茶庭 4 豊臣秀吉その2

茶庭 4 豊臣秀吉その2
秀吉と茶庭
  それに対し茶庭については、具体的な資料にもとづいて、もう少し正確な推測ができそうだ。天正十年につくらせた山崎の茶室「待庵」(完成は十一年三月)は、躪口を含め利休の「わび茶」の様相をよく伝えるものであるが、それだけではない。「待庵」は以後、書院の庭とは異なる小座敷の茶室をつくらせ、その茶室に対応する路地(茶庭)づくりを発展させる契機にもなった。ちなみに、現在妙喜庵にある「待庵」の路地は、当時の姿を再現したものではない。
 秀吉が関わった茶室は、数寄屋(独立した茶屋)が多く、大坂城山里にも設けている。神谷宗湛の『宗湛日記』によれば、大坂城の山里丸(数寄屋)は、路地には趣の深い跳ね木戸をしつらえ、すっかり打ち水をほどこされ、路地のかもし出す風致は、まことにもの寂びていたらしい。また、この山里丸の数寄屋は、木戸(結界)によって周囲の空間と分断されていた。そのため、路地は単なる通路という空間から、庭園としての様相を示すものである。
  秀吉は利休の「わび茶」を押し進める一方で、天正十三年に大徳寺見院の茶会、天正十五年の北野大茶の湯という自由な発想の茶会を開かせている。このような俄か茶会では、茶室・茶席への通路(路地)は、臨機応変な対応を求められる。いくつもの茶室を結ぶ通路(路地)は、以後の数寄屋(茶屋)をつくる際に参考になったと思われる。
  秀吉は数寄屋を舞台に、利休の目指す「わび茶」とは異なる茶屋遊びへと向う。北野大茶の湯に招かれたにもかかわらず遅れた宗湛は、津田宗及とともに秀吉から聚落第に招かれた。宗湛らは、まず二畳の席で会席料理、そして濃茶を堪能した。その後、松原の数寄屋に案内された。そこには長囲炉裏と竈突に煤けた茶釜が据えられており、一方には田楽豆腐が二串立てられ、藁で編んだ円座の上に柿が二つずつ盛られたものが三カ所置かれていた。また、その脇の壁に藁草履が二足あり、是を五文にて買うようにと言われ、宗湛と宗及は、二足十文を支払い購入。次に、二人は数寄屋の円座二枚を取り、潜口の側に持ち寄り、足袋を脱いでその上に置いて茶席に入った。ここでは「わび茶」の枠から抜け出た茶の湯となり、峠の茶屋が連想される。となれば、数寄屋はその趣に応じた路地としての修景が求められるようになる。そして、広々とした敷地での茶の湯は、松原という自然の趣をそのまま取り入れたということがわかる。
  以上に示す路地については、イメージしかわからないが、九州征伐における箱崎の陣所に設けられた数寄屋には具体的な記述がある。宗湛は日記に、「潜り口から入ると飛石があり、箱松の下に苔むした木の手水鉢があった。手水鉢には杓が上に伏せて置かれていた。その松木を廻って進むと、数寄屋(茶屋)の前に古竹で作られた腰垣があり、そこには簾戸の撥木戸があった」と記している。これまでの茶の湯に関する記述のなかにはない、路地と茶庭の関係(二重路地)を示すものである。
  これまで記されなかった茶室までの路地の様子が歩く順に記されたということは、茶の湯において、路地の重要性が注目され始めたのだろう。秀吉のつくる茶室は、狭い街中ではなく、城内など広々とした空間につくられることから、路地はおのずと長くなる。そして路地を歩きながら見る、周囲の景色にも関心を持つようになり、様々な工夫が計られるようになったためだろう。
  慶長二年、伏見城につくられた松の丸の茶庭は、茶席の躪口のような構えのような潜り口から入るもので、庭へ入ると松原がひろがりその中の路地を進むと簀戸でできた木戸が見える、その先にソテツの植えられた路地を歩き茶室に入るという構えとなっていた。そこで、濃茶を済ませ次の薄茶の席へと向う。先ほどの木戸まで戻るとそれとわかる導線があるので、それに従って進むと根元に古い社のある大松に出くわす。この社を巡ると薄茶の席へ着くことになっていた。つまり、自分が来た元の道だけでなく、別のルートも整備されていた。路地は茶庭という、庭園としての様相を明確に呈していたと言えるだろう。
  さらにこうした茶室と路地の構成に、利休が関わっていたことは明らかだが、むろん秀吉の意志を無視しては実現しなかった。茶の湯さえも貪欲に楽しもうとする秀吉の姿は、『元親記』(長宗我部元親)に記されている。元親は、聚落第に数寄屋を建て、その披露に際して、路地の途中に茶屋を設け、二人の女を待ち受けさせた。その女は、通りかかる秀吉と連れ客に餅と田楽、お茶を一服所望させ、銭を払わせた。秀吉らは笑いながら次の数寄屋(茶席)へ進んだという。これなどは、利休の指導を受けてのもてなしであろうが、明らかに遊び好きの秀吉のサービス精神を汲んだものである。
 これは秀吉が、茶の湯という枠に捕らわれずに、自由な発想で茶室を巡るという路地の形態のきっかけをつくっている。その後、このいくつかの茶室を路地で結び、それらが全体として一つの庭園となる桂離宮に代表されるような、回遊式庭園へと発展する。
  また、慶長三年の醍醐の花見では、8棟の茶屋がそれぞれ趣向を凝らして設けられた。狩野山楽など当代一流の画師に描かせた茶室、畳の代わりに金銀箔を敷き詰めた茶室、茶屋というより料亭のような趣向の茶室、池にコイやフナが放された茶屋、塩屋の構えの茶屋などである。秀吉、秀頼らの一行は、それらの茶屋を覗き、並べられた銘菓・織物・宝飾品・調度品などを求め、「グルメやショッピング」を楽しんでいる。このテーマパークを思わせる茶屋の設定は、後につくられる尾張藩江戸屋敷・外山荘における、「小田原宿」につながるものである。また、茶屋を景色の一部として配置したのは、小石川後楽園において硝子御茶屋、丸屋、九八屋などを巡るようにした作庭にも通じる。こうした茶の湯を介した秀吉の様々な試みは、それ以降の大名庭園のあり方へと大きな影響をあたえたと見るべきだろう。
  秀吉は、最後に取りくんだ醍醐寺三宝院の庭づくりからもわかるように、茶室はもちろん、路地についても具体的なイメージを持っていた。その上で、茶の湯を楽しむために様々な企画や仕掛けを提案した。それが、茶室を取り巻くスペース(路地・茶庭)の発展に結びつくだけでなく、庭を楽しむための作庭技術を発達させることになった。秀吉が茶の湯で試みたことは、日本ならではの庭園文化に大きな影響をあたえたと言えるだろう。