江戸時代の椿 その16
★1820年代(文政年間) 『遊歴雑記』のツバキ、『江戸白金植木屋文助筆記』の肥後椿
・『遊歴雑記』
『遊歴雑記』は、十方庵主が江戸近辺の名勝・古跡などを自ら散策し、感想などを綴ったもので、文政十一年(1828)に刊行された。その「初編の巻上の第一」にツバキに関する話の一つとして、「御愛樹の檜の木椿」がある。
「三縁山増上寺本堂の後なる黒本尊に隣りて左の方に出張し御構は台徳廟の御霊屋たり、此御霊屋の外駒ヨセの内左右ににらみ合せて檜椿といへる名樹両木繁茂せり、差渡し凡四五尺つゝ樹の高さ六尺比には過べからず、おのおの丸く苅込たるものなり、此樹一体は椿でありながら、丸葉の下又は小枝の股より檜の樹の小枝一もとづゝ生せり、依てひのき椿と號す、是はむかし台徳君の御愛樹なりしまゝ、御遺命によりて、爰に植させたまふとかや、稀に此樹の小枝を得て接木とし、或は刺樹にすれども、遠からずして枯失、終に接しためしを聞かず、依て適に件の實を得て土に蒔ば生ずるものとはいへども、檜の樹の小枝は生ぜすして頓て常の椿に戻れり、希異といふべし、案ずるに是尊霊の悋ませたまへるにや、又草木こんなしとはいへども稀に台廟の御尊霊を畏れて元樹の如くに生ぜざるものと見えたり、天下の霊樹といはん歟、若此樹の接木にて栄え又實生にて成木に及びなば、植木をひさぐの徒は、千金を得べきに最残多し、但し此名木の外に生ぜず、種類のなきを以て、いよいよ尊霊のいますが如さ御威徳を仰ぎ奉るのみ、予先年故ありて彼樹の小枝一もとを得しまゝ、大切に筥に藏して家宝となせり、依て今その小枝の様子を生写にして、左に図して知らしむ、件の檜の樹椿、今になほ繁茂して御魂屋の外駒よせの左右に存す、諸人直に見てしるべし、又此外には御霊屋の内に朝鮮國王よら献上せし干満の石の御手鉢と号するあり、是は潮の満る時節到れば、手水鉢の中水、白然に湧出してあふるが如くに水堪え、又引潮の時節に至りては、水又自然に枯晞きて、纔に底にありて、潮の干満をしるの名石なり、或は世上に名たゝる羅漢石などの名物数品ありといへども、霊廟の御内なれば恐れみて爰にしるさず、唯ひの木椿のみを擧て余は秘するもの也、予過し壬申の彌生、佳職を譲り隠者となりてより、花にもみぢに遠近に杖を引古跡名所をたづね、就中風景の土地に遊びて、天元の数を養はんとす、性質下戸なれば酒に憎まれ、牙歯なければ萬の美食に疎まれ、只茶具の骨董袋を携て諸方に遊歴するまゝに、見捨てんは本意なれば、覚書同様にしるし置のみ、但し寺社の由緒、古器、品物等もあらましにて載て、風色になぐさむ事を要とせり、くはしき事は後人の穿鑿家に譲て述せず、彼檜の樹椿の図左のごとし。」とある。
このツバキは、芝にある三緑山増上寺の名木。この寺は御存知のように徳川家の菩提寺として有名だが、その境内、台徳廟の霊屋のそばに、「檜(ひのき)椿」と呼ばれる大木が二本覆い茂っていた。木の高さは六尺足らず、二本とも各々丸く刈り込まれている。そして不思議なことに全体としてはツバキの木でありながら、「丸葉の下または小枝の股より檜の小枝一もとずつ生せり」というようにヒノキでもあった。作者が描いた図を見ても、単にツバキの変種といった類のものではないことがわかる。また彼の解説によれば、この「檜椿」はもともと台徳院がとりわけ可愛った木であり、院の遺言によって増上寺に植え替えられたものだという。極めて珍しい木なので、やれ挿し木だ、やれ接木だ、それでもだめなら実生から芽を出させてみようなどと、大勢の人々が様々な方法を試みたがことごとく失敗に終わった。そうしたことも手伝って、「天下の霊樹」との呼び声が高まったという。十方庵主もこの名木に強く惹かれたようで「先年、故ありて、かの木の小枝一本を得しまま、大切に箱に蔵して家宝となせり」と書いている。天下の霊樹を無断で折ったわけではないだろうが、株ならともかくたかが小枝一本を「家宝」と崇め奉っているのが、おもしろい。(図はその時の小枝を模写したものである)
『遊歴雑記』は、十方庵主が江戸近辺の名勝・古跡などを自ら散策し、感想などを綴ったもので、文政十一年(1828)に刊行された。その「初編の巻上の第一」にツバキに関する話の一つとして、「御愛樹の檜の木椿」がある。
「三縁山増上寺本堂の後なる黒本尊に隣りて左の方に出張し御構は台徳廟の御霊屋たり、此御霊屋の外駒ヨセの内左右ににらみ合せて檜椿といへる名樹両木繁茂せり、差渡し凡四五尺つゝ樹の高さ六尺比には過べからず、おのおの丸く苅込たるものなり、此樹一体は椿でありながら、丸葉の下又は小枝の股より檜の樹の小枝一もとづゝ生せり、依てひのき椿と號す、是はむかし台徳君の御愛樹なりしまゝ、御遺命によりて、爰に植させたまふとかや、稀に此樹の小枝を得て接木とし、或は刺樹にすれども、遠からずして枯失、終に接しためしを聞かず、依て適に件の實を得て土に蒔ば生ずるものとはいへども、檜の樹の小枝は生ぜすして頓て常の椿に戻れり、希異といふべし、案ずるに是尊霊の悋ませたまへるにや、又草木こんなしとはいへども稀に台廟の御尊霊を畏れて元樹の如くに生ぜざるものと見えたり、天下の霊樹といはん歟、若此樹の接木にて栄え又實生にて成木に及びなば、植木をひさぐの徒は、千金を得べきに最残多し、但し此名木の外に生ぜず、種類のなきを以て、いよいよ尊霊のいますが如さ御威徳を仰ぎ奉るのみ、予先年故ありて彼樹の小枝一もとを得しまゝ、大切に筥に藏して家宝となせり、依て今その小枝の様子を生写にして、左に図して知らしむ、件の檜の樹椿、今になほ繁茂して御魂屋の外駒よせの左右に存す、諸人直に見てしるべし、又此外には御霊屋の内に朝鮮國王よら献上せし干満の石の御手鉢と号するあり、是は潮の満る時節到れば、手水鉢の中水、白然に湧出してあふるが如くに水堪え、又引潮の時節に至りては、水又自然に枯晞きて、纔に底にありて、潮の干満をしるの名石なり、或は世上に名たゝる羅漢石などの名物数品ありといへども、霊廟の御内なれば恐れみて爰にしるさず、唯ひの木椿のみを擧て余は秘するもの也、予過し壬申の彌生、佳職を譲り隠者となりてより、花にもみぢに遠近に杖を引古跡名所をたづね、就中風景の土地に遊びて、天元の数を養はんとす、性質下戸なれば酒に憎まれ、牙歯なければ萬の美食に疎まれ、只茶具の骨董袋を携て諸方に遊歴するまゝに、見捨てんは本意なれば、覚書同様にしるし置のみ、但し寺社の由緒、古器、品物等もあらましにて載て、風色になぐさむ事を要とせり、くはしき事は後人の穿鑿家に譲て述せず、彼檜の樹椿の図左のごとし。」とある。
このツバキは、芝にある三緑山増上寺の名木。この寺は御存知のように徳川家の菩提寺として有名だが、その境内、台徳廟の霊屋のそばに、「檜(ひのき)椿」と呼ばれる大木が二本覆い茂っていた。木の高さは六尺足らず、二本とも各々丸く刈り込まれている。そして不思議なことに全体としてはツバキの木でありながら、「丸葉の下または小枝の股より檜の小枝一もとずつ生せり」というようにヒノキでもあった。作者が描いた図を見ても、単にツバキの変種といった類のものではないことがわかる。また彼の解説によれば、この「檜椿」はもともと台徳院がとりわけ可愛った木であり、院の遺言によって増上寺に植え替えられたものだという。極めて珍しい木なので、やれ挿し木だ、やれ接木だ、それでもだめなら実生から芽を出させてみようなどと、大勢の人々が様々な方法を試みたがことごとく失敗に終わった。そうしたことも手伝って、「天下の霊樹」との呼び声が高まったという。十方庵主もこの名木に強く惹かれたようで「先年、故ありて、かの木の小枝一本を得しまま、大切に箱に蔵して家宝となせり」と書いている。天下の霊樹を無断で折ったわけではないだろうが、株ならともかくたかが小枝一本を「家宝」と崇め奉っているのが、おもしろい。(図はその時の小枝を模写したものである)
次は「参拾四」の「下総葛飾郡本郷村賓成寺のツバキ」
「下総葛飾郡本郷村賓成寺(曹洞)は、法花經寺の東六町にあり、街道の路傍の北側に葛飾大明神へ是より三町と刻せし建石ありて、北へ入る事壱町餘にして賓成寺にいたる。此寺尾州の長臣成瀬隼人正の菩提所たり、爰に名高き椿あり、樹の高壱丈根もと三莖にわかれて、上へ眞直に行儀よく成木し、三株合して太さ九尺余廻り四方へ繁茂せし事拾余間、その形丸く恰も笠鉾の如し、双方へ丸くコンモリと枝葉はびこるを以て、樹の丈高からず見ゆれど、隼人正の持鎗を隠すに、穂先の鞘さらに出ずとなん、爰を以て樹の低からざるを察すべし、本堂の前唯此椿の木のみにて余木なし、花は侘助といへる花形に似て小さく、紅の中にちらちらと白き斑ありて、花形は八重に色は燃るが如く、古今の名木たり、むかしよりかゝる大木の名花は見えざりし、彼俳諧に名たゝる素丸老人は、此椿を五百機と號けられしよし住僧のものがたりき、此寺小院の貧院なれども、此椿あるが故に名高く、雅客文人爰に來り僧房に、宴をもふけて日終いそがはし、然るに惜い哉四五年以前の大雪に、枝折木いたみて枯たり、しかれども今なを本堂のまへに、伴の椿の枝々を伐詰、横にして植たりしに、枝により葉生じ、花わづかに咲て今も存す、尤むかしの景木に似ずとはいへども、花は今も年々咲く、好事の雅人行て見るべし。」とある。
・『江戸名所図会』
『江戸名所図会』は、江戸市中から近郊の名所を描いた名所案内である。天保五年(1834年)・天保七年(1836)に刊行(全七巻20冊)された。ツバキの名所として特筆すべき絵はないものの、ツバキらしき樹木は見られる。その中で、確実にツバキと記された絵に、前記の賓成寺のツバキがある。この絵には、山門と本堂の間に「椿」と書き込んで、ツバキの木が描かれている。
「下総葛飾郡本郷村賓成寺(曹洞)は、法花經寺の東六町にあり、街道の路傍の北側に葛飾大明神へ是より三町と刻せし建石ありて、北へ入る事壱町餘にして賓成寺にいたる。此寺尾州の長臣成瀬隼人正の菩提所たり、爰に名高き椿あり、樹の高壱丈根もと三莖にわかれて、上へ眞直に行儀よく成木し、三株合して太さ九尺余廻り四方へ繁茂せし事拾余間、その形丸く恰も笠鉾の如し、双方へ丸くコンモリと枝葉はびこるを以て、樹の丈高からず見ゆれど、隼人正の持鎗を隠すに、穂先の鞘さらに出ずとなん、爰を以て樹の低からざるを察すべし、本堂の前唯此椿の木のみにて余木なし、花は侘助といへる花形に似て小さく、紅の中にちらちらと白き斑ありて、花形は八重に色は燃るが如く、古今の名木たり、むかしよりかゝる大木の名花は見えざりし、彼俳諧に名たゝる素丸老人は、此椿を五百機と號けられしよし住僧のものがたりき、此寺小院の貧院なれども、此椿あるが故に名高く、雅客文人爰に來り僧房に、宴をもふけて日終いそがはし、然るに惜い哉四五年以前の大雪に、枝折木いたみて枯たり、しかれども今なを本堂のまへに、伴の椿の枝々を伐詰、横にして植たりしに、枝により葉生じ、花わづかに咲て今も存す、尤むかしの景木に似ずとはいへども、花は今も年々咲く、好事の雅人行て見るべし。」とある。
・『江戸名所図会』
『江戸名所図会』は、江戸市中から近郊の名所を描いた名所案内である。天保五年(1834年)・天保七年(1836)に刊行(全七巻20冊)された。ツバキの名所として特筆すべき絵はないものの、ツバキらしき樹木は見られる。その中で、確実にツバキと記された絵に、前記の賓成寺のツバキがある。この絵には、山門と本堂の間に「椿」と書き込んで、ツバキの木が描かれている。
・『江戸白金植木屋文助筆記』
文政十二年(1829)に記された『江戸白金植木屋文助筆記』に、肥後椿(ヒゴツバキ)30品、鉢植え培養法が書かれている、と言われている。この筆記の実物を見ていないのでよくわからないが、肥後椿資料中の最古のものとされている。
文政十二年(1829)に記された『江戸白金植木屋文助筆記』に、肥後椿(ヒゴツバキ)30品、鉢植え培養法が書かれている、と言われている。この筆記の実物を見ていないのでよくわからないが、肥後椿資料中の最古のものとされている。