植栽・庭園美術史

第二回 5/17  その2
 
★日本人の感性
民族によって異なる自然への感性
「立てば芍薬、座れば牡丹」と言うように、この二つの花は美人の代名詞として知られる。この表現は、シャクヤクは茎が根元からまっすぐ伸びてその上に蕾を付け、そのさまは美人の立ち姿を連想させるからである。また、ボタンは枝分かれした先に花が咲くので、これを美人が座っている姿になぞらえたことからきている。
 ボタンは、中国では「花王」と呼ばれ、その妖しいまでの華やかな美しさで、多くの人々を魅了してきた。日本には、奈良時代8世紀)に薬用として渡来したのが最初とされ、以来、寺院などを中心に庭園木として好まれてきた。やがてその花の美しさが愛でられ、薬用植物から鑑賞用植物へと“出世”していく。改良を重ねて多くの品種を生み出し、名実とも日本の花となったのは江戸時代(17世紀~19世紀中頃)のことである。元禄年間(17世紀後半)に書かれた『花壇地錦抄』という園芸書には、なんと481種にものボタンの品種が出てくる。
 ボタンが江戸時代において特筆すべき花になったのには、17世紀前半に寒牡丹(別名フユボタン)が出現したことが大きい。寒牡丹とは、春秋・二季咲きの性質を持つボタンで、冬でも花をつけることができる。そこで日本では、雪の降るなか、傘をさして戸外に出て、寒牡丹を観て一句ひねる、という風景が生まれることになった。このような風流な鑑賞方法は、日本の風土なくしては成立し得ないものである。まさに日本独自の文化である。
 ボタンの原産地は中国西北部である。北京の冬は、東京より平均最低気温が約9℃も低い。この寒い冬にボタンを咲かせる技法は、清の時代に中国から伝わったものと推測される。しかし、たとえ藁で雪囲いをしても、寒い上に乾燥しているため、せっかく咲かせた花も長く咲かせることはできない。そのため、本家である中国では、ボタンを室内で楽しむことはあっても、日本のように冬にわざわざ戸外で観賞しようという発想は生まれなかったようだ。
 本当にボタンが好きな人は、鑑賞時間にまでこだわる。朝露を宿したボタンの花には格別な美しさがある。それを鑑賞するには見る時刻が非常に重要であるという。宋代(11~13世紀)第一の詩人とうたわれた蘇東坡は、「ボタンを見るのは巳の時(午前11時)がよい」とし、さらに「巳より後は花が開きすぎて花の精神が衰えて力なく麗しくない。午の時(正午)より後に見るのは牡丹というものを知らないからだ」とまで断じている。
 17世紀にはボタンは西欧に入っている。しかし西欧では、花の美しさは一応認められたものの、中国や日本のように広く流行するところまではいかなかった。西欧の土地、気象条件では、ボタン特有の美しさを再現できなかったのであろう。筆者もかつて西欧でボタンを見たときには、日本で見たときのような微妙な味わいを感じられなかった。
 そのうえ、ボタンが咲く初夏の頃はちょうどバラの季節に当たるので、西欧の人々は幼少時から親しみ、しかも土地に合っているバラのほうを好んだのであろう。実際、乾燥した空気のなかで、明るい太陽の光を受けて咲くバラは本当に美しい。西欧ならではの美しさと言っていいであろう。なお、誤解がないように付け加えておけば、西欧の人々もボタンの魅力が理解できなかったというわけではあるまい。ただ彼らは初夏という季節が大好きで、その時期に咲く花の代表としてバラを好む、ということである。
どの国、どの民族にも共通していえることだが、花そのものの美しさはもちろん、その花を楽しむのに適した気象条件が重要な要素となっている。自然に対する感性が民族によって大きく異なるのは、その国の風土が感性を育む点において大きな影響を与えているからである。
 
・情緒的な自然の受入れ
 「半夏生(はんげしょう)」「野分(のわき)」など自然現象に関する言葉は、日本人の自然観にもとづいたものである。半夏生は、夏至から数えて11日目の7月2日頃から7日頃までの5日間を指す。この頃に降る雨を「半夏雨(はんげあめ)」といい、大雨になることが多い。このような言葉は、日本の気象現象を実感せずに理解することは不可能である。まして、言葉の響き・ニュアンスの微妙な違いは、そのような気象を体験していない西欧人にはわからず、不可解な言葉のように感じるであろう。
 日本人の自然への関心は、情緒的な面が強く、「花曇り」や「花競」というような花にまつわる言葉を数多く生み出している。それも古く『万葉集』に、すでに「初花」(初花之可散 物乎 人事乃 繁尓因而 止息比者鴨)という言葉が見られる。『万葉集』は7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた日本最古の歌集であり、収録されている歌は、天皇・貴族から無名の庶民まで幅広い層によって詠まれたものである。そのことからも、古代から自然への情緒的な接し方がいかに深く浸透していたかがわかる。
 たとえば、サクラの「満開」は、英訳すればなんとか通じるであろう。が、「三分咲き」となれば適切な訳語を探すことができるであろうか。花が30%咲くという事実は、もちろん西欧でもある。だが、この「三分」には感情が込められている。数詞であるにもかかわらず、情緒的な形容が優先している。「三分咲き」の言葉から、西欧人に花の咲き方に込めた感情を期待するのは難しい。なまじ量を示す語彙であるために、精度を問う科学性に重きを置く人たちには混乱が生じてしまう。
 日本では、自然観察にあたっても情緒性が強く、科学的な原理を優先させない傾向がある。たとえばアサガオ栽培である。江戸時代には「変化朝顔」という日本独特の植物が誕生した。変化朝顔は、特殊な遺伝子の組み合わせによって花や葉、茎が変化したもので、とてもアサガオとは思えない摩訶不思議な形状の植物である。しかも、この変化朝顔がつくられたのは19世紀初期、メンデルの遺伝法則が発表される前であった。
 当時の園芸家は、変化朝顔を生んだ種の兄弟株(変化朝顔ではない)の種から再び変化朝顔が生じることを知っていた。変化朝顔命名法は、たとえば「孔雀変化林風極紅車狂追抱花真蔓葉数莟生」(『朝顔三十六歌選』)というように、葉の性質・茎の性質・花の性質を順に記述するもので、遺伝学から見ても納得できるものであった。また、園芸家は、変化朝顔の遺伝子は分離可能であり、独立に遺伝することを経験的に理解していたようだ。ただ、受粉や法則について記すという科学的な原理に触れなかった。
 当時の人も、自然界には不思議な原理のあることはわかっていたが、自然を取り扱うとき、そこに情緒を介入させてしまった。現代の科学的な証明より情緒的な解釈のほうが重要だったのであろう。良い結果が出れば、原理の追求は二の次で、目の前に展開する事象へと関心を移していった。江戸時代の人は、自然を情緒的に受け入れ、感性のなかに自然との共生を求めたと言えよう。
 また、自然を取り扱うにあたって、生命の大切さを肝に命じ、自然への心遣いという情緒を基底にした。そのため園芸家は原理を追求するより、変化朝顔を得るために発芽させた何千という苗の処分に心を配った。変化朝顔として育てるのは数本の苗であって、残りの数千は廃棄しなければならなかった。せっかく命を得て、双葉をつけた苗を殺すことに留意し、園芸家は、朝顔塚をつくり供養するといった心遣いを忘れなかった。
 それに加えて、めずらしい園芸植物は高額で売買されるため、繁殖や栽培技術は極秘にする風潮があった。これは、江戸時代の技術全般に言えることで門外不出という閉鎖的な策がとられ、科学的な解明を公にしなかった。
 
・自然と共生する思想
 江戸時代の人たちは、植物、昆虫、鳥獣、人間は、そのいずれも生命としてはなんら差がないことを知っていた。さらに、道に落ちている石ころでさえ、本質的な存在という意味では、人間と同じと思っていた。この考えは、人間を最上位に位置づける傲慢な思想よりはるかにまともである。
 自然界のものは、すべてのものがつながりを持っていることから、すべてが循環するという考えも深く浸透した。たとえば、前世が虫で、現世が人間ということもある。現世の姿は仮の姿という認識である。この「輪廻転生」という思想は、日本人に仏教が入る以前からあったものと考えられる。
 生物・無機物を問わず、すべてのものの中に霊魂が宿っている。人間は死んでしまっても魂はこの世に残される。現世の形態は借りものであり事物の本質は別にある。自然現象は事物によって起きるのではなく精霊や霊魂から誘発される、と昔の人々は信じていた。台風や地震などの発生メカニズムが解明されていない時代にあって、人がそれらを受け止めて、なんらかの対応をするためには当然の判断であろう。災難や災害は祟りとしてその現象を厳粛に受け止め、それを回避するには、怨念を鎮め、祟りを払うことに主眼を置いた。
 自然は人間に脅威をあたえるだけでなく、温かな恩恵をももたらした。自然の恩恵を享受するには、自然をありのままに受入れ、自然と対峙することを断念し、自然に順応するための自然則を求める方に力を入れた。この自然に対する態度が、日本人の物質的ならびに精神的生活の各方面に特殊な影響を及ぼした。江戸時代までの日本人は、自然の仕組みを知る知識(「窮理」の対象にする)より、智恵をめぐらせることの充実に重きを置いた。その結果として、日本人の知恵は、経験をもとに積み重ねられ、必ずしも科学的な分析を導かなかった。
 自然は科学的に取り組むものと考える現代人には不可解に思われるが、雨乞いや流行病の退散に祈祷や魔よけを用いることは当然の行為であった。人間を超える自然に対し、神秘性な現象を解明するよりその力を借りて人間に恩恵をもたらすこと、危機を回避するほうに執着した。つまり、自然に服従することによって、畏れ、慈しむような自然との付き合い方を選んだ。
 太陽、風、水、森林などの自然は、思いのままにならないことであり、個人の所有物ではないと考えていた。そのため、事物・事象のなりゆきは、究極的には自然(おのずから)という思考形態が培われていった。したがって、自然の恩恵を受けるには、自然との共生を誰も疑わない、当然のことと受け止められていた。