★安永五年七月~十二月

江戸庶民の楽しみ 41
★安永五年七月~十二月
★七月
十九日○明六より浅草参詣(略)挑燈にて出谷中にて挑燈を消す、上野本堂矢来の内蔓艸高く東側林中樹をまろハし縄をはりて行人を駐め雲水塔の方一道を開く、三河屋に休み(略)御堂内を行直に参詣、帰掛に因果地蔵拝し伊せや迄来る、鄽上客多き故境屋へ引かへし休む(略)帰路別路をとり風神門にて夏菊買ふ、日出甚あつし、車坂下にて五の鐘聞へ五半頃帰廬
 この年の七月は、「朔日田らしい。今朝も冷気」「二日 今朝綿入」「六日 今朝又冷気」と涼しかったようだ。そのためか、信鴻の出歩きも少なく、江戸の町も人出は少なかったのではなかろうか。それでも、『武江年表』には「七月朔日より、永代寺飛来八幡宮開帳」が記されている。また、市村座の「菅原伝授手習鑑」が大入りであった。信鴻は翌月観劇している。
★八月
三日○五前より油島参詣(略)法住寺前にて五の鐘聞ゆ、笠守参詣土団子備へ感応寺中より上野へ入、中堂と吉祥閣(略)山門東側本覚院に大師有れハ直に参詣(略)清水へ詣舞台損し縄張、直に中町(略)油鳥参詣(略)根津通りへ(略)世尊院前より身代地蔵参詣、土物店より帰る、根津杜内にて四の鐘聞ゆ
八日○七過より(略)大沢辻(略)山王山にて権兵衛帰、路次より坂を下り円勝寺前(略)昨日より彼岸故也・石仁王脇に仮屋を造り村嫗集り弥陀堂再建の勧進す、僧幟を持し勧進す、余楽寺内売物等賑たれハ参詣参りの人多し、晩鐘聞ゆ、青松寺に入南門外桜やに休む(略)六ツ時起行、挑燈を付暮過帰廬
十三日○五半より浅草参詣(略)富士前(略)谷中門(略)屏風坂にかかる、屏風坂下(略)御堂内より行、田原町(略)山裏へ行、千体地蔵(略)御堂にて賓頭盧右之手足を撫おかね願を掛(略)車坂より入中堂前にて九ツの鐘聞ゆ、谷中口観成院(略)大師来由動坂花や(略)九半前帰廬
十四日別録○市村坐頑要
○(略)六半頃(略)油島参詣(略)昌平橋より小柳町(略)お玉が池へ曲る。新材木町より行。門之助住居の跡へ、女力持友世芝居を出す松屋へ行。無程住等来。幕明由云故行。八蔵等出。未前狂言なれ。(略)四過より幕明(略)表題 菅原伝授手習鑑
十七日○九過より(略)富士裡より行、瘡守参詣おかね出来物愈るゆへ団子を供し感応寺内より行屏風坂にかかる、三河やに休む(略)御堂前にて八の鐘聞え直に参詣(略)因果地蔵へも参詣(略)広小路藤やへ蕎麦あつらへに遣し無程起行(略)黒門へ入諸堂悉修復の容子也、帰りて聞けハ少し前七の鐘うちし由
 信鴻の八月は、5回出かけている。油島と浅草などといういつもの場所である。特に注目する記述はないが、「女力持」と「菅原伝授手習鑑」など当時の関心事を記している。
★九月
三日○五ツより他行(略)土物店より伝通院内(略)牛込御門、御厩谷、平河参詣(略)一ツ木町、今井谷、氷川、市兵衛町、六本木へ(略)長坂通より新堀へ参(略)中橋より切通し、大名小路幸橋門前、土橋、猿屋へ七比行(略)中橋(略)日本橋(略)筋違(略)油島坂下大樹雨沛然(略)五半前玄関より帰る
十一日○七ツより珠成同道油島参詣(略)前田の門(略)加賀裏へかかる(略)油島芝居修復(略)人群集分かたく普請揚わきを廻り参詣、伊勢屋に休む(略)中町(略)広小路梅本に休み山内(略)宝光堂参詣(略)法住寺(略)六の鐘聞へ動坂花屋前にて上野の六聞ゆ、御鷹部やにて挑燈つけ六過かへる
十四日○九半前(略)神明参詣、裏より谷中通り谷中門内大師にて煙を弄す、男女行人夥し、屏風坂(略)塗中甚賑也(略)浅草大神宮に雨宝童子大幟二つ建大に群集也(略)地蔵参詣、直に観音(略)今戸へかかり真崎手前より宗仙寺道へかかる(略)田中より白玉やへ立寄鄽婆を伴ひ大門に入、俄祭を見る、未初らす大門内大に群集(略)六半程過て祭り江戸町より来り会所の前にて芸をなす(略)金杉石橋わき(略)三島大明神の大幟を建、伶人町迄群集分かたし、感応寺脇にて五ツの鐘聞へ五半前帰家
廿一日○九ツより(略)土物店より行、白山かけ祭、町々大幟を建、居家台二所太鼓を打、伝通院(略)龍慶僑(略)神楽坂上藤の茶やに休み魚町より南折、菊店下、御徒士町、加賀屋敷、河田か窪月桂寺へ入、松竹庵(略)尾公下館より高田へ出、雑司谷参詣、梅原を先へ茗荷屋へ遣す、鷺大明神拝す、茗荷屋(略)七半過起行(略)猫また橋より暮時かへる
 九月は、観劇が三日・十三日・十六日・三十日と4回もある。出かけた先で注目したのが、十四日の吉原の「俄祭」である。それは、「第一番家台草摺引」「第二番屋台琴責」「第三相撲」「第四樋口逆櫓場」である。信鴻は、大賑わいであったことを記している。その他の事として、浅草寺境内での水茶屋・団子茶屋の営業が許可される。(『江戸東京年表』より)
★十月
十二日○九時より雑司谷へ行(略)和泉境より四郎左衛門菊を見(略)大塚町より護国寺外を行、爰より人行多し、藪そは辺より群集、鳥居内人叢分かたし、鷺明神拝し鬼子母内陣へ通り(略)茗荷屋客夥し(略)大道甚群集、上の茶屋にて太神楽舞ふ、八半比より次第に人去七比甚少く成、茶屋混雑ゆへ七比そは出来七過起行(略)本道より目白へ掛り不動拝し音羽(略)原町より暮時かへる、
十七日○四時より吉祥寺法問聞に(略)行掛寮を廻り墓所を見大沢の墓へ参詣あり、四半前頃出家案内にて本堂翠簾の内へ(略)九前法問すむ、茶烟を出す、大旭へき上堂目録遺す、九頃帰廬
廿二日○九少過(略)浅草参詣(略)上野屏風坂より出三河屋茶屋(略)浅艸広小路手前にて駄さわき往来の婦人道を避く、因果地蔵参詣、直に観音を拝し御堂廻り伊勢屋に休む(略)新堀橋(略)車坂より入本堂脇御本坊大師へ詣、感応寺うちより裏門へ出浜田や(略)晩鐘に起行(略)日暮里へ掛り門鎖故裏を廻りかへる、動坂田畝にて狐走る、御鷹部屋にて六の鐘聞え、挑燈つけ六過帰廬
廿八日○四時(略)土物店より堺町へ行、油島へかかり聖廟拝し(略)昌平橋、お玉か池より新材木町新道路次より松やへ(略)看板両坐共かかる、見物多し、爺橋(略)あらめ橋、江都橋、本材木町、新場の橋より九鬼館前、牛尿橋より本多前、采女か原北の橋より行、木挽町(略)昌平橋より猿屋へ七前(略)南行新橋へ(略)河岸通り(略)今川橋葛城茶屋に休む(略)下駄新道へ(略)目赤前にて挑燈つけ六時に帰廬
 この年の十月は、十日に小雪が降るとのこと、寒かった思われる。信鴻は、菊見に出かけたのは1回だけ、寒さもあって全般に人出があまり多くなかったかもしれない。雑司ヶ谷や浅草などもそこそこの人出はあるものの、例年のような賑わいはなかったと推測する。なお、深川八幡で勧進相撲が催されている。
★十一月
四日○九過より二児同道浅草(略)車坂へかかり戸繫いせやに休み地蔵参詣(略)御堂廻り裏門(略)聖天参詣(略)墓所高尾墓(略)団左衛門表門より入裏へ抜け浅芽原へ出、真崎(略)稲荷の内を通る仙石や(略)没日前起行(略)火除石橋にて六の鐘聞(略)金杉にて追つく(略)感応寺内より六半前帰家
七日別録○森田座頑要
十一日別録○市村座頑要
廿日別録○中村座頑要
廿二日○九前より(略)吉祥寺(略)加賀わき、湯島参詣、伊勢屋に休み、女坂(略)広小路東橋より藤屋わき竹町山下弘徳寺前へ出、御講ゆへ塗中群集、御堂内へ入、普請小屋建、御堂へ入、人叢分かたし(略)地蔵参詣、西宮稲荷(略)観音へ詣奥山にて明石反畝を眺望し(略)広小路にて鼡の芸をする見せ物を(略)田原町(略)車坂より(略)御手鷹町へ入り動坂上の辻番前へ出帰る
廿五日○九過より湯島参詣(略)本郷にて真光寺天神へ詣、南門へ出、湯島切通しにて篠原みうき団子買ひ直に参詣、伊せやに休む(略)女坂より行、坂下(略)広小路梅本留守ゆへ春日野に休む、五条天神へ詣、(略)山下にて南京操を山りよと見る、幕引ゆへ忽出車坂よりかへる、谷中門内(略)八半過帰廬
 この月の信鴻は、観劇に3回も出かけている。注目するのは十一日の市村座、『姿花雪黒主』は大入り大当たりで、歌舞伎の演出の一つ「だんまり」の初めといわれている。十一月の江戸市中は、冬ということもあって人出は多くなかったと推測される。なお、この月の出来事として、平賀源内がエレキテルを完成したこと。琴・三味線・鍼治・導引を生業との営業が許可する盲人は全て検校(ケンギョウ)支配下になる。
★十二月
四日○九少前(略)谷中通塗中にてはつち綻る故屏風坂より山、山下車坂外奇応丸看板出したる薬やへ立寄着替、直に観音へ(略)参詣(略)帰掛いせ屋に立寄休む(略)田原町具服屋前(略)三河屋休む(略)彼処より梅原を広小路(略)黒門より入(略)鐘楼前を通る時七ツの鐘聞ゆ、谷中口より暮少前廬
九日○四半過(略)谷中通り上野へ入、荷ひ堂前より車坂(略)柳稲荷三河屋へ(略)浅草参詣、人甚少し、裏門より馬場(略)三辻にて左行、聖天を拝し(略)新鳥越寺町より団左衛門裏門前畔道(略)白玉やに少休み、山伏松通り、根岸(略)弘徳寺うら暮時帰廬
十五日○九頃(略)加賀前より湯嶋参詣(略)御成小路、筋違橋、柳原、初の町(略)人形町へ出、堺町(略)小網町、箱崎(略)永代を渡る(略)新材木町より帰路例の通・伝馬町(略)お玉か池(略)柳原(略)昌平橋(略)天神の崖道(略)意成院前にて北行西行(略)加賀脇森田屋水茶や(略)門を入時六の鐘聞ゆ
十七日○四過より市へ行(略)御鷹部や(略)動坂花や(略)谷中門(略)山内も行人多し、荷堂前へかかる、車坂を下り山下角より大に群集す、左右売物鄽多し、三河屋に休み無程起行、御堂前より人叢夥し、広小路にて売物鄽の北裡を行、大神宮門より入人にもまれ行、大群集也、左右皆鄽出直に参詣、西の欄干より堂前鄽売物を見る、堂後より下り濡仏前水茶やに休む、人叢甚多し(略)蝦蟆見せ物を見る(略)稲荷わき(略)寺町へ出、花川戸町へかかれハ行人甚少し(略)吾嬬橋脇へ出、風神門前群集押分かたし(略)田原町二町目をぬけ(略)弘徳寺前にて(略)車坂より又人行少く平常よりハ少多し、御門主前より行、感応寺内(略)いろは角よりかへる、帰慮七半頃
十九日○九時り(略)土物店より(略)伝通院うち卓蔵主参詣、牛天神前、諏訪町、とんと橋(略)御堀端より市谷参詣、茶木稲荷へも寄(略)尾公裏直行、根来百人町より願満前、高田西すへの茶屋に休み雑司谷参詣、内陣へ入、茗荷屋(略)七半頃起行、藪そはより野通り大学うら、猫また橋、和泉境にて六の鏡聞ゆ、挑燈青原町にてつけ六過帰る
廿二日○四半頃(略)加賀脇より湯島参詣(略)昌平橋より直行、蝋燭町、富永町、神田僑河岸より一石橋(略)常盤橋(略)山下門(略)塩留より直行、脇坂前(略)増上寺表門(略)赤羽門より出、中の橋より新堀へ(略)西久保杣良前より虎門(略)内桜田より西丸下、和田倉、神田橋、三河町にて黄昏、稲葉脇にて佐竹侯被帰迹につき行、昌平橋より帰る、木食寺前にて六の鐘(略)帰廬六半比
廿五日○四半過より湯島参詣(略)富士脇(略)千駄樹(略)広小路梅本に休む、無程起行、中町(略)女坂より参詣、伊勢やに休む、鄽婆在、梅鉢植を見裏門より加賀わき追分にて八の鐘聞ゆ(略)八半前帰廬
 十二月としては暖かったとみえて、信鴻は7回も出かけている。そのなかで注目するのは、十七日の午前10時頃から出かけた上野や浅草の市である。ずらりと並んだ多くの店に大勢が押し寄せている様子が読み取れる。年の瀬の買い物であろう、市の活気は江戸が平穏で、庶民はそれなりの生活を営んでいたものと推測される。