江戸時代の遊びが続く明治前期

江戸・東京庶民の楽しみ 112
江戸時代の遊びが続く明治前期
 市民レジャーから明治時代を見ると、おおよそ三期に分けられる。第一期は明治前期、東京に近代的な産業が成立する以前の明治十四年(1881年)頃まで。まだ、江戸時代の余韻も十分残っていて、そうした名残を楽しんでいた時代でもある。

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明治十五年までの主な事象
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明治1年 1868 江戸を東京に改称。
明治1年    明治と改元される
明治2年 1869 蝦夷地を北海道と改称、北海道を開発
明治2年    東京に遷都
明治2年    版籍奉還
明治2年    官制改革(2官6省)、職員令制定  
明治3年 1870 平民苗字 許可令
明治3年    岩崎弥太郎が九十九商会(三菱の原型)設立
明治3年    衆議院と工部省設置           
明治4年 1871 新貨条例(金本位制・円銭厘の十進法)を制定 
明治4年    政府の使節として岩倉遣外使節団、欧米各国へ出発
明治4年    郵便制度を開始
明治4年    日清修好条(初の対等条約)
明治4年    廃藩置県
明治4年    官制改革(3院8省)、太政官職制および事務章程制定
明治5年 1872 官営(富岡)製糸場設置
明治5年    国立銀行条例が発布
明治5年    田畑永代売買の解禁
明治5年    新橋・横浜間に鉄道開通
明治5年    太陽暦を採用
明治5年    琉球王国琉球藩
明治6年 1873 仇討ちの禁止
明治6年    征韓論(西郷隆盛板垣退助江藤新平ら)
明治6年    地租改正
明治6年    徴兵令が発布
明治6年    明治六年の政変(征韓論争)
明治7年 1874 北海道において屯田兵制度
明治7年    佐賀の乱勃発
明治7年    台湾出兵
明治7年    板垣退助らが民選議員設立の建白書を提出
明治8年 1875 第1回地方官会議開催
明治8年    元老院大審院ができる
明治8年    讒謗律・新聞紙条例が制定
明治8年    板垣退助、愛国社設立
明治8年    大久保利通木戸孝允板垣退助ら(政府改革図案)
明治8年    ロシアと千島樺太交換条約
明治9年 1876 西日本各地で士族反乱勃発  
明治9年    金禄公債証書発行条例(秩禄処分)、廃刀令
明治9年    神風連の乱秋月の乱萩の乱など士族の反乱
明治9年    元老院に国憲起草の勅諭くだる
明治9年    朝鮮と日朝修好条規
明治10年1877 国会開設の請願
明治10年   最大の士族反乱西南戦争
明治11年1878 大久保利通暗殺
明治12年1879 琉球藩沖縄県(琉球処分)
明治13年1880 岩倉具視憲法に関する意見を上奏 憲法中綱領之議
明治13年   国会期成同盟が結成
明治13年   刑法・治罪法制定
明治13年   集会条例制定
明治14年1881 板垣退助自由党を結成
明治14年   明治十四年の政変
明治14年   松方財政(歳出削減・増税・紙幣の整理など)を行う
明治14年   植木枝盛憲法草案「東洋大日本国々憲案」を作成
明治15年1882 軍人勅諭発布
明治15年   立憲改進党結成
明治15年   板垣退助岐阜で遭難
明治15年   日本銀行条例公布・開業


 明治になって、江戸の町人は東京市民になったわけだが、政府が新しくなったからといって庶民の生活がただちに変わるわけではなかった。江戸庶民が新時代の到来を実感したのは、元年(1868)十一月、天皇が江戸を訪れ、その東幸を祝して酒やスルメなどが下賜された頃からだろう。その後、幕府によって中止されていた祭や開帳が続々と許され、上野山内の花見が自由になり、両国川開きの花火も楽しめ、皇居吹上御苑の参観さえも可能となった。
 こうした一連の制限緩和から、江戸庶民はそれまでよりも社会がよくなるように感じたのではなかろうか。新政府は、明治二年(1869)に版籍奉還・名主の廃止、平民の名字許可(明治三年)、廃藩置県、断髪・帯刀許可(明治四年)、土地売買の解禁(明治五年)、新暦・地租改正(明治六年)、など新しい施策をつぎつぎに発布・施行した。
 東京(旧朱引内)の人口は、諸藩の武士たちが国詰めとなってから急激に減少し、旧幕臣駿河(静岡)へ移住した頃が最も少なく、50万人程度となった。東京に住んでいるのは、故郷などの帰る場所を持たない町人が大半を占めた。江戸時代の町人の人口割合から想定して、東京の人口は、華族や士族が新たに加わっても富裕者(上流)が2割、中流が3割、下層者(下層上3+最下層2)が5割のままであっただろう。以後、人口は明治五年が58万人、明治七年になっても59万人とさほど増加しなかった。したがって、庶民の社会に大きな変化はなく、江戸時代の人間関係がそのまま継続していたであろう。ただ、江戸時代裕福だった町人の羽振りは衰えた。変わりに町を活気づけていたのは庶民だった。米価も明治二・三年に高騰したものの、その後は落ち着いたことから、庶民の生活は比較的安定していたものと思われる。
 それを反映するかのように、明治前期の東京の街では、富裕者が主な観客層であった芝居の入りが悪かった。一方、庶民は、連日のように催されていた開帳や見世物、祭などで遊んでいた。明治五年のレジャー状況を見ると、庶民は一体いつ働いていたのかと首を傾げたくなるような盛況ぶりである。実際、庶民(中流+下層)は、特に下層の人々が遊びに夢中で、仕事は二の次になっていたものと思われる。当時の庶民は、毎日定期的に働くというような勤務形態の人は少なく、仕事のある時に働くという状況だった。
 維新直後の政府の経済政策は場当たり的で、殖産振興が進められるのは明治十年近くになってからである。明治七年(1874)の東京府における各種物産の生産状況を見ると、農産物が工産物の生産額を上回っている。しかも、工産物の中で最も多いのは雑貨手芸品であった。したがって、東京を見わたしても、西欧から移植した最新の工場はあまりなく、江戸時代から続く家内工業が多かった。商業にしても、銀座が煉瓦街になり、ガス灯が整備されたりはしたが、全体的には江戸時代のままであった。
 明治十年(1877)、東京の職業別人口を見ても、商工業人口はほとんど変わっていない。人口動態が安定していたことから考えて、地域社会の人間関係は崩壊するどころか、むしろ成熟していたものと思われる。庶民の生活形態は江戸時代からさほど変わらず、相互扶助や仲間意識も健在であったことは、当時の祭礼の盛大さからもうかがえる。
 特に明治五年の神田明神の祭礼は、錦蓋翳4本と五色旗を先頭に、山車35両、踊台3荷、それに地走跳も続くという豪華なもの。町々の氏子は、仕事を放り出して祭に浮かれ、江戸時代と変わらぬ心意気で楽しんでいた。江戸時代の山車から想定すると、祭に動員された人はまずは5千人を下るまい。沿道で見物した人は、神田区の人口7万人を超え、10万人規模であったはずだ。
 また、見世物についても、東京府の調べでは、明治十三年の観客数は93万人であった。この数値は、雑種税(売上げの2%)を東京府に納めた観客数である。見世物は、江戸時代と同様に仮設や大道芸のような統計上には現れない観客も少なくない。そのため、実際の観客数は年間百万人を優に超えていた。なお、延べ観客数は人口数を上回っているが、見世物小屋に出かけた市民の割合は、一人でいくつもの見世物を見るため、家族の誰かが見るという程度、つまり25%以上になることは間違いないだろう。
 当時、評判を呼んだのは、幕末の頃から行われていた舶来軽業(曲馬)、器械や電気などを組み入れた西洋文明を感じさせる見世物であった。また、トラ・ヒョウ・ゾウなどの動物も話題を呼んだ。その一方で、慶応三年(1867)には日本人の芸人たちも海外に出かけ、ミカド曲芸団がサンフランシスコのマギー音楽座で、大竜一座と早竹虎吉一座がメトロポリタン劇場で、浜錠定吉らがパリのシルク・ナポレオンで活躍している。在来の見世物が欧米の見世物より劣っていたわけではない。
 早竹虎吉は帰国後回向院(明治八年)で大当たりを取り、活人形を高額で購入する米国人がいたように芸術的に高い評価を得ていた。しかし、興行していた場所が場末の葦簾張りの小屋で、観客の服装も粗末であったことなどから、政府の役人たちからは不当な評価を受けていた。
 観客についても言える。江戸時代から見世物が好きで、色々なものを見ていた東京市民は、目が肥えていた。舶来物への興味は確かにあったが、それは、何でも見てやろうという好奇心と、珍しいものや初物には御利益があると信じていたからである。新しいものをありがたがる庶民の精神は、「三条の教憲」を市民に押しつけた政府の高官よりむしろ柔軟だったかもしれない。
 明治前期は、国の経済状況を反映して東京の景気が悪化していたにもかかわらず、庶民はあいかわらず遊んでいた。彼らは、明治になってスピーディな人力車が走り、ランプ、メリヤスのシャツやズボン下、肉食やラムネなど次々に現れる新しいものを知ったが、すべてを積極的に取り入れたわけではなかった。
 レジャーにしても、欧米からのスポーツ紹介は早く、アイススケートやボートなどは明治以前に入っていた。明治十年(1877)までにクリケットボール・野球・フットボールなどが入ってきた。しかし、西洋の遊びには関心を示すものの対応はおおむね冷やかであった。庶民は、江戸時代からの祭や開帳、寄席などを求め、江戸時代の楽しみに浸っていた。ところが、このような楽天的な庶民の遊びムードに水を刺したのが、明治十五年(1882)のコレラの大流行である。