★栗拾いと茸狩り(安永二年七月・八月)

江戸庶民の楽しみ 30
★栗拾いと茸狩り(安永二年七月・八月)
七月
朔日戊午  薄曇五頃少地震朝少し涼し西風夕過出八過より東風七過風雲で勿散
○上館より廻したる石燈籠ニツ庭へ直す○松雑木をきる
二日  朝少涼一面うす陰昼蒸気強四過村雨勿止八過雨霈然無程小雨七前又雨昏前雨止大晴夕虹
○満蔵・力衛門・交如・宗治・小兵衛・沖衛門・に蜀(矮性)鶏ひ葉貰ふ
三日 八頃より南東幽雷折々響夜明大猛雨至庭中水如池二□計ニ而雨静に成大雷一声電赫々夫れより折々猛雨至雨はこひ幽雷聞ゆ雨不止霈然、昼に風夕雨やみ雲はれ浮雲西風にとふ
○松を切る、出汐湊にて弁当(足へ六寸計蜈蚣、這上がりおとす)
四日処暑 快晴白雲あり西風颯々秋気起
○松をきる○信昌部屋住居を見る、藤田・多田出、水分石山にて弁当
五日  涼し一面陰
○啜龍・珠成よりお隆へ文、せん香花火来
○山本に預し千両二鉢・唐橘一鉢を取寄る○半左衛門より鉢うへ四(いさ葉松・寄生松・いさは山椒)貰ふ○雑木を切る、妹背山にて弁当○鉢殖松を茶筅につくる
六日  薄雲四半より東風涼昼より次第に晴夜ことにすゝし
○雑樹を切る、妹背山弁当○七夕を祭る
七日  薄旦雲すゝし
○雑樹をきり松を作る、弁当水分石○子の神を祭る
八日  雲あり蒸
○松をつくる、弁当妹背山
九日  快晴□風暑烈くれに村雨
○藤代の雫の松を作り、暮前お隆同道表へ行、弁当水分石、帰る頃村雨ふる
十日  晴弧雲飛暑強南風爽々
○町・蘺・もよ・せの浅草参詣、町ハ幡随院へ寄る
○四万六千日ゆへ龍華庵観世音へお隆同道参詣
○雑樹をきる
十一日  くもり巳風五半ハラハラ来アレカカル折々日出村雨度々至昼より雲次第ニ強く八過より嵐繊雨くれ前雨止蒼天見へ夕やけ雲飛風烈
○くれ前畑の茄子をとり庭を廻る、坤風烈く雲早く夕やけ蒼天見ゆ
十二日  大快晴風涼無一拳雲辰下より大烈暑無風難勝
○北庭の樹をつくる
○妹背山にて花火とほす 玉火をあくる
十三日  大陰朝少涼暑昼より烈夕方迄蒸気甚しくれて大雲飛或ハ晴又くもる南風月清暈有
○松をつくる○吟花亭より外を廻り四半過かへる
十四日  陰蒸暑八前より沛雨降出し四半時計にて雨こまかに成幽雷二三つ聞へ空うす曇八半頃大樹雨食頃は雨止暮幽雷一雨蕭々
十五日  秋雨蕭々大涼五半雨止次第晴
十六日  陰り四半頃より陰雨九頃止
○朧岡の躑躅を作る○夜園中の茄子を取、羹に作る
十七日  陰すすし昼暑次第にはれ夕快晴夜月晴白雲流近星あり
毘沙門堂の松をつくる
十八日  陰凉し朝より細雨降出し八前より次第晴てあつし
毘沙門堂の樹をつくる
十九日  快晴大蒸暑
○松をつくる
二十日  大凉大にすゝし朝雰ふかく五過より雰雨四頃より大快晴
○松をつくる、おりう同道水分石にて蕎麦を喫す
廿一日  晴て涼し
○お隆同道庭へ出、松をつくる
廿二日  炎暑たえかたし雲あり昼蒸気土用中のことし
○花垣山の松をきり、つゝしつくる○夜妹背山麓の芝を刈る○籬に花火貰ふ
廿三日  薄雲蒸暑微風四半過微雨東より至止九比沛然八過雲次第晴雨止八半比雨少至又晴七刻東黒雲大蒸勿晴雨少止日出七過又大陰東大雨の体暮に大雨一頻勿止
○お隆同道茄子取に出、直に松を伐に行、水分石二て芝を刈
廿四日  朝雰ふかく雰雨程なく微雨空あかるし五半過より食頃而雲尽大快晴大蒸八前より微風起丑少地震
○岑花園の樹を伐、程なくおりう来、水分石の芝を刈・妹背山にて蕎麦を喫
廿五日  快晴蒸暑夜大冷
○老人峰の樹を造、お隆いもせ山掃除
廿六日  晴天南風涼五半より又大蒸熱風爽々
○老峯坐禅石の樹を伐る、お隆・春峨水分石・いもせ山の芝をつくる
廿七日  快晴
坐禅石昆沙門堂の雑樹を伐る
廿八日  六半頃より大蒸大冷自巳陰暑薄昼より大暑
○松を作り雑樹を伐つ○又園へ出、藤代の雑樹を伐、お隆も出、水分石の芝を刈る
廿九日  快晴暑烈西風微比頃の炎暑
○藤代の樹を伐り芝を刈る、お隆も出、いもせ山弁当
三十日  大陰大蒸暑難堪夕東風晴て大雲有五過村雨至勿止夜中電光赫々
○今暁眠覚庭中掃除、又就寝○藤代の樹を伐、お隆水分石の芝を刈、弁当藤代

八月
朔日  南風雲多大蒸暑難甚夕大快晴夜東風鳴樹大すゝし
○松を伐り芝を刈、昨日に同し・・・弁当いもせ山
二日  大快晴風爽々秋色昼比頃の炎暑
○義範より返事に紫蕪の種貰ふ○雑樹を伐、お隆水分石の芝を刈
三日  一面陰朝涼し七より繊雨至折々止四前騒雨至食頃而止頓而星光燦々夜又少雨
四日  大快晴西風爽然秋色起暑強昼南風大烈樹々皆揺落夜東北電光強四前止
○伐雑樹、庭へ西都出、式八も庭つくりに出、弁当水分石(永純も出)栗を拾ふ
五日  陰五頃より蕭雨半頃止涼九頃大雨すゝしく半比秋雨至寒し八より大樹夜に入森々大寒
六日  快晴凉朝袷昼単物昼帷子夜又袷
○夕雑樹を伐、お隆も出、水分石焼田楽弁当
七日  凉秋雲袷を着八前繊雨折々止無程又降暮前より如糟糠夜に入蕭々
○八前園中へ出、繊雨至無程止、八過又至、夕伐雑樹刈芝
八日  雨蕭々夜更滂□〔今日より表単物或袷よ袷或袷小袖〕
九日  雨繊々秋色深
○同刻園中の栗拾ひに廻る
○雑樹を伐、芝を刈、
十日  陰雲ふかし糖雨折々至昏より雨森々夜大樹
○表庭の柘植・つ二し・黒ほこをとり、妹背山の崩たる所を雇卒清兵衛に修理せしむ○雑樹を伐、芝を刈、盤上亭茶飯等を喫、雨中掃住居
十一日  暁雨止昼快晴暑
○昼栗拾に出○芝を刈、七過米社、来表居問にて小サ刀つかハす
十二日  陰昏より秋雨
○朝子共衆・お隆栗拾に出る○芝を刈、松を伐、弁当水分石
十三日  秋雨森々夕雨止一面陰
○雨中栗拾ひに笠にて出
十四日  快晴大寒白雲飛清光月触
○月入江の芝を刈、初鷹わたる、清光大井如大盤
十五日  陰から暮より蕭雨五比よりはるゝ
○池辺の芝を刈、長純出
十六日  陰夕ハラハラ夜はるるゝ月清
○栗を拾ひ芝を刈、水分石弁当
十七日  晴雲多秋暑次第ニくもり八過雨至折々止暮より森々夜地震少○比頃鵙庭樹に啼
○朝より栗拾ふ(五六升)○七過より芝を刈
十八日  快晴昼暑帷子を着夕陽紅ゐ
○芝を刈、水分石にて針治、弁当同所
十九日 快晴
○四過栗を拾ふ
○上邸より・・・来、長局縄張其外縄を定む○芝を刈、弁当水分石
二十日  寒快晴昼秋暑
○栗五六升拾ふ(四半出九半かえる)
○芝を刈、水分石弁当、那処にて少しないふる、好兵衛に庭を見せる
○喬松院・袖岳・石・せの・標・小枝、湯嶋聖徳太子開帳に行
廿一日  陰九半過少雨ふる
○芝を刈、龍花庵へお律同道参詣、観音戸帳納め
廿二日  陰九半より雨森々夜○昨日より妹背山に雁鴨来遊ふ
廿三日  霪雨繊々夕かた止む夜滂沱
○夕栗を拾ひに出
廿四日  雨霈然
○米杜よりお隆へ文、栗貰ふ○白銀より庭前の巨栗貰ふ
廿五日  大陰雨折々至冷気八過より森々
○雨中朧岡辺にて初菰をとる(二十八枚)
廿六日  雲多夕かたくもり寒し
○初茸を取る○七すき要かへる、醴・鉢うへ貰ふ○芝を刈
廿七日  薄曇寒し
○芝を刈、庵芦辺の雑樹を伐、水分石弁当
廿八日  秋雨如絲夕より沛然
○初茸をとり長春院へ手紙にてつかハす○雨中栗拾ひに出・大雨ゆへ帰る
廿九日  秋雨粛々折々止夜星光燦然
○松茸お隆も出、四十枚とる
○初茸十四五とり、芝を刈、水分石弁当

 信鴻は植物好きで、鉢植などを集め求め、貰ったり購入していたことは確かである。そのような記述は、一月に10日、二月に9日、三月に12日、閏三月に11日と、数多くある。また、庭でも、閏三月十二日に「庭の蕪菁を摘み六本木へ奉る」「蔦細道の蔦を鉢へうつす」などを、自ら行っていた。庭への関心は、二月廿九日「羅氈つはき、駒込へつかはす」、三月三十日「石燈籠・庭石、駒込へ車にてつかハす」などがある。しかし、五月に六義園に移る前には、植木を植えたり剪定するような作業はしていない。
 それが、五月二十三日に六義園に移ってからは、毎日のように庭へ出て、何らかの作業をしている。引っ越した翌日から、「早朝藤代の根の萌楓を取り」「夕かた庭にて松・楓・もみの萌を取る」とある。廿五日は「妹背山草を除」「鉢殖の草花を畑へ殖、山の百合を石台へ移す」など。廿六日は「七より水分石の樹を作り、妹背山の松を作り暮て帰」。廿七日は「朝庭を廻る」「万年青木を庭へ植る」と続いている。
 実生の苗を堀り、草刈り、移植、刈り込み剪定と、植木屋顔負けの作業をしている。上屋敷では行っていなかったと思われるのに、自ら率先してやるところを見ると、以前からよほどやりたいと思っていたのだろう。それにしても、十五万石の大名が隠居後に庭作業にのめり込むのは異例のことだろう。なお、大名のガーデニング好きいるもので、10年前(宝歴十三年1763年)になくなった岩城守山領主・松平頼寛は、キクの栽培を自ら行っていた。また、14年後(天明7年1787年)に老中になった松平定信も、ガーデニング好きで築庭していたが、自ら植木屋まがいの作業までは行わなかった。
 六義園は、信鴻が移り住んだ時点ではかなり荒れていたものと推測され、自力で再整備に挑んだ。その意気込みは、六月の作業記録を見ると明らかで、雨の降らない日を除く25日間も庭へ出て作業をしている。七月も26日間、ほぼ毎日といってもいいだろう。主な作業は、野放図に生育する雑木の伐採、松の手入れで、かなりの力仕事である。作業中には、六月十四日「五加蔵松を作り蜂にさゝれ巣をやく」や七月三日「足へ六寸計蜈蚣、這上がりおとす」などのハプニングがあった。作業は、供の者にだけでなく、何と側室のお隆も手伝っている。下級武士の妻が野菜づくりをするのは当たり前であったが、元大名の側室が土方仕事をするのは希有のことではなかろうか。
 八月に入っても、作業は続くが17日間と減少する。天候のせいでもあるが、その他に庭で楽しむことができたからであろう。先ず、四日「伐雑樹、庭へ西都出、式八も庭つくりに出、弁当水分石(永純も出)栗を拾ふ」と栗拾いが始まった。その日数は11日間、毎日拾うことはしないから、かなりの頻度である。たとえば、十七日は「朝より栗拾ふ(五六升)」。粒の大小にもよるが7㎏以上、10ℓバケツ一杯くらいになるだろう。またすぐには落ちないことから、二十日に「栗五六升拾ふ(四半出九半かえる)」ある。午前11時ころから、午後1時頃まで拾っていた。そうなると、その後に芝刈りなどの作業をすることになり、作業量は以前より減少する。
 さらに、廿六日には「初茸を取る」と、茸狩りが加わった。廿八日には、初茸狩と栗拾いを行っている。廿九日は「松茸お隆も出、四十枚とる」「初茸十四五とり、芝を刈、水分石弁当」と、松茸も出はじめ、庭作業の時間は短くなる。ちなみに、現代の暦と合わせると、栗を拾い始めたのは9月20日、初茸は10月12日となる。この時期になると、栗拾いや茸狩りは、信鴻に限らず江戸庶民も行っていたと考えてよいだろう。