★安永八年冬・十月~十二月

江戸庶民の楽しみ 52
★安永八年冬・十月~十二月
★十月
三日○九半過より浅草参詣(略)富士前より行、首振坂宇平次菊を見、門前にてかば中菊を買ハせ直に預け、谷中門より入(略)常行堂に太師在ゆへ群集、車坂より下り浅草外繋伊勢屋に休み直に参詣(略)参詣多し、並木へ下り西福寺表門より入る(略)宝池院墓を拝し裏門より新堀浄念寺橋渡り立花表門通、竹町横丁(略)広小路植樹を見、松・八ツ手を買ハせ(略)藤やへ入る(略)植木ハ直に植木や屋敷へ持込せ(略)今日咀英蓬莱屋にて挿花会ゆへ行(略)池の端通りより穴稲荷参詣、観音拝し山内へ入る、太師群集、谷中門より出、首ふり坂にて預けし菊もたせ、六少過帰廬
七日○八前よりお隆同道雑司谷へ行(略)西門より出、二町計行て待合せ同道、佐太郎菊を見、四郎左衛門庭へ行(略)又五郎辻より市左衛門・権左衛門菊へ西行、稲荷小路の末より野へ出、野通り護持院脇へ出、護国寺観音参詣、堂右の茶屋に休み(略)裏門より坂上の寺の飾物を見、直に鬼子母神参詣(略)飾物を見廻る、枇杷新葉にて大龍の鱗を作り腹を裏葉にて作りたる好、大行寺不二白酒作物水を流し水車に臼を挽かせたる好(略)九郎僧挿花を見る二十瓶計、奥鞠掛にて三人僧俗交り蹴るを暫見(略)和泉屋に休み(略)外通り猫股橋より六半頃帰る
十一日○九過(略)高田の新不二、雑司谷へ行(略)猫また橋、大学裏護持院(略)音羽町より関口樋のわきへ(略)晒屋迄引返し早稲田通宗伯寺釈尊拝し、どゞめきより高田三辻へ出、新富士水稲荷に在(略)表門前に乞食、角低人集見る、爰をぬけ門前水茶屋に休む、爰より甚群集(略)馬場に遠的在、次第に人叢分かたし(略)鬼子母神堂熱閙ゆへ上らす、千年堂より飾物を見廻る、大群集(略)和泉屋へ行、間毎に客在(略)護国寺内より猫また橋通り暮比帰る
十二日○四半過(略)浄心寺参詣(略)土物店より湯島参詣、地蔵拝し伊せ屋(略)昌平橋より入旭山に休み、お玉か池通り、人形町より松屋へ(略)胥屋町にて坂東彦三見掛る、阿部、田沼館前の堀を埋ゆへ人歩縦横に土を運ふ、河岸通りを酒井前中洲を廻り新大橋館より浄心寺へ入(略)参詣多し(略)永代より箱崎小網町、貝杓子堀又堺町へかゝる、今日中村替役者附出(略)松屋鄽にも番附取散し(略)楽屋新道角利休蕎麦(略)河岸へ出れハ土持多く道へ土を落しあしき故乗物町より人形町直行、宮本町、松下町より堤へ出、昌平橋より湯島崖上へかゝり男坂伊勢屋に休む(略)西門より本郷通り富士前(略)暮前帰る
十七日○九半頃より浅草参詣(略)谷中通車坂門(略)広徳寺(略)寺内参詣多し、仁王門(略)参詣、直に拝し御手洗へ鰻放し、奥山廻り、大臣門内柳屋金二郎鄽(略)境屋に休む(略)太神宮前にて梅鉢うへ求めさせ(略)参詣夥し、君か蕃麦前(略)上野明王院もみの大樹を杣の梢にて伐を見る、人立有、観成院前(略)谷中口(略)酒井館前(略)七半比帰廬
二十日○九半より真崎へ行(略)谷中より瘡守稲荷参詣、感応寺うち芋坂(略)伶人町(略)戸田前(略)東河岸外石橋(略)土堤(略)白玉や江寄鄽(略)今戸町(略)真崎本道へ出仙石やへ行、上間西壁を障子に替へ庭を造り直す(略)団左衛門内通り聖天町浅草裏門より入、観音拝し、伊勢屋に休み(略)広徳寺前通り上野(略)千駄樹備後辻番前(略)動坂にて六つの鐘聞へ六過帰廬
廿三日○八過より湯島参詣(略)谷中通(略)上野江入車坂より出、弘徳寺脇雀屋茶屋へ行、鄽の後ろに三間に一間半の庭籠内に樹を植孔雀在、其外四十崔・豆廻山雀等在、腰掛ニツ下に泉水金魚を飼ふ(略)山下より広小路江出(略)中町通り女坂より上り伊勢屋にやすむ(略)聖庿地蔵拝し西門より出、本郷通り暮比帰る
廿七日○九半過境町へ(略)土物店より湯島へ行、天沢寺前にて五十余の老嫗六十許の老人の帯をつかみ罵詈(略)聖廟地蔵拝し中坂(略)筋違橋旭山に休み、鍋町にて乞食六部姿にて二人狂言し集り(略)今川橋渡り白銀観音参詣、堀留へ下り、新材木町より□屋町看板見る、表題吾妻森栄楠(略)群集境町同断、表題帰花英雄太平記(略)松屋へ(略)白菊蕎麦へ(略)お玉か池通り富山町(略)本郷通り肴店(略)吉祥寺(略)鰻堤(略)六半前帰る
廿九日○九半頃(略)木挽町へ行(略)土物店より本郷通筋違旭山にて休み、お玉か池、伝馬町より人形町(略)松屋鄽に(略)中村・市村看板を見、人叢難分、爺父橋より江戸橋材木町牛屎橋(略)猿屋へ祝儀遣ハす(略)花道新に出来、五丁目橋より通町へ出、中橋手前(略)今川橋村田やに休み(略)本郷通り目赤前にて六半拍子木聞へ半過帰廬
 十月は、三日・七日の観菊を皮切りに9日も出かけている。行楽シーズンだけにどこも人出があり、賑わった様子が記されている。十二日の日記にある「阿部、田沼館前の堀を埋る」は、『武江年表』の「○九月より十二月迄、小網町よろ甚左衛門町へ渡る、わぎくれ橋を壊ち、此處の堀を埋らる」と、同じ場所と思われる。
 二日は「大に曇昨夜より北風颯々霾降終日陰霾蒙々暮糠雨忽止雲冥々」とある。これは、『武江年表』の「○十月朔日夜より二日迄、灰雪の如く降る、大隅國櫻島焼たりしが其灰江戸迄も降りしといふ」であり、桜島の噴火の灰が江戸にまで届いたということ。
 なお十月には、深川八幡で勧進相撲が催されている。三月の浅草御蔵前八幡の勧進相撲と同じように、関脇・谷風梶之助が活躍していた。
十一月
朔日○四時(略)月桂寺、六本木へ(略)原町、猫また橋、音羽町、関口、早稲田、榎木町にて組町行抜、七軒寺町(略)月桂寺にて直に参拝(略)松井庵(略)合羽坂伊賀町原(略)紀伊国坂下二間目水茶屋に休む(略)本赤坂町(略)竹越前薬研坂三分坂上法安寺江立寄、観音拝(略)三分坂下寺にも観音有由ゆへ山門へ(略)檜屋敷裏門より入、英光院(略)小田原(略)飯倉より切通し光宝寺参詣、馬場より田村小路雲伯前より右折、日蔭町(略)さるや(略)通町今川橋扇屋に休む(略)駿河町(略)本郷通り六半過帰廬
三日○九半頃より浅草参詣(略)谷中通谷中口林光院大師参詣、塗中大熱閙、観成院(略)車坂より下る、寺町(略)三河屋に休む(略)直に観音参詣(略)伊勢屋に休み(略)山下にかゝり三枚橋(略)植樹を見、槙木に高田に直を付させ男坂へかゝる、地蔵、聖廟拝す(略)西門より本郷通りを帰る、初め行時瑠璃殿前にて八の鐘を聞、帰時七半過
六日○九半頃より浅草参詣(略)不二裏より行、首振を下りて塗好、上野にて新御庿の大石木遣音頭にて七十人計車にて引、屏風坂門より出、広徳寺前田原町二町目の小路より入並木へ出、造花屋へ(略)雪掛稲藁屋の島台あつらへ(略)浅草参詣、直に拝し御手洗へ鰻放す(略)楊枝屋金次郎鄽(略)伊勢屋へ休み(略)並木正直蕎麦へ(略)御堂前へ出、寺町(略)車坂より入六時帰廬
九日○五頃(略)白銀戸沢氏山館へ(略)白山より礫川通京兆館前(略)水道橋(略)大手(略)虎門へ出、西久保野村屋へ立寄休み(略)土器町、森もと町、中の橋黒田前より嶋津前綱坂(略)三田寺町大松寺観音拝し(略)林泉寺(略)長松寺(略)魚藍観音参詣(略)相模橋普請故仮橋を渡り光林寺参詣(略)長屋住居路次より入(略)蕎麦振廻(略)山有磴道を登り広尾を見晴し腰掛等有、又相模橋を渡り寺町より道朋町、四国町、将監橋、片門前より神明参詣(略)字田川町より新銭坐へ出、脇坂前(略)太夫の六へ行(略)一幕見る(略)さるやへ行(略)今川橋扇屋に休み(略)本郷通り追分(略)肴店手前(略)台所口より帰廬
十二日別録○市村座頑要
十五日○九半過より神田へ(略)本郷三丁目(略)神田明神前より髪置、帯觧にて大群集熱閙難分、杜前右側の茶屋に休む、男坂より下る、爰より人少し、湯島見晴しより聖廟参詣、男坂伊勢屋に暫有髪置参詣少し、地蔵拝し女坂より榊原前恨津へ行参詣なし、世尊院前よりお鷹匠後ろ神明へかかる、飴売の荷計有て人なし、七少過帰る
十九日○九過より(略)浅草参詣、谷中通(略)車坂より行、御堂前(略)今日参詣甚少し、直に薩埵拝す、仁王門修復出来(略)海老屋に休み・堂左溝尺場の後暢枝や新兵衛(略)並木造華鄽(略)並木を下り白翁窓前(略)西福寺参詣(略)裏門より三絃掘へ(略)松坂屋裏より男坂油島参詣、聖庿・地蔵を拝し西門(略)七半前帰る
廿三日別録○森田座頑要
廿五日○九時より(略)土物店より行く、直に聖庿拝し男坂上伊勢屋に休む、おきよ在甚賑也、女坂より下り中町通(略)山下より広徳寺前塗中甚群集市の如し、御堂内大熱閙、裏門へ出報恩寺裏門へ入、爰も甚込合、表門へ(略)二丁目中小路へかかり、並木扇屋前へ出鄽江立寄(略)戸繋伊勢屋に休み直に参詣、寺内大群集、縁日より夥し(略)此比子供芝岩初り基賑し、前路を帰り藤屋へ(略)帰路も甚往来繁し、車坂より入いろは(略)帰廬七半頃
廿七日別録○中村座頑要
廿九日○九過より薬研講不動参詣(略)土物店より湯島参詣、地蔵も拝す、男坂伊勢屋に(略)中坂より長者町、新橋、富松町、横山町、不動参詣(略)塩町通より河岸江つきお玉か池へ出、市川染五郎見掛る、素外前より柳原へ出、筋違内朝日山に休む(略)神田坂下常州屋(略)本郷通り六丁目(略)七半過帰廬
 十一月は、観劇3日を含めて10日も外出している。観劇は、3座全てを見ており、なかでも中村座の「帰化英雄太平記」が一番の大入りだったとある。なお、この月には、団十郎中村座へ、幸四郎市村座に移っている
 この月で最も人出があったのは二十五日で、湯島はもとより、浅草は「山下より広徳寺前塗中甚群集市の如し」と上野から賑わっていた。十一月のイベントとして思い浮かぶのは、酉の市がある。酉の市については、いろいろな資料があるものの、私には信頼できる根拠が希薄である。信鴻は、当時の行事には関心が高く、これが酉の市であればその旨を記していたと思われる。
 たとえば十五日、信鴻は神田明神へ出かけた。「髪置、帯觧」とあり、これは七五三の儀である。その由来は諸説あり、五代将軍綱吉が三歳の徳松に、髪置の儀を行った日が十一月十五日で、それが習わしの起源らしい。また、神田明神で、社頭で祝い飴を売り、それが千歳飴発祥ということも由来を強めている。当日は、「大群集熱閙難分」ということから大変な賑わいであったのだろう。これまでの信鴻の日記になかったことから、彼の身の回りでは、七五三の祝いを神田明神で行うことをしなかったのではなかろうか。神田明神での行事は、江戸庶民のあいだで盛んだったのかもしれない。
★十二月
五日○九時より浅草参詣(略)谷中通、大円寺前(略)車坂より行(略)戸繋伊勢屋に休む、直に参詣、旗本衆奥方と見え十人計来る故先へ抜、内陣込合ゆへ直に出、御手洗へ鰻放し(略)前路を帰る(略)上野へ(略)世尊院前へ掛る、大観音にて七の鐘聞え七過帰廬
六日○九半過(略)谷中通、上野大師へ行、今月袋谷観了院に在、黒門を出、六阿弥陀わき町家に八人芸坐頭川島亀井今芸初る由人立故入て見る、初式三番次に浮世物真似・雀躍済て台の上へ出、目前にて三絃ちやん切、大太鼓、小太鼓、笛、鼓の芸をなす、見物二三十人、七の鐘聞へ中町通、女坂より湯島参詣、地蔵も拝し西門を出、森田屋へ休み、本郷通七半過帰る
十八日○四半(略)市へ出(略)富士前名倉橡(略)山内大師にて賑し、車坂門(略)山下より大群集ながら押合程にハなし、三河屋に休む(略)風神門より熱閙例の如し(略)矢大臣門より入る(略)六角の西榎樹下の水茶屋に休み(略)奥山廻り新門より(略)大熱閙並木四辻大に押合、並木を下り蔵前にて塗中こます、安南方へ立寄浅草見附より行人少し、薬研堀より村松町、長谷川町白菊二階へ行(略)乗物町より新材木町お玉か池、柳原、昌平橋(略)筋違橋より出、湯島へかかり、崖上より聖廟花表前にて遙拝し本郷より帰る、吉祥寺前にて六の鐘聞え、門前銭湯にて米叔を遣ハし奥口より帰る
二十日○九過より上野中町卵麺新鄽へ行(略)神明より御鷹匠町の裏、世尊院前、谷中通上野(略)黒門(略)広小路にて難波紅梅鉢植買ふ(略)中町筆や喜四郎西隣卵麺そはへ(略)主婆三十計直に蕎麦出す、甚佳品(略)湯島女坂より男坂上伊勢やに休む(略)地蔵・聖廟拝し(略)本郷通り七過帰る
廿二日○九時より浅草参詣(略)富土裏より谷中通り、車坂より行、直に観音参詣、懐中箸求め御手洗へ鰻放し前路を帰る、三河屋に休む(略)若松屋鄽娘も来在て茶を運ふ、山下より広小路福寿草買ひ、中町手打そはへ行蕎麦喫、女坂より湯島聖廟・地蔵拝し西門より出、七半頃帰廬
廿四日○四時より上邸(略)白山前より礫川水戸公裏門より壱岐殿坂(略)猿楽町より護持院原(略)三河町通り河岸へ出、土井侯被通、一石橋を渡り呉服町、おが町通り(略)山下門を入、新道門より入(略)愛宕へ(略)塗中大群集(略)女坂より見晴し茶屋にやすみ愛宕拝し、御堂廻り(略)女坂(略)車屋母来在(略)土橋河山斥より木挽町猿屋(略)通町、須田町(略)筋違旭山に休み、本郷一町目(略)暮時帰家
廿五日○九半頃湯島参詣(略)本郷通、聖廟地蔵参詣、男坂いせやに休む(略)植樹を見、紅梅に直を付させ、負さる故女坂植木や梅鉢うへを持来り、直に買せ、中町烟管屋(略)池端町(略)中町かな物屋(略)広小路より上野中谷中通り、御手鷹町(略)光岸寺前(略)七半前帰廬
 十二月は7日出かけている。出かけたのは、湯島・浅草が主で、十八日の浅草の市が最も賑わいを示している。浅草は午前中に出て、山内大師から賑わいをみせ、風神門(雷門)からは混雑して入れず矢大臣門(二天門)から入っている。他に、廿四日上邸へ出かけた時、愛宕周辺でも賑わいのあったことが記されている。安永八年の江戸の暮れは、平穏無事に流れているように感じる。しかし、日本全体では異常低温、噴火や洪水が発生し、凶作の年であった。