水琴窟 2

水琴窟 その2
 
水琴窟のルーツを「水琴」という言葉にルーツを求める
 “水琴”といえば、それに何やら関連がありそうな人物が存在した。それは女性、しかもその時代にしては、非常に珍しい十七才の若き「美人演説家」であったという。その名が公の場に初めて登場したのは、明治二十三年九月二十九日付の読売新聞。「婦人徳義会」の大演説会が、上野にある「上広亭」で催されるという記事で、はじめて福田水琴が紹介されている。なお、以後、明治三十一年までに9回、読売新聞にその名が掲載されている。
 福田水琴の本名は、福田春野という。栃木県の農家の娘として生まれ、幼くして父を失う。家は財産も失うが、幼少より礼節に富み、詩歌に秀で、その上、容姿も美しく、近隣でも評判の娘であった。庭訓往来や諸礼目録などを学び、苦学の末、遂に上京を果たした。その後、天下婦人のための同盟を立ち上げようとしていた「川口女丈夫」の門をたたき、これに参加する。(これが「婦人徳義会」の前身とと思われる。)女権確立のために活動、次第に持って生まれた「優美艶麗」なる容姿に、男勝りの気性知性が相まって、演説上手となり、後に『女学新論』などの著作をあらわした。
 ところで、この福田春野が「水琴」と名乗る、あるいは呼ばれたのはいつ頃からだろうか。はっきりしたことはわからないが、読売新聞に取り上げられた明治二十三年よりも何年か前であったことは確実であろう。また、名前の由来については、これもまた確たる根拠はないものの、彼女がとりわけ詩歌に秀でていたというから、「雅号」であった可能性が高いと思われる。彼女の演説の聲や響きから連想されたという線は薄いだろう。ちなみに、水琴女史は後に、浅草北清島町に「福田学校」という小学校を開設したそうである。
イメージ 1 次に、「水琴亭」は、明治二十三年八月五日出版『岐阜美屋計』(長瀬寛二著)に記載されている。 「水琴亭」は、岐阜市岐阜県岐阜市米屋町27- 2)にある創業元治元年(1864年)、140年の歴史を持つ岐阜一番の老舗料亭と言われている。広大な敷地内に広がる緑豊かな美しい庭園があり、この水琴亭に水琴窟があれば、その名の起源は一気に明治へと遡り、さらに江戸時代へと進む可能性もあった。が、水琴亭には今も日本庭園はあるものの、水琴窟は造られていなかった。その名の由来についても、いつ頃からであるか、確固たる資料にもとづく話を得ることはできなかった。しかし、水琴亭についての「美濃文化自然誌調査会」の資料(出典『番号:9-1 路線名:岐阜街道 名称:伊奈波街道の古今(美味求真)の水琴 米屋町「料亭の元祖」』)には、水琴亭の名の起源が江戸時代となる可能性を秘めた記述がある。
 それは、「『水琴亭』の起源は、江戸時代の中期に始まる。もっと以前からかも知れないが証拠はないのでそうしておくしかないわけだが同家の過去帳をたどれば、元禄13年(1700)にすでに中竹屋町に居住していた。276年前であるが、職業まで書いていないので、そのころ料亭があったかどうかわからないだけのこと」(出典5)。この文からは、現在の水琴亭の経営者がこの地に住んでいたという一点しか事実として認められるものではない。また、「そのころは『料亭』という言葉もなかった時代ではあったけれども。」というように、江戸時代の中期から料亭として営業していたかどうかは、残念ながら不明である。
 次に、同文献に「明治初期の水琴亭は五代前の柵橋定七さんが中竹屋町で営業していたが、その後『野々村銀行』頭取の別荘に移転した。伊奈波神社の大鳥居をくぐって左側にあった。『野々村銀行』の取り付け騒ぎで、財産処分のさい定七さんが買い取ったものだ。」とあるところを見ると、江戸時代の末頃には、すでに料亭として営業していたと思われる。
 ただ、その料亭が「水琴亭」という名であったとまでは読みきれない。「水琴亭」についての記述は、「野々村さんの別荘で営業したあとは、野々村さんのまた30メートル上の、いま神社の社務所に当たる場所へ移転した。当時の伊奈神社の神域は非常に狭く、また水琴亭の繁盛ぶりと合わせて、神社の近くで歌舞音曲が流れて、申しわけないとして、再び山を降りて、現在の米谷町に移転したが、そのころの水琴亭は、長良川畔の『みなと館』も同じ『水琴亭』で、伊奈波の水琴亭と区別するため『山の水琴。川の水琴。』と名付けていた。」と、この文で「水琴亭」という名の料亭があったことが確かになった。
 ではその年代が何時であるか。そのことについては、前記『岐阜美屋計』の出版されたのは、明治二十三年八月五日。したがって、「水琴亭」の名前がはっきり記されている「・・・山に沿ひて割烹店あり水琴亭といふ青樹相絡ひ詭石相累なり渓水ハ沈々として流れ落つ謂ふ所繞沈水聲若琴筑・・・」(山に沿って割烹店あり水琴亭という 木々は交錯し詭石はかさなり 谷は深くして流れ落ちる というところとして流を落つ謂ふ所繞枕水聲若琴筑是なり)という文面が書かれたのは明治二十三年以前であることは間違いなく、当然、「水琴亭」の起源もそれ以前ということになる。ちなみに文中の「琴筑」とは、中国の竹でつくられた楽器の名である。
 水琴亭の名の謂われについては定かではないが、伊奈波神社の伝えから彷彿させるいくつかの話がある。かつて伊奈波神社の境内には小川があり、せせらぎは水琴亭の近くに流れていた。せせらぎの水は鉄分を多く含み、落差で生じる水音は、まるで琴のような響きを奏でていたようだ。その「沈々として流れ落つ」音にちなんで、「水琴亭」という名が付けられたのではと推測される。また、岐阜長良川周辺の温泉は、鉄泉と呼ばれるくらい鉄分を多く含み、鉄分を含んだ小川の流れは、せせらぎの変化の中で幽かな金属音放っていたのではないかとの話もあるようだ。「水琴」の二文字は、このあたりから来たとのことも伝えられている。
 なお、「繞枕水聲若琴筑」と書かれているが、琴筑のような水聲が「水琴亭」の名の由来とは考えにくい。というのは、この文は、蘇東坡詩集・六巻の『立秋日祷雨宿霊隠寺』の「枕中琴筑落階泉」を念頭にして書かれたものと推測されるからである。