幕末の庶民社会

江戸・東京市民の楽しみ(昭和時代)292

幕末の庶民社会慶應元年(1865年)

 幕末から明治は、第二次世界大戦から戦後にかけての時期とならぶ日本の大変革期である。 幕末・維新期の江戸は、政治的な空白によって治安だけでなく経済的にも混乱していたことは確かであるが、第二次世界大戦から戦後にかけて庶民を巻き込んだ東京の混乱とは違うと感じる。

 それは、外国人の観察を見るとわかるが、江戸庶民の大半が三度の食事にも不自由し、生活に困っていたにもかかわらず、何か精神的なゆとりが感じられるのである。が、残念ながら生きる喜びを忘れないこうした楽天的な庶民の性格について、歴史のなかではあまり触れられていない。

 一般に、国民の多数を占める庶民が何をしていたか、何を求めていたかというようなことは、意外と書かれていない。書かれているのは、上流階級の人々、支配者層の生活が多く、その人たちの生活体験が国民の一般のものとすり替えられているような気さえする。たとえば、幕末の治安の悪さに怯えていたのは、富裕な江戸の町人であった。実際、黒船の来訪で逃げまどったのは、家屋敷のある武家や町人で、大半の庶民は逃げたくても逃げる場所がなかった。

このように慌てふためいて行動を起こした人々はほんの一部の人で、江戸に生活している大多数の人々からは、際立って見られたのではなかろうか。むしろ稀であったために、関心が持たれたと考えられる。確かに、黒船来訪に人々が逃げまどうというようなことは、時代を象徴する光景で、事件として後世に伝える価値がある。逆に、地味で変化に乏しい庶民の生活については、歴史的には関心が低くなるのは当然だろう。しかし、庶民の生活を知るというのは歴史をふり返る上で本当に価値のないことであろうか。

国民の大半を占める人々がどのような生活をしていたかきちんと把握していないと、江戸時代の色々なことが歪んで伝えられることになる。近年、江戸時代を見直そうとする動きが出ているのも、当時の大衆が貧しいだけの救いのない生活を営んでいたと決めつけてかかることに疑問を持ち始めたからである。

 たしかに日本には明治になるまで米を食べていなかった村々がたくさんあった。が、米を食べられないということが人々が生きていく上で、本当にそれほど不幸なことなのか。物質的な豊かさはなくても、風土に合った清潔な暮らしが可能で、仲良く平和に暮らしていた人々が数多く存在した。このような実情は見落とされがちであるが、江戸時代のもう一つの側面であり、多くの非凡な事件と共に後世に伝える必要がある。

 ただ、やはり庶民の生活については、歴史書や文献などに残されているものは少なく、不明な部分が多い。庶民は何を求めて生きるかというような哲学意識は希薄であったと思われる。大半の人々にとって、その日その日を楽しく過ごすことがすべてで、一日が無事に終わることがなによりであった。そこで、幕末庶民の行動がどのようなものであったかに注目して探ってみよう。

慶應元年(1865年)の江戸庶民関連事象

1月 浅草寺奥山で十二支に因んだ活人形の見せ物出る

1月 市ケ谷・四谷外御堀端等に、幕府の施政を糺弾し、庶民の困窮を訴ふる文を撒布する者あり

2月 回向院境内で百日芝居興行

3月 浅草三社権現祭礼、山車練物多く出る

3月 物価引下げ令、買占め売惜しみ止令を出す

4月 禁門の変や社会不安などの災異のために慶応に改元

4月 家康の二百五十回忌を日光東照宮で行なう

5月 高田本松寺願満祖師開帳(3日間)

5月 両国橋辺花火等、今年はなし                       

5月  第二次長州戦争が始まる

5月  日本橋周辺より公債を徴収する 

閏5 米価が高騰し、米穀雑穀の自由販売が許可される

6月 赤坂氷川明神祭礼、神輿のみを渡す

6月 本所回向院で奥州金花山大金寺弁財天開帳(60日間)、見せ物、一時参詣人多し

7月 三田台町薬王寺祖師開帳(30日間)

7月 町会所で、窮民に米銭を支給する

8月 飛鳥山下に反射炉錐台を建造する

9月 猿若町一丁目中村勘三郎が芝居寿狂言興行する(前年から延期)

9月 神田明神祭礼、産子町職人が許可なく附祭を催し罰金を課せられる

11月 雑司ヶ谷鬼子母神境内鷺明神で11月酉の日に酉の祭始まる.以来年々賑わう

12月 江戸市中、強盗が出没し、不景気

冬  銃隊調訓練次第に盛になり、調練場に着くまで西洋風の太鼓を鳴らして群行する

冬  大阪の浄瑠璃語竹本対馬太夫が江戸を訪れ、諸人先を争って聴聞する

 

 慶応元年の神田明神祭礼は、一昨年より延期になっていたものだが、今年も将軍不在のため仮の祭典にとどまり、神輿も出なかった。ところがなんと、町の若者たちが相談して山車を数輌、伎踊練物を無断で催した。祭はかなり賑わったらしい。しかし、すぐに若者たちは南町奉行所に呼ばれ、加えて行事・名主たちにも罰金が課せられるという事件になった。当時、幕府は京都で、長州再征の勅許をうけるなど、祭どころではなかったのが、庶民はこれ以上の祭の延期には耐えられなかったのだろう。