明治十七年・江戸の遊びが変わり始める

江戸・東京庶民の楽しみ 114
明治十七年・江戸の遊びが変わり始める
七月華族令公布/十月秩父事件/十二月朝鮮で甲申事変
・浅草が大きく変わる
 この年以降、東京のレジャーが大きく変わっていく。まず、浅草で公園としての整備が本格的に始まり、「明治の浅草」が誕生した。観音堂の周辺にあった江戸時代からの出店や見世物などが、通称浅草田圃を埋め立てた六区へ移転させられた。十一月に六区は新遊園地として開業、それぞれの店は戸々に紅灯を揚げ、手踊りを催し、花火を揚げて祝った。新しい六区には、米屋や瀬戸物屋のような日用品を売る店はなく、市民の遊楽の地にふさわしい浅草の装いが整えられた。一方、奥山では四月に、花屋敷が花木を使って様々な活人形を造り、それまで以上の集客をめざしていた。
 この頃は、江戸時代の娯楽そのままといったものより、昔を偲ぶという形で企画されたり、再現されるものが目立った。二月の千住で催された撃剣会、見物人の飛び入りもあって荒試合となり人気を呼んだ。三月には江戸時代のツツジの名所であった大久保百人町が、再びツツジ園として開園されると、新聞に載った。五月に繁華になった下谷佐竹原も、吹矢場や見世物などが中心となっている。六月の祭礼では、内藤新宿鎮守三光稲荷が獅子頭を新調して山車や手踊りを繰りだした。日枝神社も、前年新調した神輿に山車17両と踊屋台・地走りなどを出し、祭を再現することに力を入れている。七月の入谷朝顔市には、再現された黄色い花のアサガオがあったと書かれている。
 また、江戸時代には四谷の名物であった「遠見の庭」、40年ぶりに須賀神社の祭礼に合わせて八月に再興された。絶えかけていた大造庭を拵える植木屋をやっと探し、塩町三丁目の家を打ち抜き、その借り賃を表店が一日1円、裏店が一日75銭で場所を確保。田原坂より熊本城を望む風景を造った。一目見ようとする見物人は多く、毎夜12時頃まで芋を洗うような混雑で、巡査を呼んで混乱を防いだ。九月の新聞には「神田祭りの花車(山車)」という記事があり、かつての天下祭が盛大に行われると、引き回される花車の番組が紹介されている。その数は四十六番に、番外の綺麗な花・宝尽くしなどもあった。
・天覧相撲で人気上昇
 相撲についても、断髪令(明治四年)、違式註違条例(明治六年)と一時は、その存続すら危うかったが、二月に「横綱免許の吉田追風家」についての解説、梅ケ谷の優勝記事などがのり、再び人々が注目しはじめた。初日の木戸銭は、21円20銭(観客238人)と低調であったが、六月には十日間で3203円(観客3万8千人程度)の収入にまで増加した。これは三月に、平安末期以来絶えていた天覧相撲が芝浜離宮(芝延遼館)で開催されたこともあって、相撲の人気が再び盛り上ったことによる。前年までの相撲興行期間は、柳橋の茶屋や船宿、待合などが繁昌することはなかったが、この年の五月からは違うと書いてある。新聞には「相撲見物の質向上か、一流料亭が賑わう」という見出しも出ている。
 先に開園している上野公園では、十一月に不忍池の新設馬場で、第1回秋期競馬会が開催された。また、不忍池の貸しボート屋の開業が許可され、ボート50艘を注文したとの記事もある。江戸以来の遊覧地であった上野や浅草では、新しく施設整備やイベントを催し、装いも新たに庶民の遊び場として栄えていく。場所は変わらなくても、庶民のレジャーは、江戸時代の様式や名残を残しながらも徐々に姿を変えていった。もちろん、遊び方や遊びの精神も大きく変化していった。
・「江戸の祭」が消えていく
 最も変化したのは祭だろう、「江戸の祭」と「東京の祭」は、連続して行われているために表面的上はさして変化していないように見えたが、取り組み方がまったく違ってしまった。江戸の祭の典型といえば、天下祭で、山車や神輿が江戸城内に入り、将軍の拝謁を賜った後、城を出て街を練り歩くものであった。そして、人々の関心は山車や附祭にあった。江戸時代には、「祭を見る」と言えば、それは美しく飾られた山車などの行列を見ることを意味していた。また祭に参加するといった場合、それは祭の当日だけを指すのではなかった。祭の半年ぐらい前から用意をはじめ、いかに人の目を引くか工夫をこらすことなどに主眼が置かれた。山車にかけられた屋台(舞台)の上での芸能は、町中の人が智恵を寄せ合い考え、演者が熱心に練習したものであった。行列が町を練り歩くと、観客が歌や踊りをリクエストするなど、観客と演者が一体となって楽しむ賑やかこのうえない祭であった。
 一方、東京の祭は、庶民が自主的に祭を運営することは許されなかった。江戸の祭には、警護する警察官ような幕府の役人はいなかった。住民自身で警備するという気概があった。また、町中が祭一色となるような気迫とともに、庶民の遊び心がそこかしこにあふれていた。しかし、明治になり、時間が進むにつれて町の結束は弱まり、その時かぎりの祭になってしまった。ほどほどの賑わいはあるものの、もはや祭は、刹那的なエネルギーの発散の場でしかなかった。つまり、日頃の不満や精神的なストレスを解消するだけの場に変わっていったのである。
 九月に準備された神田祭は、四十六番の山車と番外の出し物もある、江戸時代を含めて30年ぶりの盛大なものであった。新聞にも花車番組がすべて掲げられ期待されたが、翌日に台風が襲い、山車は曳き廻されることなく壊されてしまった。以後、天下祭を再現するような大規模な祭はついに催されることなく、江戸の祭はこの時を最後に消滅したといっても過言ではないだろう。                       ─────────────────────────────────────────────╴    

明治十七年(1884年)の主なレジャー関連の事象
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1月H初卯、好天気で商人前年の三倍、参詣者は半減なれど午前中⒈5万枚の開運守札 /郵便報知
1月H初庚申、柴又村帝釈天は著しい参詣
1月Y藪入り、閻魔堂に大勢の参詣客、菓子店は似たり寄ったり/読売
1月Y両国大相撲、十日間で21,844人
1月Y市村座、好評大入りで翌月6日まで続演
1月 浅草公園整理に取りかかる。出店や見世物などを田圃を埋め立てた六区へ移すもの
2月Y千住の撃剣会、見物人が飛び入りしての荒試合でおもしろく大人気
2月H臨時大相撲、晴天八日興行、引き分けなしと決まるが依然守られず
3月H平安末期以来絶えていた天覧相撲、芝浜離宮で開催
3月L下谷竹町で放し飼いの雀を吹き矢でとらせる見世物が、警視庁により禁止/東京絵入 
3月H大久保のツツジ園再開
3月Y品川洲崎・天王州の潮干狩り盛況、収穫も良好
3月H上野・王子間、花見の臨時列車が13本でる
4月Y私立学校の親睦会学生が織旗を立て上野や日本橋を歩く
4月Y向島のサクラに見物人多数、今戸・竹屋の渡しの上がりが13倍増
4月Y浅草、奥山の花屋敷で花人形、公園でシナの人形芝居を興行する⑤
4月 吉原の茶屋、上等貸座敷で1円30銭、中等1円5銭(娼妓揚げ代、料理三種、酒四本)開花新聞
5月Y靖国神社大祭で芸妓の曲馬乗りが催される
5月H浅草西福寺で嵯峨清涼寺開帳
5月H第二回内国絵画共進会、7週間で8.8万人、4517円の収入
5月Y下谷・佐竹原、吹き矢場や玉突き、見世物で繁華になる
6月H内藤新宿鎮守三光稲荷祭典、獅子頭を新調し、山車や芸妓の手踊りなど繰り出す
6月H日枝神社、昨年新調した神輿、山車17両と踊り屋台・地走りなど出す
6月Y回向院の大相撲は10日間で3203円
6月Y横浜海岸通りに、海水浴温泉場を開業する
6月 鹿鳴館で、西洋舞踏練習会が毎週開催される
7月Y両国の川開き、あいにくの雨で盛り上がりを欠く
7月Y入谷の朝顔市、珍しい黄色い花も
7月Y浅草元町西福寺で嵯峨の清涼寺の開帳
8月Y日本橋魚河岸の水神祭、山車や踊り屋台、飾り物等出る
8月H浅草西福寺の嵯峨清涼寺開帳、炎暑にも参詣者多く、氷屋、力持ち・軽業・活人形等大繁盛
8月H羽田村辺の漁師が例年通り舟祭を執行
8月H隅田川中州の花火、2銭の乗合船群れをなし、陸は納涼の人で雑踏
8月H第二回の大花火、川開きほどの景気にならず、概して不景気
8月H四谷天王祭礼、26年来中絶の大造庭、田原坂より熊本城を望む風景、毎夜12時まで芋を洗う雑踏
8月Y浜町の海水浴茶屋、上がり湯に真水を使用
9月Y浅草西福寺で嵯峨清涼寺の釈迦開帳、小石川伝通院でも
9月H神田祭りの花車、30年ぶりの神事、山車45両盛大に準備が整う
10月 浅草公園の路上営業が黙認される
10月H池上本門寺会式、非常の雑踏を極める
10月H隅田川東京大学走舸組が競漕会を開催、両岸見物人で群集する
10月G不忍池の新設馬場で、第1回秋期競馬会が開催/時事
11月H天長節鹿鳴館で大夜会、花火を揚げ開催する
11月C浅草田圃埋立地の新遊園地に移転し、開業祝いを行う⑤/朝野
11月Y一の酉、夕方から盛況に
11月H二の酉、撃剣家野試合もあり、初酉より増す人出
11月 不忍池の貸しボート屋の開業が許可される/今日
12月Y市村座、大入が続き日延べ
12月H芝愛宕の歳の市、近年稀な大繁盛
12月 猿若座、浅草鳥越町に移転
12月H薬研堀の歳の市、前年より出店者減少したが、景気よろしく追っかけ出願者多し