江戸のサクラと花見 その2
花見の隆盛
名所江戸百景より
花見が流行すると、客寄せにサクラを植えるところが出てくる。浅草寺の開帳に合わせて奥山に、千本桜が植えられた。次いで、新吉原にも植えられる。といっても、鉢植である。花見の季節になると、駒込の植木屋から日本堤を通って吉原に運ばれた。咲きかけた鉢植のサクラを運ぶ光景は、面白かったのではなかろうか。なお、蕾を持ったサクラを移植することは、技術的に難しいことだ。
吉原のサクラは、以後慣例化し、さらには夜桜見物をも定着させた。なお、夜桜とは、サクラを観賞するのが目的ではなく、花魁・遊女である。したがって、花見時に夕方から吉原に出かける時に、誘いをかける言葉である。
江戸中期頃から、江戸の花見は本格的になっていった。今と違って、大した娯楽もない時代である。しかも各々の家の経済事情に合わせて楽しむことのできる「花見」は我々の想像以上に人々の気持ちを高揚させるものだったらしい。
何日も前から、晴れ着や髪の準備をととのえ、持ちものや弁当にも趣向をこらし、向島に向かう。堤の下に幔幕を張りめぐらせて、その中では、緋色の毛氈の敷かれた上に、晴れ着に着飾った娘たちが花開いていた。そんな花見の様子は明治の初め頃まで続いていた。東京医学校の教授であるベルツは、「日頃あまり美しいとは思わない女の人が、今日はこうまでも魅力的なのだ」と述べている。
庶民が花見に熱をあげていれば、武士も無関心ではいられない。寛政年間にもなると武士の勢いは衰え、経済的にも苦しい状況になっていた。それでも、体面を保つため、花見には、粗末な服装で出かけるな、立派な帯刀をしたものに限って出ろと。藩の外聞にも相成るからとの達しが出されていた。その藩の武士が、隅田堤へと差しかかると、酔った町人風の男が、川面に向かって小便をしていた。なんと思ったか、ふらふらと武士の方へフラフラと寄ってきた。武士は、初めは避けたが、あまり近づいたので押し退けた。そしたら、酔っぱらいは、武士の前に倒れ、倒れながら反吐を吐いた。武士は、茶屋に入り反吐の始末をして店を出ると、酔っぱらいは倒れたままで、罵声を浴びせた。武士だからと言って、天下の往来を通るものを、たとえ町人であろうとも、突き倒すとは何事だ。武士が無視すると、散々な悪態を言い続け、後を追った。逃げるものか、卑怯者などと叫ぶものであるから、花見の群衆が取り囲み、武士は身動きできなくなってしまった。酔っぱらいは追いつき、暴言の言い放題。武士がおとなしくしているものだから、さらに図に乗って、武士の首筋に手をかけた。さすがに辛抱していた武士も、顔色を変え、刀の柄に手をかけた。酔っぱらいが手を離すと、回りの見物人たちもハッとして引いた。その瞬間、武士は刀を抱えて、見物人の中を一目散で抜けきった。今度は、見物人の方が、酔っぱらいはそっちのけで、ナマクラ、卑怯者などと罵った。この話は、江戸中に広がり、藩の方にも伝わり、そのような不体裁の者は、藩の恥辱という声が起きた。早速、当人が呼び出され、申し立てをさせられた。花見の出来事は、噂の通りであると、忍びがたく刀の柄に手をかけたと述べた。ただ、町人を斬りましたら、研ぎ直さなければならない。それが惜しくて、刀を抱えて逃げたと。この刀は、銘こそないが正宗と伝えられており、身分に過ぎたもの。正当なわけなく使うのは、忍びなく、宝刀をいたわってのことであります、と述べた。この話は、藩主まで届けられ、殿様は、花見に正装美服で出かけろと指示したのは自分であり、もし、宝刀を差していなければ、一時の面目に屈して、用もない町人を無礼討ちにしたであろう。まさに、正宗は真の名刀であるとの話されたと。
これは、花見の事件であるが、花見時には、このような寸劇があちこちが催されていた。これが茶番である。たわいもないことを寸劇にして笑うこと、それを楽しみに花見に出かける人が少なくなかった。また、見るのではなく、見られたくて花見に出る人も多かった。仮装や踊りなど、趣向を凝らして楽しむ場でもあった。このように、江戸時代の花見は、現代の感覚からすれば決して気休めなレクリエーションではなく、積極的に気を入れて楽しむ「気延ばし」であった。
また、持参する弁当も楽しみであったが、さまざまな茶屋や店が出て買い食いも目的であった。当時は、花見にかける費用は、もし酒と肴を持参すれば、交通費なし、だから一銭もかからない。まことに安上がりのレジャーである。となると、団子の一つでもとなるのは当然であった。そのような要望に応えたのが、桜餅。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85
元禄年間の頃から、向島長命寺の門前で線香や仏花を商っていた山本新六は、湯茶の接待をする茶屋を営んでいた。吉宗によって享保二年に墨田堤にサクラが植えられると、サクラの葉を集め、樽に塩漬けして、桜餅をつくることを考案した。これが名物となる、長命寺の桜餅である。この桜餅は、サクラの葉を二枚、縦に包む。白い新粉餅で餡を包み、色はつけない。
この桜餅について、屋代弘賢が文政七年に、サクラの葉の仕込み量について書いている。漬け込んだ樽が三十一樽、一樽に約二万五千枚、計算すると七十七万五千枚となる。したがって餅は、三十八万七千五百個となる。一個四文として、二百二十両の売り上げの様な計算をしている。この計算をもとに、観光客の人数や花見客の人数も想定できそうだ。
また、これだけ有名になりますと、田舎者の観光客は、まず何を置き、桜餅を食べることになる。銭を払うとすぐにガツガツと食いつく、それを見た仲間が、もっと優雅に皮を向いて食べろと言う。すると、田舎者は土手に昇り、再び、今度はゆっくりと隅田川を眺めながら食べたという。
桜餅は、葉を一枚ずつ剥いて食べるもので、剥く時の香りが天下一品ということ。桜餅の葉は、開店当時は堤のサクラの落葉を集めて作っていたらしいことから、当時はヤマザクラの可能性もあるが、明治中頃からオオシマザクラの葉を使うようになり、現在では西伊豆辺りで採取されている。オオシマザクラの方が使われるのは、葉が大きく、香りが高いためである。なお、葉ぐるみで食べるのが通だと言う人もいないわけではない。
花見が流行すると、客寄せにサクラを植えるところが出てくる。浅草寺の開帳に合わせて奥山に、千本桜が植えられた。次いで、新吉原にも植えられる。といっても、鉢植である。花見の季節になると、駒込の植木屋から日本堤を通って吉原に運ばれた。咲きかけた鉢植のサクラを運ぶ光景は、面白かったのではなかろうか。なお、蕾を持ったサクラを移植することは、技術的に難しいことだ。
吉原のサクラは、以後慣例化し、さらには夜桜見物をも定着させた。なお、夜桜とは、サクラを観賞するのが目的ではなく、花魁・遊女である。したがって、花見時に夕方から吉原に出かける時に、誘いをかける言葉である。
江戸中期頃から、江戸の花見は本格的になっていった。今と違って、大した娯楽もない時代である。しかも各々の家の経済事情に合わせて楽しむことのできる「花見」は我々の想像以上に人々の気持ちを高揚させるものだったらしい。
何日も前から、晴れ着や髪の準備をととのえ、持ちものや弁当にも趣向をこらし、向島に向かう。堤の下に幔幕を張りめぐらせて、その中では、緋色の毛氈の敷かれた上に、晴れ着に着飾った娘たちが花開いていた。そんな花見の様子は明治の初め頃まで続いていた。東京医学校の教授であるベルツは、「日頃あまり美しいとは思わない女の人が、今日はこうまでも魅力的なのだ」と述べている。
庶民が花見に熱をあげていれば、武士も無関心ではいられない。寛政年間にもなると武士の勢いは衰え、経済的にも苦しい状況になっていた。それでも、体面を保つため、花見には、粗末な服装で出かけるな、立派な帯刀をしたものに限って出ろと。藩の外聞にも相成るからとの達しが出されていた。その藩の武士が、隅田堤へと差しかかると、酔った町人風の男が、川面に向かって小便をしていた。なんと思ったか、ふらふらと武士の方へフラフラと寄ってきた。武士は、初めは避けたが、あまり近づいたので押し退けた。そしたら、酔っぱらいは、武士の前に倒れ、倒れながら反吐を吐いた。武士は、茶屋に入り反吐の始末をして店を出ると、酔っぱらいは倒れたままで、罵声を浴びせた。武士だからと言って、天下の往来を通るものを、たとえ町人であろうとも、突き倒すとは何事だ。武士が無視すると、散々な悪態を言い続け、後を追った。逃げるものか、卑怯者などと叫ぶものであるから、花見の群衆が取り囲み、武士は身動きできなくなってしまった。酔っぱらいは追いつき、暴言の言い放題。武士がおとなしくしているものだから、さらに図に乗って、武士の首筋に手をかけた。さすがに辛抱していた武士も、顔色を変え、刀の柄に手をかけた。酔っぱらいが手を離すと、回りの見物人たちもハッとして引いた。その瞬間、武士は刀を抱えて、見物人の中を一目散で抜けきった。今度は、見物人の方が、酔っぱらいはそっちのけで、ナマクラ、卑怯者などと罵った。この話は、江戸中に広がり、藩の方にも伝わり、そのような不体裁の者は、藩の恥辱という声が起きた。早速、当人が呼び出され、申し立てをさせられた。花見の出来事は、噂の通りであると、忍びがたく刀の柄に手をかけたと述べた。ただ、町人を斬りましたら、研ぎ直さなければならない。それが惜しくて、刀を抱えて逃げたと。この刀は、銘こそないが正宗と伝えられており、身分に過ぎたもの。正当なわけなく使うのは、忍びなく、宝刀をいたわってのことであります、と述べた。この話は、藩主まで届けられ、殿様は、花見に正装美服で出かけろと指示したのは自分であり、もし、宝刀を差していなければ、一時の面目に屈して、用もない町人を無礼討ちにしたであろう。まさに、正宗は真の名刀であるとの話されたと。
これは、花見の事件であるが、花見時には、このような寸劇があちこちが催されていた。これが茶番である。たわいもないことを寸劇にして笑うこと、それを楽しみに花見に出かける人が少なくなかった。また、見るのではなく、見られたくて花見に出る人も多かった。仮装や踊りなど、趣向を凝らして楽しむ場でもあった。このように、江戸時代の花見は、現代の感覚からすれば決して気休めなレクリエーションではなく、積極的に気を入れて楽しむ「気延ばし」であった。
また、持参する弁当も楽しみであったが、さまざまな茶屋や店が出て買い食いも目的であった。当時は、花見にかける費用は、もし酒と肴を持参すれば、交通費なし、だから一銭もかからない。まことに安上がりのレジャーである。となると、団子の一つでもとなるのは当然であった。そのような要望に応えたのが、桜餅。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E9%A4%85
元禄年間の頃から、向島長命寺の門前で線香や仏花を商っていた山本新六は、湯茶の接待をする茶屋を営んでいた。吉宗によって享保二年に墨田堤にサクラが植えられると、サクラの葉を集め、樽に塩漬けして、桜餅をつくることを考案した。これが名物となる、長命寺の桜餅である。この桜餅は、サクラの葉を二枚、縦に包む。白い新粉餅で餡を包み、色はつけない。
この桜餅について、屋代弘賢が文政七年に、サクラの葉の仕込み量について書いている。漬け込んだ樽が三十一樽、一樽に約二万五千枚、計算すると七十七万五千枚となる。したがって餅は、三十八万七千五百個となる。一個四文として、二百二十両の売り上げの様な計算をしている。この計算をもとに、観光客の人数や花見客の人数も想定できそうだ。
また、これだけ有名になりますと、田舎者の観光客は、まず何を置き、桜餅を食べることになる。銭を払うとすぐにガツガツと食いつく、それを見た仲間が、もっと優雅に皮を向いて食べろと言う。すると、田舎者は土手に昇り、再び、今度はゆっくりと隅田川を眺めながら食べたという。
桜餅は、葉を一枚ずつ剥いて食べるもので、剥く時の香りが天下一品ということ。桜餅の葉は、開店当時は堤のサクラの落葉を集めて作っていたらしいことから、当時はヤマザクラの可能性もあるが、明治中頃からオオシマザクラの葉を使うようになり、現在では西伊豆辺りで採取されている。オオシマザクラの方が使われるのは、葉が大きく、香りが高いためである。なお、葉ぐるみで食べるのが通だと言う人もいないわけではない。
サクラの種類
サクラの図鑑とも言える図集が描かれたのは、十八世紀に入ってから、あまり早くはない。ツバキやボタン、ツツジなどはそれ以前に出され、それも百を超えるたくさんの花が描かれていた。それに対しサクラの図鑑は、最初が『櫻譜』の十五品と少ない。以後の図譜も六十九品が最高で、あまり多くない。文政年間に入って松平定信が谷文晁の力を借りて、自邸の庭に咲くサクラ描かせた『花の鑑』が百二十四品と急激に増えている。
この松平定信は、「寛政の改革」を実施した老中首席、隠居後は楽翁と名のり、人もうらやむ花鳥風月、悠々自適の隠居生活を送っている。他にも、自ら桜顛と号したほど、桜にのめりこんだ幕臣・久保帯刀は、青山長者丸の広い屋敷内にサトザクラの名木を多数植えて鑑賞し、自邸「白桜亭」のサクラ百三十六品を、本草学の大家である坂本浩然にたのみ写生させた。これが「長者ヶ丸桜譜」であり、そのサクラ全品種を一枚刷りの番付したのが『長者ヶ丸百桜亭園中百三十六品』であった。
サクラの種類といっても、当時は現代のような分類はなく、たまたま見たこともない花を見て、名をつける程度であったようだ。それでも、命名するには既存のサクラをすべて知らなければならない。たとえば、修学院離宮を造営した後水尾上皇は、七品種の名をつけている。現在も残っているのは、三重県鈴鹿市の観音寺にある天然記念物であるフダンザクラ(不断桜)の「常磐」、匂いヤマザクラの「三好」である。
なお、これらの名前は、現代の植物図鑑を見ても載っていないものが多い。理由の一つとしては、園芸品種ということにある。それでも、既存のサクラと異なることを見極めているから、すごいことである。松平定信は、庭園研究者としても江戸時代の第一人者であり、サクラだけでなく、他の植物についても図集を出しているほどである。
そこで、サクラの分類について、少しではあるが話をすすめたい。いま、我々がサクラの分類としてわかるのは、大きく分けて山桜と里桜であろう。言い換えれば、自然の中にあるサクラと人里にあるサクラで、一重のサクラと八重のサクラとも見ることができる。もう少し詳しく見ると、里桜は、改良ないし、突然変異などによって生まれた園芸品種を指すことが多い。
そこで、サクラの分類方法の一つを示すと、山桜類、彼岸桜及び枝垂性桜、里桜及び大島桜、染井吉野及び雑種と類種、栽培種、野生種の6分類されている。
山桜類・ヤマザクラ(その1「左近の桜」参照http://photozou.jp/photo/show/188100/67957418)
変種・ケヤマザクラ
・カンザクラ
サクラの図鑑とも言える図集が描かれたのは、十八世紀に入ってから、あまり早くはない。ツバキやボタン、ツツジなどはそれ以前に出され、それも百を超えるたくさんの花が描かれていた。それに対しサクラの図鑑は、最初が『櫻譜』の十五品と少ない。以後の図譜も六十九品が最高で、あまり多くない。文政年間に入って松平定信が谷文晁の力を借りて、自邸の庭に咲くサクラ描かせた『花の鑑』が百二十四品と急激に増えている。
この松平定信は、「寛政の改革」を実施した老中首席、隠居後は楽翁と名のり、人もうらやむ花鳥風月、悠々自適の隠居生活を送っている。他にも、自ら桜顛と号したほど、桜にのめりこんだ幕臣・久保帯刀は、青山長者丸の広い屋敷内にサトザクラの名木を多数植えて鑑賞し、自邸「白桜亭」のサクラ百三十六品を、本草学の大家である坂本浩然にたのみ写生させた。これが「長者ヶ丸桜譜」であり、そのサクラ全品種を一枚刷りの番付したのが『長者ヶ丸百桜亭園中百三十六品』であった。
サクラの種類といっても、当時は現代のような分類はなく、たまたま見たこともない花を見て、名をつける程度であったようだ。それでも、命名するには既存のサクラをすべて知らなければならない。たとえば、修学院離宮を造営した後水尾上皇は、七品種の名をつけている。現在も残っているのは、三重県鈴鹿市の観音寺にある天然記念物であるフダンザクラ(不断桜)の「常磐」、匂いヤマザクラの「三好」である。
なお、これらの名前は、現代の植物図鑑を見ても載っていないものが多い。理由の一つとしては、園芸品種ということにある。それでも、既存のサクラと異なることを見極めているから、すごいことである。松平定信は、庭園研究者としても江戸時代の第一人者であり、サクラだけでなく、他の植物についても図集を出しているほどである。
そこで、サクラの分類について、少しではあるが話をすすめたい。いま、我々がサクラの分類としてわかるのは、大きく分けて山桜と里桜であろう。言い換えれば、自然の中にあるサクラと人里にあるサクラで、一重のサクラと八重のサクラとも見ることができる。もう少し詳しく見ると、里桜は、改良ないし、突然変異などによって生まれた園芸品種を指すことが多い。
そこで、サクラの分類方法の一つを示すと、山桜類、彼岸桜及び枝垂性桜、里桜及び大島桜、染井吉野及び雑種と類種、栽培種、野生種の6分類されている。
山桜類・ヤマザクラ(その1「左近の桜」参照http://photozou.jp/photo/show/188100/67957418)
変種・ケヤマザクラ
・カンザクラ