★安永七年一月~三月

江戸庶民の楽しみ 45
★安永七年一月~三月
★一月
 三日○四半頃(略)土物店より湯島へ行、塗中礼者多し、湯島伊勢屋(略)富札百枚求め(略)中町より山下弘徳寺(略)塗中市の如く群集、今日大師参、ことに甲子護国院(略)浅草参詣、(略)馬道より聖天横町、新鳥越橋(略)真崎(略)角町へ(略)越前屋向ふ蔦屋の前大黒舞来り見物分かたし(略)七半前頃起行白玉屋(略)金杉右橋(略)感応寺内より裏門へ出る、法住寺前(略)板倉前にて挑燈つける、首ふり上に雄島待居たり、酒井前にて六の拍子木聞へ六過帰慮
六日○九過(略)神明を過、東側植樹屋南側より左右皆回祿(略)目赤門本堂残り吉祥寺中門より本堂辺残る(略)土物店・肴店皆焼亡(略)油島へ行、伊勢屋に休み當の賈遣す(略)中坂より(略)昌平橋にて止、今川橋(略)新材木町、ふきや町(略)中村看板を見る(略)人形町(略)乗物町より堀留橋(略)七半前起行、二町目の横町へ出、富山丁通り、昌平橋、本郷、追分(略)福山侯裏門前より左右焼亡(略)暮時帰慮
九日立春○五半過(略)月桂寺・六本木(略)姫路侯館(略)原町中程へ出、四の鐘聞ゆ、猫また橋より音羽町、関口橋を渡り早稲田(略)牛込七軒寺町禅宗宗参寺(略)柳町光徳院観音(略)月桂寺(略)合羽坂より尾侯わき、坂町、塩町より四谷御門(略)紀伊国坂(略)六本木深広寺・光専寺観音(略)六本木へ八時着(略)飯倉(略)長井町、切通、松山侯わき、酒駿河南の小路日蔭町より河岸(略)七半過五町目仮橋(略)中橋(略)日本橋(略)須田町より挑燈つけ六半過帰廬
十一日○九過(略)北郊閑歩(略)和泉境より巣鴨通り庚申墳(略)滝野川(略)王子鳥居前へ出、金輪寺内へ入庭を窺見、門前池上坊観音へ御経納め、飛鳥山下を帰る(略)龍志方へ行(略)滝の川手前にて八の鐘聞ゆ、帰廬八半過
十六日○九半過(略)恵方へ詣(略)表門より出(略)大番町(略)本郷三町目(略)真光寺天神へ参、裏門より出(略)油島(略)聖廟拝し、女坂より中町へ出、広小路にて梅鉢植二鉢買、六あみた(略)山下へ行、鶴市未初めさるゆへ又広小路(略)山門開くゆへ大に群集、瑠璃殿へ入廻廊廻り本堂を拝し、谷中口より感応寺内浜田や(略)日暮里養福寺観音(略)青雲寺うちより暮少前帰廬
十八日○九半比より浅草参詣(略)富士裏より行、神明参詣、屏風坂に掛る、山下より群集市の如し(略)三河屋(略)爰より塗中群集夥し、風神門わき太神宮へ詣、行人熟閙押分難し、直に参詣、堂西より奥山腰懸に暫休み芥子蔵鉄輸を切を少し見、弥惣左衛門稲荷三杜を拝し伊勢や(略)前路を帰る塗中猶群集、御堂前橋(略)山下へ出、竹町中程より六あみた辻へ出、植樹を見、ふし屋(略)広小路(略)黒門より入、大師参大に群集(略)吉祥閣(略)谷中門(略)池の端を廻りし由云(略)日暮に帰る
廿三日○九半前より下町へ(略)加賀裏板やにて板を見(略)湯島にて聖廟を拝し、伊勢や主婆在らす、わか松や少娘迎に出、直に鄽上に休む(略)雨脚見ゆるゆへ下町へ行事を止、女坂(略)中町(略)池端(略)首振坂(略)富士前(略)八半前帰廬
廿四日○四半過より上邸(略)土物店(略)加賀裏より湯島聖廟(略)駿河町より河岸(略)檜物町より中通りを行、巳町木戸(略)上邸へ出留守也、糟漬鮭の桶在、昨日上邸福引にて取(略)河岸(略)山下門より新道路次(略)備前町(略)塗中愛宕参詣、大に込合、市よりも夥く(略)横町(略)三嶋町通り、神明参詣通り、芝居町姫鶴屋(略)引立行所より一幕見る(略)今川橋(略)森川にて六半拍子木打(略)六半過帰廬
廿五日○九少前湯島参詣(略)加賀裏より行、直に聖庿拝し(略)広小路六阿弥陀わき水茶屋(略)長者町二町め(略)鳥越へ出、明神を拝す(略)西福寺裏門より入(略)お蔵前より小揚町(略)竹町中小路(略)又中町(略)女坂より上り又植木を見、伊勢屋に少休み、白梅鉢植を木俣に買ハせ(略)基賑ハし、海東禅窟前(略)真光寺表門より入、聖廟拝し本郷(略)土物店(略)円通寺文珠参詣、七半過帰廬
廿八日○九半頃より雑司谷参詣(略)和泉境(略)巣鴨、大原町(略)四方曠野(略)波切不動(略)上板橋大路(略)老農の前行するに逢(略)己か女を茗荷谷屋敷へ奉公に出し、今日下るゆへ道具を家へはこふにはや一返行て又行由、年ハ六十八(略)御鷹部屋前より村落(略)九郎僧(略)参詣余程有(略)茗荷屋(略)客多し(略)護国寺内安藤前、幽霊橋(略)礫川七軒町、大塚(略)大原町、西門より七半過帰る
 この年の正月は、10日も出歩いている。例年通りなのは、十五日に三河万歳が訪れたことである。三日に湯島へ、そこで「富札百枚求め」ている。六日は火事跡を尋ねる。九日は月桂寺と六本木などへ年始に、十一日以降は、湯島や浅草などへ物見遊山に出かけている。正月の町の様子がわかるもので、どこもそこそこの賑わいを伝えている。その他の事として、中村座で『國色和曽我(カイドウイロヤワラギソガ)』大当たりを取っている。
★二月
三日○四過(略)初午廻り(略)土物店(略)王子へ行人にて塗中群集(略)加賀裏に懸り湯島聖廟参詣、妻乞稲荷を拝(略)柳原、富山町、伝馬町より新材木町(略)楽屋新道より両坐稲荷町(略)松屋(略)中村看板不残懸る(略)市村外題看板計、爺橋、江戸橋、海賊橋南行、北八丁堀東行、稲荷橋稲荷参詣、甚群集(略)筑地、小田原町より筑地稲荷参詣(略)塩留(略)新銭坐(略)日比谷稲荷参詣、甚群集、烏森参詣(略)夷屋向の稲荷参詣、又猿屋へ行夕餉(略)銀坐一丁目横丁稲荷参詣(略)畳町新道一心稲荷参詣、弓町通りより行、檜物町お満参詣参詣、日本橋前稲荷参詣(略)本郷通り、筋違橋(略)七半過帰家
四日別録○森田座頑要
十一日○四半過(略)富士裏より谷中(略)行人甚少し、車坂より下る、三河屋茶屋(略)浅艸へ行、伊勢や(略)花川戸、吾妻橋にて、牧内膳奥方歩行(略)北本庄表町より東行、松倉町、横川町(略)ないり橋渡り植樹屋松を見、堤上より源兵衛橋、梅屋敷へ行、梅花満開遊人多し(略)亀戸参詣、左辺高橋屋(略)天神橋(略)廻向院前和泉屋に休み、両国(略)湯島見晴しより行、いせ屋に休み、加賀裏より幕時帰る
十五日○九過より涅槃会に詣(略)新やしき南植木やへ(略)大塚銀鵞館前より白山(略)伝通院卓蔵主(略)本堂涅槃拝し、御革笥町より護国寺へ行、参詣余程在(略)鬼子母神参詣(略)茗荷屋にて支度、客甚多し(略)目白道三逵にて水やしき坂を下り、音羽五丁めへ下り裏町を行、四丁過て本道へ出、猫また橋より七半比帰廬
十八日○九過(略)浅草参詣(略)屏風坂に掛る、元光院に大師移坐故塗中甚群集、三河屋(略)風神門内群集、見晴し茶屋に休み芥子の助を見る(略)伊勢屋(略)並木を三町下り、三軒町より御堂前へ出、山下迄行人夥し、山下より竹町へかかり、六弥陀横町(略)虎尾桜(略)買ハせ(略)中町通り、湯島伊せ屋(略)豆蔵会所前にて縄をつく手妻をして人立有、聖庿参詣、西門より加賀裏、本郷(略)光岸寺前帰廬六ツ時
二十日○九前より三児同道浅草真崎へ(略)富士前、谷中通(略)屏風坂、三河屋(略)田原町二町めに掛り直に参詣(略)奥山廻る、参詣大概、裏門より出海老屋(略)高道より聖天横町(略)穣多町内白山にて権現拝し(略)浅茅原(略)予ハ裏反畝より行、児輩ハ稲荷へ詣、仙石や(略)白玉やに休み(略)大雲寺前より帰る、安楽寺へ立寄本堂を見る、念経唱名の様子、感応寺うち瘡守参詣、茶屋にて烟を弄し暮時帰廬
廿五日○九半比より湯島参詣(略)土物店通り、聖庿拝し、若松やに休み、植木を見、伊勢屋へも立寄、鞍岡・石川・狩野を残し桜四本緋桃一本買ハせ、中町(略)二人雛鄽を諾所見、六阿弥陀わき水茶屋に休む(略)清水去十五日より開仮ゆへ拝し(略)彼岸明ゆへ辻々賑也(略)布袋堂より切通しを抜、余楽寺参詣、菓子売山参詣有、田はた右橋にて七の鐘聞へ、七過帰る
 二月に入り初午、信鴻は13以上の稲荷を訪れ、少なくとも9の稲荷を参詣している。稲荷橋の稲荷は「甚群集」とあるが、どこの稲荷も参詣者が多いわけではないようだ。十一日は今の暦だと三月九日、亀戸の梅屋敷は「梅花満開遊人多し」と記している。十五日は涅槃会、鬼子母神はそこそこの人出があったようだ。十八日、二十日は浅草へ、廿五日は湯島へ出かけている。まだ本当に暖かくなっていないためか、人出は多くないようだ。
 それでも江戸は開帳の季節を向かえ、『武江年表』には「○二月朔日より、浅草本法寺にて、佐波國塚原根本寺祖師開帳、○二月十二日、俄に大風起り、本石町より出火、霊岸島深川迄延焼、○小伝馬町千代田稲荷開扉、霊宝数多出して拝せしむ」とある。また、森田座で『妹背山婦女庭訓』「山の段」大当たりしている。信鴻も、四日に観劇し「桟敷大概の入」と記している。
★三月
四日○九半前(略)浅草参詣(略)土物店より加賀裏、湯島参詣、若松屋(略)池端町大槌屋(略)五条天神参詣、裏門よりぬけ山下(略)弘徳寺前へ出塗中往来多し、浅草伊せや(略)参詣、内陣にて拝し奥山を廻る、はなはた淋し(略)一月寺番所(略)田原町、竪町(略)山下浜田屋脇(略)竹町より三枚橋(略)池端の通りより広小路見ゆ(略)池端通り谷中より帰る
七日別録○市村座頑要
九日○九半過(略)土井上ケ地樹屋へ寄、円通寺(略)土物店より加賀脇、湯島参詣(略)伊勢屋(略)富番附とりよせ、今日ハ無所得(略)女坂より中町(略)六阿弥陀(略)三牧橋手前の小路より竹町、御徒士町(略)田原町二丁目に懸り、並木より観音へ(略)参詣、内陳にて拝し奥山(略)御堂脇烟袋屋(略)三河屋(略)竹町(略)池端より忍岡稲荷参詣、同所観音(略)紅梅満開可愛、護国院前より根津通(略)帰廬六過
廿一日○九半過(略)浅草参詣(略)日暮へ(略)遊人多し、青雲寺洞下(略)浄光寺内(略)感応寺内より行、上野うち甚行客多し(略)弘徳寺前群集三河屋(略)観音参詣、大に群集、奥山廻り伊勢や(略)吾嬬橋(略)水戸侯館橋(略)中郷如意輪寺観音(略)河岸へ出、同郷霊光寺観音同断、多田の薬師(略)芭蕉塚、百里塚(略)石原普賢院観音(略)両国橋を渡り、米沢町(略)横山町より新橋洞津侯前、佐久間町、御成小路へ出、金沢町より油島崖上(略)本郷五町め(略)六半過帰廬
廿二日○九ツ時より六本木へ(略)小石川伝通院内、隆慶橋、牛込御門、土堤側二丁行て左折、六番町通り、平河天神(略)十一日より開帳参詣多し、赤坂御門より河岸、赤坂三丁メ(略)氷川前、今井寺町大泉院観音拝し御経納め、市兵衛町(略)飯倉通西久保より玄杏方へ(略)大村横丁より片町、土橋、鍋丁通り、河岸を行、本丁より東折、金吹丁三町下り、今川橋手前へ出、昌平橋(略)五ツ前帰る
廿四日○九頃(略)川東遊行(略)加賀脇、油島伊勢屋に休み、中坂より御成小路、松下町、洞津侯脇、和泉橋、柳原(略)一ツ目手前船宿丸や(略)平駄二艘にて河岸より乗る(略)一目橋より羅漢迄乗る(略)羅漢を廻り本尊を拝し(略)又舟に乗、霊岸寺迄(略)船中にて疝気療治の事を問(略)永代橋(略)箱崎、稲荷堀へかかり、五井屋二階(略)上下客甚多く、芝居打出しより来りし客一杯(略)人形町より伝馬町、富山町、油島(略)五ツ少前かへる
廿五日別録○中村座頑要
 信鴻の三月のお出かけは、観劇2日を含めて5日。日記は、出かけ先までの途中の情景が丹念に綴られ、江戸の町中ウオッチングを楽しんでいる。四日の「児輩罵言」、九日の「縮緬着たる女連」、廿一日の多田薬師では「村童数十人縦横に馳遊ふ」、廿四日の「疝をもみて治する人」など、信鴻ならではの視点である。人出については、三月の初め、四日から少しずつ人が出始め、半ば頃から人出が著しくなったことがわかる。
 『武江年表』によれば、「○三月廿五日より、椛町平川天満宮開帳、○鳥森稲荷明神、春日明神別当快長院開帳、○三月、上野清水堂観世音本堂造立に付、開帳、○三田春日明科開帳」が記されている。信鴻も廿二日に、平河天神「十一日より開帳参詣多し」と見ている。また、「○相撲興行の日数、昔は晴天八日成しが、今年三月廿八日より、深川八幡宮境内においで、興行ありしより、十日と成し由、我衣に見えたり」とある。相撲人気の高まりを反映したものであろう。信鴻の四月朔日の日記にも、「深川相撲初り行へきや尋ね来」と記されている。