水琴窟 1

水琴窟 その1
水琴窟の謎                                                      『水琴窟』 (日本リゾートセンターイメージ 1)より転載
 水琴窟の音、なんとも快い、霊妙なる不思議な音である。音の発生は、一般的には蹲踞(つくばい)や縁先手水鉢の鉢前(うみ)の地下に造られた甕(瓶・壺)から出てくる。水琴窟の構造の多くは、底に小さな穴を開けた甕を伏せて埋め、手水の余水が甕の天井から「しずく」となって落ちるように工夫した、一種の発音装置(音具)である。と、日本水琴窟フォーラムは説明している。
  また、「そのルーツを探ると、江戸時代まで遡ることができます。排水を目的として創案された、庭園施設における同じ系統の用語に「洞水門」があります。現在、伝承される「水琴窟」はそれを起源としたものと考えられていますが、起源についての詳細は依然として不明です。「水琴窟」の語の発祥についても同様です。」ともフォーラムは述べている。
 水琴窟は、いつ、誰が、なぜ、どのように創案したかなど、謎が多い。それだけに水琴窟のルーツを探ることには、興味が尽きない。謎が多いのは、水琴窟がいくつも発見されているにもかかわらず、残されている文献・資料がきわめて少ないからである。水琴窟の名称さえ、フォーラムは「伏せ甕の底に溜まった水面に落ちる水滴の音が甕の空洞で共鳴し、琴の音に似た妙なる音を響かせることから、いつの頃からか水琴窟と呼ばれるようになりました。」としている。
 「水琴窟」という文字の初見は、東京農業大学教授・金井格氏によれば、「文献上では、『洞水門』『伏瓶水門』と呼ばれているものが、何時頃から誰によって『水琴窟』と呼ばれるようになったのだろうか。水琴窟について日本造園学会で発表している平山勝蔵先生(元東京農業大学教授)による呼び名ではなかろうかと平山先生にうかがったが、何時頃誰によって付けられたのかは不明であるが、初めて耳にした時すでに水琴窟と呼ばれていたとのことである。」(『日本庭園の特質と水琴窟』金井格)とある。
 では、平山氏の水琴窟との出会いはいつであろう。「水琴窟と私の出会いの最初は、堀口庭塾であった。同塾は、大正の初め頃から昭和の初め頃にかけて、東京府荏原郡目黒村大字中目黒一〇七八番地に設けられた庭造りの勉強会であった。」(『庭の水音の秘密』平山勝蔵)とある。この言葉から、大正時代には「水琴窟」という呼び名はあったと考えられ、明治時代にも「水琴窟」という言葉は通用していた可能性が高い。
 しかし、一方、金井氏によれば、「造園学の碩学原敬二先生は、先生の偏された造園大辞典(上原敬二編、鹿島書店)で『洞水門』として取り上げており、その他の著述でも『洞水門』『伏瓶』を使われ、一切水琴窟という言葉は用いられなかった。」(『日本庭園の特質と水琴窟』)とある。さらに、「そこで先生に水琴窟のことを訪ねたが、結局不問に付されとうとう答えが得られず永遠の謎となってしまったのである。」(『日本庭園の特質と水琴窟』)とすれば、上原氏は何らかの理由で、「水琴窟」への言及を控えてしまったということになる。
 あくまで推測にすぎないが、上原氏は、江戸時代から「洞水門」があることはもちろん、「水琴窟」という名前の物があることは認めていたが、両者の関係について整理できていなかったのではないか。上原氏は、充分納得できる資料や検証をもとに、物事に言及する人物なので、曖昧な部分や腑に落ちない事柄には、あえて触れないようにしたのではないかと思われる。
 そこで、『洞水門』について、遠州流茶道宗家十二世・小堀宗慶氏の『小堀家に伝わる「洞水門」の工夫』を手がかりにして見ていこう。小堀氏は、「水琴窟の原型といわれる『洞水門』を・・・」と、洞水門を水琴窟の原型としている。「蹲踞の下は水はけが非常に悪く、お客様が蹲踞を使うと水が溜まり泥を跳ねてしまうので、遠州は何とか水が流れるようにしようと考え、下に甕を埋めそこに水を落とすということを考えたのです。この『洞水門』が、今いわれている水琴窟の原型ということになります。その時に、遠州が音を出すつもりで『洞水門』を造ったかどうかは、今では定かではありません。」とある。さらに、「その後、小堀家に代々伝わってきていることは、排水設備というより音のするそうちということのほうが強調されています。」と続く。
 この話から、当初「洞水門」の方を優先していたという事実も、無視はできない。水琴窟の起源を『洞水門』に求める見方は、小堀宗慶氏の話によるもので、証明する江戸時代の資料はない。秘伝として伝えられて、この「装置」が共に造られてきたことを考えると、「洞水門」がいつ頃から「水琴窟」と呼ばれるようになったか。「このような仕掛けを小堀家では「洞水門」という名で伝えられてきましたが、近年これを水琴窟という名が付いていると知り、誰が付けたかわかりませんが、まさに音に合ったいい名称だと感じました。」とある。ということは、ある時点から小堀家は、「洞水門」をつくることから縁が薄くなったということなのだろうか。
 なお、『建築用語辞典』(建築資料研究社)によれば、「洞水門」(ほらすいもん)は、「鉢前の水門にあって、吸込穴の下に空洞を作り底に水を溜め、手水の滴り落ちる音が空洞内に反響するのを楽しむようにしたもの。」とされている。ここでは水琴窟より、洞水門という呼び方を採用している。が、言葉は頻繁に使用される方が定着していくという性質のものであるから、やがては水琴窟一本になる可能性が高いと思われる。
 
「排水機能」と「音の発生機能」
 金井氏は、水琴窟の設置場所について「水琴窟は江戸中期、庭園に鉢前が盛んに造られた頃から庭園の施設として使われ始めたとされているが、これは江戸中期に築造された尾崎氏庭園(鳥取県羽合町)の水琴窟の現存で実証されるのである。鉢前とは書院構えで縁先に設ける手水鉢を中心とした手水用の細部構成で、日本の造園技法の一つである築山庭造伝に『手水鉢置様の事』『蹲踞の手水鉢の事』として詳細記述されている。この中で『手水鉢必ず雪隠近き物なり』として手水をもって清める所としている。尾崎氏庭園の鉢前の水琴窟も、雪隠近い縁先に設けられており、またその存在が確認されている他の水琴窟の設置されている場所をみても縁先が多い。」(『日本庭園の特質と水琴窟』)としている。
 さらに、金井氏は「各地でその存在が確認されている水琴窟は、音を楽しむために造られたものであろうか。今でいう雨水枡の機能として伏甕、伏鉢を設けたものも多数あるのではなかろうか。排水技法も進んだ明治、大正時代には、音の装置が主として造られたものと思われる。」(『日本庭園の特質と水琴窟』)と推察している。この「排水機能」と「音の発生機能」を分けて考える推察は、とても理にかなっている。
 また、金井氏は、水琴窟が江戸時代から存在したということに、疑問を提示しているとも受け取れる。もっとも水琴窟らしきものがあったとしても、音がそこから出て、その音を聞いてすばらしいと思った人がいなければ、本当の意味で存在していたとは言えないのではないか。音に関する記述がないにもかかわらず、江戸時代に水琴窟があったと断定するのは早計だろう。上原氏が水琴窟について深く触れなかったのは、そのためではなかろうか。もちろん、江戸時代の文献を調べ尽くしたわけではないから、今後さらには、水琴窟の音に関する資料が出てくることもあるかもしれない。これ以上論じていても詮ないことなので、その幸運を待ちたい。
 では、明治時代になってからはどうか。平山氏によると、「水琴窟が庭園の施設として取り扱われたのは、江戸時代だといわれており(例・鳥取県東伯郡宇野村・尾崎益三氏庭園内・縁先手水鉢鉢前に存在)、明治時代に至って盛に取扱われたようであるが、漸次衰退の一途をたどり今日では殆ど壊滅に瀕しており、かくしてその構造すら忘却されようとしている。」(『庭園の水琴窟について(造園雑誌第22号3巻)』平山勝蔵)となる。
 ところで、明治時代の水琴窟の関する文献がどのくらいあるかというと、実は、現在のところ発見されていない。そこで水琴窟の「水琴」という文字に何かヒントがないか、調べることにした。ところが、「水琴」なる楽器は存在していないし、言葉としてもありそうだが案外見つからない。あるのは、旅館や喫茶店などの名前、サークルや会社名の一部に付くくらいのものだ。それも現代の話で、大正・明治時代に遡ると見つからない。