『山科家礼記』に登場する植物・その1

茶花    34 茶花の種類その31
『山科家礼記』に登場する植物・その1
  『華道古書集成』をもとに、花材に使用される植物を十八世紀後半まで見てきた。そこで、『仙伝抄』を初めとする花道書全体で、花材の種類がどのように増えたかを整理したい。ただ、『仙伝抄』が成立する以前にも花が活けられていたことは確かで、その当時の花材となった植物についても把握しておく必要がある。そのような資料として、応永年間(十九年1412年)から記されている『山科家礼記』がある。『山科家礼記』は、山科家の家司大沢久守が主として記した日記で、久守は立花の名手とされている。したがって日記には、当時の立花についての記述もあり、植物についての見識もかなりのものであったものと推測できる。
  そこで、『仙伝抄』以前に出現していた花材を探るため、『山科家礼記』に登場する植物を示すことにする。なお、『山科家礼記』は応永十九年(1412)から明応元年(1492)までの期間、欠落している部分がある。そのため、十五世紀の期間を正確に反映しているかという不安はあるものの、文明年間から延徳年間の十五世紀後半については比較的データがある。『山科家礼記』に登場する植物名は、食べ物や建築用材などを含めれば200以上あろうが、立花や庭園などで使用されたと思われるデータは約160である。
  記されている植物名が食べ物なのか、建築用材などを指すのか、それとも立花などに関連する植物なのか判断に迷うものがある。たとえば、文明十二年(1480)六月に「さゝけ」が3回出てくる。それも「一鉢」とあり、ササゲの鉢植を連想させるが、ササゲはつる性植物であり、立花や庭の修景に使用するとは考えにくい。そのなかには「禅宗さゝけ」と書かれているように、インゲンマメである可能性もあり、「さゝけ」は食べ物と判断した。その他にも、柿、栗、米、山葵、ワラビなどがあり、食べ物であるか、それとも立花や庭に生育する植物であるか判断には不安が残る。また、竹や松なども、建築用材として記したか否か判断しにくい記述がある。
  また『山科家礼記』には、植物名自体についても、それが植物名か否か不明な記述(例えば、貞享三年三月十八日「ホウトケ」など)がいくつかある。それらの判断は、『仙伝抄』などの花伝書や茶会記に登場しない植物名は、不明として省くことにした。現代の植物名については、『牧野新日本植物図鑑』(北隆館)、『樹木図説』(有明書房)などに記載されている名称を示す。以上から『山科家礼記』に出現する植物は、91種ある。
  次に、植物名を決定する際に迷ったものを示す。
・アヤメ(アヤメ科)
  『山科家礼記』の中でアヤメに関連しそうな記述を示すと、以下のように「しやうふ」「アヤメ」「ねしやうふ」等がある。
①文明十二年1480五月二日「十五文しやうふかう」
②文明十八年1486五月三日「シヤウフ十ハ、代十二文」
③長享二年1488五月四日「アヤメ、禁裏ハ御フキナシ」
④長享三年1489五月三日に、「しやうふ三十三文、ねしやうふ三文」
⑤延徳三年1491五月四日「しやうふゝき候」
⑥延徳四年1492四月十八日「心シヤウヒ・カキツハタ、御座花心ヒワノ木、物ノカフ・キンせン花・クナハクチヤウケ、又打置心檜木・キンせン花、クナキホウシノ葉、カラアヲヒ」
⑦延徳四年1492五月三日「しやうふ三十文」
⑧延徳四年1492五月五日「今朝シヤウフニテヤネフク、右衛門」
  以上の記述は、大半が五月初旬、端午節供に関連していそうだ。となると、この植物はサトイモ科のショウブではないかと推測される。なお、③長享二年1488五月四日に「アヤメ、禁裏ハ御フキナシ」と「アヤメ」と記されてはいるが、四日、節供にあわせて葺くのはアヤメではなくショウブである。したがって、この「アヤメ」は、ショウブの書き違いであろう。
  唯一、四月に記された「心シヤウヒ・カキツハタ・・・」は、立花についての記述である。この文中の「シヤウヒ」がアヤメであるかを検討する。まず、「シヤウヒ」は「シヤウフ」の書き違いと考える。「カキツハタ」と共に活けられていることから、「シヤウヒ」は花の美しいアヤメの可能性が高い。花としてあまり見栄えがしないショウブを使用したとすれば、葉を加え「シヤウヒ葉」と記されているはずだ。したがって、立花に使用された「シヤウヒ」はアヤメである可能性が高い。
  次に、④長享三年に「しやうふ」と「ねしやうふ」の記述がある。「ねしやうふ」という植物名はない。ショウブの根には、薬効・芳香があり、根のほうにより着目していることから、「ねしやうふ」と書いたのだろう。ショウブとショウブの根の両方を購入したものと考えられる。
  以上から、植物名を推測すると、アヤメは⑥の立花に使用されただけで、他はショウブであると判断した。
・ウメ(バラ科)は、応永十九年1412二月十九日などに「梅」「紅梅」とある。ウメの種類は多く、細分化されている。ここでは、総称名してウメとする。
・カイドウ(バラ科)は、長享二年1488二月十九日に「カイタウ」とある。カイドウは総称名で、ハナカイドウ、ミカイドウ、ノカイドウなどの種がある。「カイタウ」は、たぶんハナカイドウと思われるが、確認できないので総称名であるカイドウとする。
キンセンカ(キク科)は、文明四年1472二月廿三日などに「きんせん花・キンセンクワ・キンせン花」とある。なお、このキンセンカは、現代のキンセンカとは異なる。トウキンセンカであろうとされているが、『当世垣のぞき』の記載によれば、キンセンカは2種あるとされ、どのような植物か確証できないので、これまで茶花や花材で使用してきたキンセンカとする。
・サクラ(バラ科)は、文明十三年1481二月廿三日などに「しなの桜・桜」とある。サクラは、ヤマザクラを初めとするサクラ類の総称である。「桜」などがどのような種を指しているかわからないため、サクラ類の総称としてサクラを使用する。
ツツジツツジ科)は、延徳三年1491二月廿四日などに「ツゝシ」とある。ツツジの種類は多く、種類については不明なため、ここでは総称名のツツジとする。
・ツバキ(ツバキ科)は、貞享三年1489三月十八日などに「八重椿・白椿・タマツハキ」とある。ツバキの種類は多く、種類については不明なため、ここでは総称名のツバキとする。
・ハギ(マメ科)は、延徳四年1492二月十五日に「ハキ」とある。ハギの種類は多く、種類については不明なため、ここでは総称名のハギとする。
・バラ(バラ科)は、貞享二年十月十四日などに「シヤウヒ・イハラ・白チヤウシユン」とある。これらの名前から現代名を判断することは困難で、ここでは総称名のバラとする。
・ヒバ(ヒノキ科)は、長享二年1488正月十日などに「ヒハ」とある。これをヒノキの葉と読むこともできるが、延徳三年1491四月廿二日に「心ヒハ」ある。「心」が「ヒノキの葉」と言うことはないと思われ、「ヒハ」はヒバであると思う。
・マキ(マキ科)は、長享三年1489六月廿五日に「マキ」とある。なお、マキにはイヌマキラカンマキ、コウヤマキなどの種類があり、科名も異なる。「マキ」だけでは決められないので、総称した名称としてマキを使用、また科名もマキ科とする。
・マツ(マツ科)は、延徳四年1492正月十八日などに「まつ・松等」とある。マツもアカマツクロマツなどの種類があり、「まつ」「松」では決められないので、総称した名としてマツとする。
・ミカン(ミカン科)は、文明十二年1480二月十七日などに「蜜柑」とある。「蜜柑」がどのような種か決められないので、総称した名としてミカンとする。
・モモ(バラ科)は、応仁二年1468三月二日などに「桃花・桃」とある。このモモは、実ではなく花を観賞するモモ、すなわちハナモモの可能性が高いが、判断できないため、総称名としてモモとする。
・ヤナギ(ヤナギ科)は、応仁二年1468三月二日などに「柳・ヤナキ」とある。ヤナギの種類は多く、どのような種のヤナギであるか決められないので、総称名としてヤナギとする。
ユキヤナギバラ科)は、延徳四年1492三月十五日に「庭柳」「庭ヤナキ」とある。ここでは、次に検討する『尺素往来』に「庭柳」が記されており、この当時、ユキヤナギは「庭柳」として通用していたものと考えられる。ただ、ユキヤナギの初見は、『草木名初見リスト』(磯野直秀)によれば1698年『花譜』である。『山科家礼記』の2世紀も後ということから、「庭柳」をユキヤナギと断定するには、かなり問題がありそうだ。しかし、花伝書池坊専応口伝』(十六世紀前半)に、「米柳」という名の花材があり、ユキヤナギを指している可能性が高い。次に出てくる花伝書として、『立花大全』(1683年)があり、「岩柳」はユキヤナギを指しているだろう。一方、茶会記としては『松屋会記』(1627年)に「岩柳」があり、これはユキヤナギを指しているものと考えられる。
なお、『いけばなにみる日本文化』(鈴木栄子)では、「庭柳」を「庭の柳」とヤナギとしている。これを庭に生育しているヤナギと見ることもできるが、『山科家礼記』の文中で、植物名の前に「庭」の付くのは「柳」「ヤナキ」以外にない。庭に生育する植物を使った場合は、「南庭木椿中コシノ一本、タマツハキ一本」「御庭之樹之御用」という表現をしている。その他には、「庭○○」という記述はなく、なぜヤナギだけに「庭」を付けるか不可解である。やはり、「庭柳」は「庭の柳」ではなく、植物名と考えるのが妥当であろう。