茶庭 1 村田珠光

茶庭 1 村田珠光
 
                                                                                                   人倫訓蒙図彙より
イメージ 1 意外と思われるかもしれないが、茶道や華道と作庭(日本のガーデニング)とは深い関係がある。お茶や生け花は、作庭よりも後に生まれてはいるが、その後、庭の発展に様々な影響を及ぼしている。特に茶の湯については、路地が茶庭という、日本ならではの庭園様式となっている。
  そこで、わび茶の成立から茶庭の誕生に関与した茶人について少し紹介してみたい。その始まりは室町時代の茶人である珠光、紹鴎、利休、織部遠州という人物の流れに沿って進めることにするが、師弟関係や思想的な継続について色々な見解や異論があることも付け加えておきたい。
 
村田珠光(1423?~1502年)とガーデニング
  珠光は、室町時代中期の茶人。能阿弥の弟子となり華や茶を学び、「わび茶」の創始者とされる。ただし、珠光に関する資料は少ないので、現在伝えられる珠光像をそのまま信じるわけにはいかない。そのことをふまえて、次のようなことが言えそうである。
  珠光は、喫茶を闘茶や遊興の茶の湯から、精神性の高い「わび茶」へと導いた。当時隆盛していた豪華な唐物を使った茶の湯に対して、粗末な道具でも良しとする茶の湯、四畳半の茶室など、心の豊かさを優先する茶の湯を押し進めたとされている。
  ガーデニングに関係することについては直接ふれてはいないが、作庭や庭園鑑賞の面で興味深い言葉を残している。それは、『禅鳳雑談』(金春禅鳳)に「珠光の物語とて」「月も雲間のなきは嫌にて候。これ面白く候。」と記述である。このようにものごとの完全性を拒否する姿勢こそ、「ひえかるる」美学であり、「わび茶」の美意識へと繋がるものであった。
  月を見る時、月に雲がかかっているのは見苦しく、良くないというのが普通の人の感覚だと思う。これに対して、珠光は、月全体が露わになっているのは、風情がないとした。月に雲がかかることによって、むしろ月の趣を深く味わうことができ、余情が生まれると主張している。寂びた優美さ、奥深い静寂な余情という「幽玄」を説明する時の具体的な例として使われる。
 また、完全性を拒否するというのは、ものごとは完成すればそこから崩壊が始まる。そこで、完成する一歩手前で留めておくことが必要だという、考え方だ。日光東照宮にある陽明門は、完成による崩壊を防ぐことから柱をわざと未完成のままにしたと伝えられている。これもまた、不完全な事象に美意識を感じる、日本人ならではの美意識の現れであろう。また、この精神は、作庭にも影響をあたえている。真偽のほどはともかく、たとえば龍安寺の石庭は、15個の石すべてを見ることはできないように配置されているという。
 珠光の養子でもある、宗珠は下京四条の市中に住みながら、山居を結んだ。『二水記』(天文元年1532年九月六日)には、「山居之体、尤有感。誠可謂市中隠。当時数寄之張本也。」と記されている。これは、宗珠の山居の佇まいには感心した、市中にありながら山中の趣を見せて、数寄の見本のようである、という意味である。さらに、『宗長日記』(大永六年1526)には、八月十五日に柴屋軒宗長が宗珠の屋敷を見て、「宗珠さし入門に大なる松あり、垣の内清く、蔦落葉五葉六葉いろこきを見て云々」記している。掃き清めた庭に紅葉を散らして、市中とは隔絶した環境を形成させた見本として紹介されている。なお、この時代には、独立した建物としての茶室は成立しておらず、山居の庭とはいうものの、茶室に対応する庭、路地を指しているのではない。
 珠光の影響は、彼の弟子たちを通じて広まったことは確かであるが、次に述べる武野紹鴎とのつながりは定かではない。