衛門見掛る、御手洗へ鰻放し(略)無最寿堂に人多く、今夜よりこもりの札出る、榧八幡拝す、三杜に神楽在、因果地蔵拝し、伊勢屋へ立寄(略)珠数屋へ(略)前路を帰る(略)弘徳寺(略)稲荷神楽を立たから見(略)山下(略)藤屋にて蕎麦喫、池端通りを暮時帰る
廿二日○四過より六本木へ(略)不動前通樋掘直し塗悪し、六角前(略)餌差町より網干坂土堤、四番丁より御厩谷平河天神にて駕より下り、茶屋に休む(略)裏門より歩行、紀侯前赤坂門一ツ木檜やしき御裏門より入、蕎麦上る(略)裏門より出る、皆々門外迄送る、飯倉通光宝寺へ参詣(略)切通大名小路烏森通町へ出、烏森(略)日本橋一丁目西側油屋山崎伊衛門鄽(略)お隆と奥坐鋪へ通り(略)本郷五丁メ(略)本多館(略)五過帰家
廿六日○九過より浅草開帳(略)富士反畝内海垣内の榎に御鷹翦れたるを人集りて呼居たり、動坂植樹屋橡に休み(略)谷中坂上(略)太師参詣、御殿を見、屏風坂より下る(略)光岩寺へ入参詣、暫休息(略)広徳寺前へ出、塗中基群集、戸繋伊勢屋に休む(略)今日甚熱閙、燈上に筵道掛り(略)内陣甚込合立て拝す(略)御手洗へ鰻放し、源水こまを見る、甚込合ゆへ芥子の助へ(略)三杜祢宜神楽を上るを見、又源水巨摩を暫く見(略)又伊勢屋に休む(略)山下にかかり、竹町(略)池端通り(略)奥口より六半過帰る
廿八日○九過より珠成同道芝居看板見に(略)本郷通り目赤前樋普請土堆、塗甚凹凸有、湯鳥坂上迄水道かかり諸所堀切多し、昌平橋手前内田三辻(略)筋違旭山に休み、お玉か池通り新材木町より葺屋町前へ(略)芝居仕廻常の如し、木戸にハ来朔日始る張札有(略)中村前人叢熱閙分難し(略)楽屋新道より照降町江戸僑(略)材木町二目より左内町(略)三十間溝より五丁メ橋木挽町看板を見る、人立多し(略)猿屋へ行、蕎麦喫(略)五丁メ橋(略)須旧町(略)井筒屋へ立寄少休む(略)加賀前(略)六半前奥口より帰る
 十月は、信鴻の訪れた雑司ヶ谷に浅草、いずれも開帳があって大賑わいである。信鴻は、天候に恵まれたこともあって8回も外出している。『武江年表』から「十月十三日、日蓮上人五百年忌、法花宗寺院法筵を設く、○十月廿日より十一月五日迄、浅草寺観世音開帳」がある。廿八日の「芝居看板見」の盛況さからも、江戸の町は九月にまして賑やかであったと推測される。
★十一月
十八日○九過よりお隆同道浅草参詣(略)富土間道髪納所(略)富士後反畝(略)お隆神明脇にて駕に乗(略)谷中門(略)仏頂院太師参詣、此頃風邪大に流行故、参詣甚少く平日の如し、車坂(略)柳稲荷(略)浅草も参詣少く平日より少し多し、伊勢屋に(略)観音参詣、御手洗へ鰻放し、源水・芥子介を暫見る(略)三社にて神楽舞ハする、西宮稲荷神女の神楽を見(略)いせ屋へ行、弁当つかふ(略)山下(略)ふし屋江行(略)池端通り(略)谷中上にて紅梅鉢植を求め、首振坂上、坂のうへにて谷五葉松を拾ふ、根有、奥口より六半頃帰る
廿日別録○中村座頑要
廿五日○九つ過より珠成同道湯島参詣(略)聖廟拝し、お清鄽に休む、町人女一人小女一人召連来る、お清云ふ、小女は春日町伊勢やりゑ女の由、植木を見、西門より出(略)霊雲寺地蔵参詣、西行、本郷二町目ヘ出、竹町へ(略)土物店より八半時帰る、
廿七日○九時よりお隆同道浅草参詣(略)富士の辻に町人数十人上下にて立居(略)片町辺の惣名主内海甚衛門隠居物故(略)御鷹部屋前(略)山中屏風坂より出、光岩寺(略)本噂拝し、直に起行、御講にて塗中大に群集(略)西仲町通り並木より行、伊勢屋に休む(略)観音拝す、大に熱閙、御手洗へ饅を放し、巨摩を少見、榧八幡拝し、小野村鄽(略)因果地蔵拝し(略)伊せ屋へ行、弁当喫(略)穴沢珠数屋(略)太神宮内より帰る、広徳寺(略)車坂(略)千駄樹辻番(略)奥口より黄昏帰る
 十一月の半ばまで、信鴻の体調不良で外出できなかった。そのため観劇を含めて4日しか出かけていないので、町中の状況は十八日と廿七日しかわからない。十八日は、さほどの人出がなく、廿七日は、途中から群集があり浅草は賑わっていた。
 十一月の出来事として、回向院で勧進相撲が催された。この場所から、晴天十日興行となり、前代未聞の大盛況であった。相撲人気を受けたもので、また、町中の景気も反映するものであろう。
★十二月
 信鴻は体調不良で全く外出しなかった。そのため、浅草の市には息子の珠成が出かけているが、市の様子は記されずわからない。推測となるが、十一月末頃の信鴻の観察から、大きな変化はなかったと思われ、そこそこ賑わっていただろう。                             
 この年は、四月に安永から天明改元された。また四月に、将軍の世継ぎ家斉の御用掛になった田沼意次、さらに政権を強固なものにした。田沼の重商主義ついては、評価が分かれるのでここでは示さない。天明元年当時の江戸庶民にとって、貨幣経済が及ぼした影響は、消費生活を活性化していた。そのため、庶民の行楽活動は盛んになり、庶民の江戸文化が育まれたと言えるだろう。したがって、江戸庶民の楽しみは徐々に豊かになり、信鴻は浅草や湯島などの盛り場の様子を克明に記している。
 この年の主な出来事を示すと、一月の大火で中村座市村座などが消失するが、すぐに再建される。三月に、半世紀ぶりに浅草三社祭礼が催されるなど、あちこちで祭が催される。四月に入ると開帳のラッシュ、20程催される。七月には、利根川氾濫で大きな被害が出るも復興。九月の神田明神祭は、盛り上がるも武士と町人の対立が浮かび上がる。十一月の回向院勧進相撲から、十日興行となるようにさらに盛んになる。